国の成り立ち(4)〜沖縄に託された潜在主権〜

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    潜在主権という概念

    沖縄・奄美・小笠原は先に潜在主権のみ日本の元に回復されていた。

     

    講和条約の調印の場では、日本の主権回復と同時に、既に放棄した領土も含めて日本領の処遇が正式に再定義された。その内の米軍軍政下にあった島々はアメリカが施政を司ることが確認された。

    その範囲は北緯29度以南の南西諸島(沖縄 (琉球諸島) と奄美群島(奄美本島を含めた南側))及び小笠原諸島となる。

     

    日本に施政権はない。固より主権も日本は持つ事はできない。

    それが国際的な常識であるところ、昭和天皇は「潜在主権」という今までない概念をいち早くアメリカに提唱していた。

    そのことが後の本土復帰へと結び付いたと言われる。

     

    ソ連や中国共産党などの脅威に囲まれる中、この時、沖縄の主権を強引に取り戻したとしても、独自の軍を持たない日本は守り切れなかっただろう。

    アメリカがまず、沖縄を手放そうとしなかったのだから、施政権だけ日本へ移そうとしても敵わなかった。

     

    昭和天皇が提唱された潜在主権について詳しく見てみたい。

    もう一度、時間軸に沿って時をさかのぼろう。

     

     

     

    終戦まもない1947年、9月。前年末からシベリア等抑留地からの引き揚げが始まっていた。

    すでに連合軍が占領軍として日本へやって来た時から、沖縄・奄美・小笠原は米軍政下に置かれていた。

     

    世界情勢は依然、予断を許さなかった。

    日米共通の目的は、ソ連や国共内戦を制しつつある中国共産党が日本へ進駐する機会を与えないこと。米軍が撤退すれば過激な右翼左翼どちらかが事件を起こし、それを土台に内政干渉してくることを懸念していた。

     

    昭和天皇は、講和条約は日米の二国間条約で締結することを望まれていた。

    アメリカの沖縄占領は、日本に主権を残し長期租借という形で行うということ。今そこにある危機。戦後復興における日本の安全保障の危機から守るためであった。

     

    米軍部の目指すものは軍事拠点を置く「戦略的な信託統治」。国連の安全保障理事会への毎年の報告と審議を受けることがどうしても必要となる。そうなればソ連が拒否権を発動することが予測される。

    軍部内には、決して沖縄を他国の軍事基地として使わせてはならないという決意があった。

     

    9月19日。

    宮内府御用掛の寺崎英成は、昭和天皇の考えを携えて、GHQ政治顧問兼外交局長のウィリアム・シーボルドを日本橋三井ビルまで訪ねてきた。シーボルドにその意向を直接伝えるためだ。

     

    「沖縄の将来は、日本に主権を保持したままアメリカが25年から50年、あるいはそれ以上の長期租借という擬制によって、軍事占領が行われる必要がある。このことによって、日本国民は米国に沖縄諸島での恒久的な企てが無いことを納得し、他国、特にソビエトや中国による同様の権利の要求を封ずることができるであろう。このような占領は米国の利益となるとともに日本に防衛力を提供することになる」

    また、この会談の中で、寺崎氏は「軍事基地権」の取得手続きは、日本と連合国との平和条約の一部に含めるのではなく、むしろ米国と日本の二国間相互条約によるべきだと感じたという。前者の方式では、押しつけられた講和という色合いが強すぎて、近い将来日本国民の好意的理解を危うくする恐れがあった。

     

    国と国民の安寧を守ることに日夜心を砕いてこられた昭和天皇。

     

    この昭和天皇が提唱された方式を「潜在主権方式」という。日本に主権が潜在的にあることが前提の契約。

    条約締結と同時に主権は日本の元に戻ることで、実質日本から連合国が租借する形となり、その上でアメリカが代表して沖縄を司ることを目標に据える。

     

     

     

     

     

     

    サンフランシスコ講和条約(平和条約) 

    締結日:1951年9月8日

     

    第三条

     日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)孀婦岩(そうふがん)の南の南方諸島(小笠原諸島、西之島及び火山列島を含む)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。

     

     

     

