近衛家の戦い(近衛文麿・下)〜八百年御側に仕え〜

0


    (転載つづき)

    ■■ Japan On the Globe(573) 国際派日本人養成講座 ■■■■

          地球史探訪: 近衛文麿の戦い(下)

                       命も名誉も捨てて近衛が護ったもの

        

    「見えない力」が、近衛を戦争犯罪者として追い詰めていった。

    1.「共産革命にまで引きずらんとする意図」■

         昭和20(1945)年2月、近衛は3年ぶりに直接、天皇に言上でき

        る機会を得て、上奏文を読み上げた。

        「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存知候」との断言で始め、「最

        も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革

        命に候」と述べた。

         ソ連は東欧諸国において着々と共産主義政権を樹立して、勢力を

        広げつつあった。東アジアにおいても、モスクワから野坂参三(後

        に日本共産党名誉議長となったが、ソ連スパイだった事が発覚し、

        除名処分)が中国共産党に合流して、日本での共産革命の準備を始

        めていた。

             少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと

            信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存

            じ候。・・・

             これら軍部内一味の者の革新論の狙いは、必ずしも共産革命

            に非(あら)ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志

            (之を右翼というも可なり、左翼というも可なり、所謂(いわゆ

            る)右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は、意図的に

            共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵しており、無智単

            純なる軍人、これに踊らされたりと見て大過なしと存候。・・・

            [1,p353]

         本土決戦を叫ぶ軍人たちは、日本を徹底的な壊滅状態に追い込ん

        で革命をもたらそうとする共産主義者の戦略に踊らされている、と

        近衛は見た。

             戦局への前途につき、何らか一縷(いちる)でも打開の望あ

            りというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、

            勝利の見込みなき戦争をこれ以上継続するは、全く共産党の手

            に乗るものと存じ候。・・・

         一刻も早く終戦を実現することが、日本を共産革命から救う道だ、

        と近衛は上奏したのである。

    2.「身命を賭して参ります」■

         天皇からのお召しで、近衛が再び参内したのは7月12日のこと

        だった。髪は乱れ、顔色も青ざめた天皇の姿が、近衛の胸を強く打

        った。「ソ連に使して貰うかもしれないから、そのつもりに頼む」

        と天皇は言われた。

         共産主義のソ連は信用できない相手であり、和平を講ずるなら米

        英との直接交渉しかないと主張してきた近衛にとって、ソ連への特

        使を頼まれることは考えてもいなかった。

         しかし、やつれた天皇の姿を前にしては、近衛はこう言わざるを

        得なかった。「容易なことではないと存じますが陛下のご命令とあ

        らば、身命を賭して参ります」

         ここは討ち死にする覚悟でスターリンと会わねばなるまいと近衛

        は肝に銘じた。周囲の者には「自分一身はどうなっても構わぬから、

        ただ皇室だけは安泰にしたい」と漏らした。

         日本側の特使派遣の打診に対し、モスクワからは回答を引き延ば

        した挙げ句、終戦の斡旋依頼は具体性を欠くから回答できない、と

        言ってきた。

         スターリンは2月に行われた米大統領ルーズベルト、および英首

        相チャーチルとのヤルタ会談にて、ドイツ降伏後3ヶ月以内での対

        日参戦を約束しており、すでにその準備を進めていた。

         近衛のルーズベルトへの和平交渉呼びかけも、このスターリンへ

        の和平仲介依頼も、対日戦争を決意していた相手に対して行われた

        わけである。近衛の虚しき奮闘は、昭和日本の姿そのままであった。

    3.マッカーサーへの建言■

         終戦は、鈴木貫太郎首相が昭和天皇の御聖断を引き出して、かろ

        うじて実現できた。替わって登場した東久邇宮内閣では、宮の希望

        もあって、近衛が副首相格として入閣した。

         占領軍を率いてやってきたマッカーサーに、近衛は昭和20(1945)

        年9月13日、そして10月4日と矢継ぎ早に会談を持った。近衛

        しては、今後の日本の将来を左右するマッカーサーに正しい認識を

        持って貰いたい、という一心だったのだろう。二度目の会談で、近

        衛はこう説いた。[1,p380]