    「潜在主権は日本にあり」という文言は、講和会議の米国及び英国全権大使が9月5日に述べた演説の中に出てくる。この文言は各国間の遣り取りの中で何度も丁寧に確認されているのが見て取れる。

     

    【サンフランシスコ講和条約 ダレス米国全権演説】1951年9月5日

    (3条関連部分を抜粋)

    第三条は、琉球諸島及び日本の南及び南東の諸島を取り扱っています。これらの諸島は、降伏以降合衆国の単独行政権の下にあります。若干の連合国は、合衆国主権のためにこれらの諸島に対する主権を日本が放棄することを本条約の規定とすることを力説しました。他の諸国は、これらの諸島は日本に完全に復帰せしめられるべきであると提議しました。連合国のこの意見の相違にも拘わらず、合衆国は、最善の方法は、合衆国を施政権者とする連合国信託統治制度の下にこれらの諸島を置くことを可能にし、日本に残存主権( residual sovereignty )を許すことであると感じました。

     

    【サンフランシスコ講和条約 ケネス・ヤンガー英国全権演説】1951年9月5日

    (3条関連部分を抜粋)

    琉球及び小笠原諸島に関しては、この条約は、これらの島嶼を日本の主権の外においては居りません。この条約は、北緯二十九度以南の琉球諸島を引き続き米国政府の管轄下に置くこと、即ちこれらの琉球諸島の中、日本に最も近い部分は、日本の下に残して置くばかりではなく、日本の行政権の下に置いているのであります。

     

    【サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説】1951年9月7日

     奄美諸島、琉球諸島、小笠原諸島その他平和条約第3条によって国際連合の信託統治制度の下に置かるることあるべき北緯29度以南の諸島の主権が日本に残されるというアメリカ合衆国全権及び英国全権の前言を、私は国民の名において多大の喜をもって諒承するのであります。私は世界、とくにアジアの平和と安定がすみやかに確立され、これらの諸島が一日も早く日本の行政の下に戻ることを期待するものであります。

     

     

    結果として、今に至るまで国連機構における手続きは行われず、沖縄が国連の信託統治領に置かれることはなかった。

    長く要衝の地として、米軍の管理下に置かれた沖縄。歴代の首相はこの「潜在主権」を切り口に、アメリカへの沖縄返還要求を継続していった。

     

    そして平和裡に、沖縄は日本の元へと帰ってきた。冷戦はまだ続く中、わずか20年で祖国復帰を実現させたことになる。

     

     

    国とは何かという探究と合わせて、昭和天皇は実に優れた感覚を持つ統治者であらせられた。そのことを申し上げたくて、ここまで書かせていただきました。次回からは、その戦勝国側から取り戻すきっかけとなった意向の詳細など、資料の補足をしていけたらと思います。

     

     

     

     

     

    *1946年1月26日、連合軍総司令部との覚書により、日本の小笠原諸島への施政権は停止された

    *1946年2月に北緯30度以南の南西諸島は行政分離されて米軍の統治下に入った(トカラ列島は、講和条約締結に伴って一足早く日本へ復帰した(1952年2月10日))

     

     

    *本土復帰の日*

    施政権の日本への返還

     

    奄美1953年12月25日

    小笠原1968年 6月26日

    沖縄1972年 5月15日 

     

     

     

    参考Web:Wikipedia(フリー百科事典)・・・・・・・・・・・・・

    blog「農と島のありんくりん」・・・・・・・・・・・・

    blog「沖縄対策本部」内記事・・・・・・・・・・・・・

    『沖縄祖国復帰を実現に導いた昭和天皇の「潜在主権方式」のご提案』

    blog「日本史ー今日子センセのワンポイント授業」内記事

    『沖縄とサンフランシスコ平和条約』


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    新たな同盟とヘタリアにみる先の冷戦

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      29日にワシントンの米国両議会に招かれた安倍総理が行った演説は、歴史の転換点のひとつとなったと言ってはばからないでしょう。まだ余韻に浸っています。

       

      東のはしの小さな島国と、西のはしの大きな国に、人は何かを求めて辿り着いた。

      人類の理想の、かたや古来からの道徳や武士道、かたや若々しい正義や希望。

      このふたつが広い海を越えて結び付けば何だってできる。

      今日は「歴史の試練」を乗り越えて、「対等に」付き合うことができるという記念の日。

      新たな同盟。希望の同盟。

      と、日頃、アルフレッド・アメリカがどうしようもなく好きな私としては、大風呂敷を広げたくなる演説でした。

       

      小泉政権下の時、初めて、ああ、日本はアメリカに負けたんだと思ったことを思い出します。それは既に過去のことだと思っていたのに。

      この日の演説では、過去を乗り越えた、同盟の形が示されていました。「アメリカに期待されるのは、過去も今も未来も、希望を作り出すことである。この同盟をこう呼ぼう。希望の同盟と」。「アメリカ」の心をくすぐる最後の言葉。

       

      夢みたいです、安倍政権。

       

       

      そしてこちらはそんなこんなでヘタリア熱が再燃して見つけた動画です。凄いです。

      主に米露の先の大戦から冷戦までを時間軸で追った、えと、MMDという技術が入った動画だそうです。ほんとに凄いです。

       

      自由の国「アメリカ」と、酷寒の大地に広がる国「ロシア」。

      過酷な潮流を切り抜けて来たこの世界。「日本」はこれから、何ができるでしょうか。




      【第12回MMD杯本選遅刻組】 まだ見ぬ明日へ 【APヘタリアMMD-PV合作】

       

       

      他の「国」の補足を少し。

      眉毛が太くてしょうがないなという仕草を垣間見せるのが「イギリス」です。

      そして、気取ってる長髪のお兄さんが「フランス」です。

      彼ら連合軍に追いつめられた二人組は「ドイツ」と「プロイセン」。

      「プロイセン」は、「ドイツ」の兄貴で、少しずつ領土を減らしながらドイツに溶け込み、大戦中は、ナチ党政権下に置かれました。そして終戦後はその一部が東ドイツとなります。

       

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      道長の歌(8)〜こぼれ話〜

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        最後に、道長や実資を始めとするこの時代を生きた方達の、人となりを窺い知れる逸話を集めてみました。

         

         

         

        *.長徳三年(997)道長数えで32歳

        この年の十月一日の孟冬旬の宴の最中、太宰府からの飛駅言上を取り次いだ近衛官人は、高麗の来寇を叫んだ。上下の者は驚愕し、道長をはじめとする三大臣は度を失って紫宸殿の東の階を降り、太宰大弐藤原有国の書状を読んだ。座を立つことなく冷静に対処した実資は、これを冷ややかに見ている。

        結局これは奄美海賊の九州乱入に過ぎなかった。

         

        *.道長と一条天皇のぎくしゃくした関係

        病弱でたびたび床に伏せる道長は、その都度、辞表や出家を一条天皇に申し出て困らせた。病脳平癒を期すという意味合いはもちろんある。だが、道長の本心は一条天皇の自分への信任を再確認しているだけというのを、若い天皇は汲み取ることができなかった。「弱気にならずとも。病体は邪気の引き起こすもの。そのままでいてくれ。」「ただその気持ちは受けとろう、出家するなら治癒してからでは如何か」となだめる一条天皇であった。心中複雑な様子の道長。

         

        *.長保元年(999)

        秋、娘の彰子が一条天皇の元に入内するにあたり、道長は調度品の四尺屏風に貼るための和歌を人々に詠ませた。数人の公卿や花山法皇までもが和歌を贈る中、実資は「大臣の命を受けて、屏風に歌をつくるなぞ、未だに前聞なし」と断り続け、「きっと道長は不快であろうか」と気にしつつも「これは追従しているようなもの。一家の風は、どうしてこのようなものであろうか。嗟乎(ああ)、痛いことよ」と嘆いている。

         

        *.寛弘三年(1006)

        大和守、源頼親の配下の当麻(たいまの)為頼と、興福寺の僧蓮聖との間の田をめぐる紛争に対し、大和国が蓮聖を提訴した。それに対して道長が下した判断は、蓮聖の公請(くじょう)の停止であった(僧が朝廷にて行う法会や講義からの閉め出し)。