             軍閥と極端な国家主義者が、世界の平和を破り、日本を今日

            の破局に陥れたことには一点の疑いもないが、皇室を中心とす

            る封建的勢力と財閥とが演じた役割とその功罪については、米

            国に相当観察の誤りがあるのではないかと思う。

             彼らは、軍国主義者と結託して今日の事態をもたらしたと見

            られているようだが、事実はその正反対で、彼らは常に軍閥を

            抑制するブレーキの役割をつとめたのである。軍閥や国家主義

            勢力を助長し、その理論的裏付けをなした者は、実にマルキシ

            ストである。日本の今日の破局に陥れたものは、軍閥と左翼の

            結合した勢力であった。しかるに日本では、財閥と封建的勢力

            除いて安定勢力はない。・・・

             今日直ちに一挙にこの安定勢力を除去すれば、即ち日本がす

            ぐ赤化に走るということを強く指摘したいのである。

    4.マッカーサーの激励■

         マッカーサーは近衛の話を聞き終わると、「有益でかつ参考にな

        った」と言い、こう激励した。

             公はまだお若い。敢然として指導の陣頭に立たれよ。もし公

            がその周囲に自由主義分子を糾合して、憲法改正に関する提案

            を天下に公表せらるるならば、議会もこれについてくることと

            思う。[1,p380]

         支那事変と対米英開戦を阻止できなかったことに深く責任を感じ

        ていた近衛は、憲法改正こそ自分の責任を果たす道と奮い立ったで

        あろう。早速、総司令部のアチソン顧問に相談しながら、京大の憲

        法学者佐々木惣一博士らブレーンを集めて、草案作りに着手した。

         マッカーサーとの会見の翌日、東久邇宮内閣は総辞職し、第4次

        近衛内閣を望む声も強かったが、幣原喜重郎が後継首相となった。

        外相として内閣の要をなしていた吉田茂は残念がったが、「この次

        のために近衛公はとっておいた方がいい。いずれにしても近衛公は

        日本にとってかけがえのない人だから」と近衛を推した人々を励ま

        した。

    5.運命の暗転■

         しかし、それから1ヶ月も経たない11月1日、占領軍総司令部

        は近衛に対して、手のひらを返したような仕打ちに出た。「憲法改

        正は東久邇内閣の副首相としての近衛に委嘱したことで、内閣が交

        替した以上、その委嘱は当然、解消された」というのである。

         マッカーサーからの委嘱は10月4日であり、内閣交替はその翌

        日であった。それ以降も総司令部のアチソン顧問が相談に乗って、

        新憲法草案を検討してきたのであるから、この声明はいかにも不自

        然なものであった。

         11月9日には米政府から派遣された戦略爆撃調査団によって近

        衛は駆逐艦「アンコン」に連行され、長時間の取り調べを受けた。

        尋問から帰ってきた近衛はこう漏らした。[1,p414]

             取り調べはひどいものでしたよ。全く検事が犯罪人の調書を

            とるようなものだった。私も戦犯で引っ張られますね。

         この予想どおり、12月6日には総司令部から戦犯としての出頭

        命令が出た。その出頭期限日の前日、12月15日晩に近衛は服毒

        自殺を遂げたのである。

         マッカーサーから「敢然として指導の陣頭に立たれよ」と激励さ

        れた10月4日から1ヶ月も経たないうちに、近衛の運命は暗転し

        た。そこにも「見えない力」が働いていたのである。

    6.「日本史研究者」ハーバート・ノーマン■

         10月4日、ちょうど近衛がマッカーサーに励まされていた頃、

        東京の府中刑務所では総司令部の対敵諜報部課長ハーバート・ノー

        マンによって解放された徳田球一や志賀義雄ら共産党幹部16名が

        バンザイを叫んでいた。

         ノーマンはカナダ人宣教師の子として軽井沢で生まれた。後にハ

        ーバード大学で日本史を研究している間に、日本からの留学生・都

        留重人と出会い、マルクス主義の同志として親交を結んだ。ノーマ

        ンは実兄に向けた手紙で次のように都留のことを紹介している。

             ところで、ここにいる、僕と同じような考え方をしている日

            本人の友人について、あなたに話したでしょうか。彼は僕が今

            まで会った中で最も進んだ、有能なマルクス主義者の一人で、

            、、[1,p387]