        これを一方的な措置とする興福寺の大衆(だいしゅ:僧兵)が沸騰する。七月七日に提出した愁状が返却されたのを承けて、十二日に三千人が大挙して上京してきた。

        同日、興福寺別当の定澄が道長に脅しをかけたが、道長は全く屈しない。深夜には、僧達は京近くの木幡山に二千人を集めていることを知らせてきた。

        翌十三日、実資を初めとする十人の公卿が道長の住まいを訪れ、口々に不安を口にするが、道長は「大した事はない。陣の定め(通常の評議)が開かれることになっている。内裏に参られよ」と語り皆と同行して内裏に参った。

        通常の政務が終わるとその後に、朝堂院に参集している大衆を検非違使(けびいし)を遣わして追い立てるという宣旨を下した。告げられたものは次のとおり。「僧達が参上しているというのは道理が無い。早く奈良にまかり還った後、愁訴したいことあれば、僧綱が訴えるように。もしこのような事が有ったのならば不都合ではないか」。

        十四日には、大衆はすべて退去した。十五日に別当以下の高僧が道長の住まいを訪れ、道長が彼らの申文四箇条を一々裁定したところ、僧達は道長の裁定が事毎に道理であると称して還り去った。

        中世の僧兵や、それに対する朝廷の対応と比べると、隔世の感がある。

         

        *.長和元年(1012)

        三条天皇の世になって早々、明けて正月三日、女御となっていた次女の妍子を中宮にせよとの宣旨が天皇から道長のもとへもたらされた。二月十四日に、妍子は立后の日を迎える。

        三月に入ると、今度は天皇の寵愛深き女御娍子を皇后とすることを決断する。すでに第一皇子を初め、六人の皇子女を儲けていたとはいえ、大臣の後ろ盾のない者を皇后にすることは平安時代にはまれなことであった(他には一例しかない)。天皇の方から「一帝二后」を提案するとは何としたことだろう。

        道長は対抗する。娍子の立后の日に、妍子の初の内裏へ参入する入内の日をぶつけてきた。入内前後の響宴に公卿達は集まり、出席を促しに来た使者へ酒の上とはいえ、瓦礫を投げつける参議もいる始末。

        実資はこの日は病身の身であったが、「天に二日なし、土に両主なし。なんの巨害(道長)を怖るることあらん」と床を抜け出し参入した。

        結局、娍子立后の為に内裏に集まった公卿は実資の他、藤原隆家・懐平・通任(娍子の異母弟)の四人のみとなり、寂しい儀式となった。

         

        *.道長の病脳

        同年五月末から道長は重く病脳した。

        六月四日には、内覧と左大臣の辞表を奏上した。一条天皇とのやりとりに慣れきっていた道長にとって、二度目の上表を三条天皇が受けとったまま返却しないことは衝撃だった。「命を惜しむものではないが、一条を失った娘、彰子のことだけが気掛かりである」と涙ながらに実資に語っている。

        六月末には、道長の病脳を喜悦している公卿が五人いるとの噂が広がっていた。先の四人に加え、道長の兄の道綱までがということであった。道長は「道綱と実資に限ってそういうことはない」と述べて、噂を立てられた以上運を天に任せるしかないと嘆息していた実資を安堵させている。

         

        *.道長の三条天皇への思い

        一本気な三条天皇と道長は譲位が成立するその時まで対立が止むことはなかった。三条天皇は何とか親政に戻したいとの意志を持ち続けていた。そうでなければ愚頑であると。そのために命を長らえたいと娍子の立后の儀式の後に実資に語っている。

        寛仁元年(1017)の五月九日深夜、流行り病に罹っていた三条院は崩御された。

        道長は臨終に際して御側に仕えることなく、「ただいま無力にあらせられます」と聞くや地面に降り立った。そして崩御の後に退出している。

        十二日に行われた葬送では、道長はきわめて手際よく準備を整えたものの供奉しなかった。記すところには「志がなかったわけではない。身に任せなかったのである」と。なお、翌年の三条院の周忌法要の際には、「私は病脳していたので自らは参らなかった。嘆き思うことは少なくなかった」と「御堂関白記」に記している。

         

        *.刀伊の入寇

        ここに藤原隆家あり。若い頃から天下の「さがな者」(荒くれ者)であった。叔父であり、政敵でもある道長から「こころたましい」(気概)は見上げたものと認められ、世間一般からも道長の権力に屈せず娍子の立后の儀式に参加した気骨者とされた。

        眼病の治療と道長の圧迫から逃れるため、遠地での任務に心ひかれ、実資の勧めや同じく眼病に悩む三条天皇のいたわりにより、長和三年(1014)に太宰府の実質の長官である、大宰権帥に任じられた。

        寛仁三年(1019)刀伊の入寇が起こる。女真族(満州民族)の一派とみられる海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前へ侵入した事件である。これを隆家は見事、撃退する。

        その後、部下への恩賞を懇請した隆家の申し出に対し、朝廷にて諸国申請雑事定が行われた。道長へのおもねりに加え、各地の在庁官人や豪族が日増しに武力を増す現状に危機感を覚える大納言公任や中納言行成は、追討の勅符の到着を待たずに戦った隆家の行いに対して文官統治の観点から、「私闘である」と異議を唱える。これに対し、実資は問題があったことは認めつつも「今回の事件は、外敵が警固所に肉薄し、各島人が千人余りも誘拐され、数百人が殺された。壱岐の守藤原理忠も戦死した。しかし、太宰府は直ちに軍を動かしてこれを撃攘せしめた。何故に賞さないことがあろうか。もし賞さなければ、今後進んで事に当たる勇士はいなくなってしまうであろう」と弁じ立てる。

        これに公卿達は次々に同意した。ついに皆意見を同じくし褒賞が決議された。当時既に出家し、摂政を息子の頼通に譲っていた道長もこれを是としている。

        実資はこの時、右大臣に任じられるかどうかの大切な時期であったが、付和雷同することなく、ものごとの道理を滔々と述べている。

         

         

         

        道長の取った道は全て褒められたものとは言えないかもしれません。ただ、そう、ここで私が何か言うことは蛇足になりましょう。

        道長の和歌にまつわるエントリーはひとまずこれにて。

         

        参考書籍:倉本一宏「藤原道長の権力と欲望」文春新書

        参考Web:Wikipedia(フリー百科事典)

         

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        拠って立つところ

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          以前、中国の投稿サイトの翻訳まとめを見ていた時、中国と日本との違いは何からでてくるのかという話題の中で、大体こんなコメントがありました。

          「風土が思考を作り、思考が文化を作り、文化がその国を形づくる」

          さらっと言葉を紡ぐところに大陸の広さを感じます。

           

          選挙が終わって、その言葉を思い出しました。

          輸入物の主義や宗教に無理矢理染まる必要はありません。

          心に合うものだけ、取り入れていけばいいのです。

          分相応の暮らしで満足していたのは、お互いに相手を信頼していたから。

          底を流れるのは、民主主義でも社会主義でもない。

           

           

          そんなの素朴すぎるって?

          何、少しばかりの自助精神があればすぐ慣れます。

          こっちの水は甘いですよ。

          それでも勝ち負けにしか達成感を感じないというのならいいでしょう。

          いつでもその勝負、受けて立ちます。

           

          さあ、いかがでございましょう。

           

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          「理想」と「現実」

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            「真実」と「現実」のどちらを取るか。そんな問いかけがあったらどう答えましょう。

            国際社会の中では「現実」を取る国が、各国の調整役や落とし所を見つけるのがうまいそうです。

            イギリス人がうまいのは迷うことなく後者を取るからで、二ュートンを始め自然科学や数学に昔から強いのもそういう性格からきているとか。結論を出すまでが辛抱強い。

             

            この話、日本のエネルギー問題にもあてはまるのではないでしょうか。

            「真実」を「理想」に置き換えて、「理想」と「現実」の狭間に立っているとしたら、どちらを取るか。

             

            ゼロリスクが保障されない限り、原発の再稼働は許されないという考え。

            それから、もう一方では、今ある技術を駆使して様々な問題を乗り越えようという考え。

            私は後者の生き方が好きです。

             

             

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