         戦争の最中、1944(昭和19)年に、ノーマンはカナダにて『日

        本の将来』という報告書を書き上げた。そこにはこんな一節がある。

             それにしても、天皇こそ日本帝国主義の全組織にとっての要

            石なのであるから、彼を温存することは日本の反動勢力の全機

            構を維持することに他ならない。・・・要するに日本を非武装

            化しても天皇制が残されている限り、日本は全世界にとって解

            決されない危険な難題として残ることになるだろう。[1,p401]

         こういう「日本史研究者」が、その日本に関する知識と日本語能

        力を買われて、占領軍総司令部に入り込んでいたのである。当然、そ

        の目的は占領軍の権力を使って、日本での共産革命を実現すること

        であった。

    7.ノーマンの近衛誹謗■

         しかし、マッカーサーに共産革命の危機を説いた近衛が、新憲法

        の草案作りに着手した事にノーマンは重大な危機感を抱いたはずで

        ある。このままでは共産革命が頓挫してしまう。

         そこでノーマンは「戦争責任に関する覚書」を作成して、近衛を

        戦争犯罪者として弾劾する文書を作成した。

             ある人間が流血と戦争と戦争にともなうあらゆる不幸をそそ

            のかしておきながら、あまりに「優雅」で自分の仕出かした結

            果を見つめたり認めたりできないということは、実に奇妙で不

            愉快である。・・・

             一つ確かなのは、かれらが何らか重要な地位を占めることを

            許されるかぎり、潜在的に可能な自由主義的、民主主義的運動

            を阻止し、挫折させてしまうことである。[1,p397]

         持って廻った文体に燃え上がるような憎しみを込めて、ノーマン

        は近衛を戦争犯罪者として弾劾した。

    8.東京裁判の予行演習■

         同時期にニューヨーク・タイムズ紙に、次のような投書が載った。

             近衛を現在、その地位にとどまらせておくのは、日本の降伏

            以来、極東で起きているもっとも危険なことであり、われわれ

            が犯した最悪の失敗である。[2,p170]

         寄稿者は太平洋問題調査会の機関誌への寄稿メンバーだった。この

        会にはソ連工作員も暗躍していたことが後年明らかになっており、

        ノーマンもカナダ代表として参加していた。あきらかにノーマンの

        近衛追い落とし工作の一環である。

         同様の趣旨の社説が同紙に掲載され、それがまた朝日新聞によっ

        て国内にも紹介された。

         ノーマンの近衛追い落とし工作の極めつけが、戦略爆撃調査団に

        よる取り調べだった。ノーマンの同志・都留重人もこの調査団に入

        っていた。

         そこでは、近衛は首相として「中国併合」を狙った中心人物であ

        り、また9月6日の御前会議は、対米交渉を装いながら戦争準備を

        進めたものとされた。近衛の必死の和平交渉の努力は、正反対に解釈

        されていた。まさに東京裁判の予行演習であった。

         こうしたノーマンの暗躍によって、総司令部は近衛を憲法草案作

        成の仕事から外し、さらに戦争犯罪者として出頭命令を出したので

        ある。

    9.命も名誉も捨てて■

         近衛は戦略爆撃団の尋問を受けて、米国が史実をねじ曲げてでも、

        すべての戦争責任を日本側に押しつけるつもりだ、という意思を察

        した。そして、その首謀者として自分を血祭りに上げようとしてい

        る陰謀を感じ取った。帰りの車の中で、近衛は「やられた、やられ

        た」と独り言を繰り返した。[2,p21]

         しかし、米国が日本を侵略国家に仕立て上げようとしている以上、

        誰かがその首謀者として犠牲にならなければならない。首相であ

        った自分がすべての罪をひっかぶれば、そこで天皇への追求を遮る

        ことができる。近衛は自決の前日に、「もし陛下に戦争責任の累が

        及ぶのだったら、臣下として生きている訳にはいかぬ」と二度も繰

        り返した。[1,p424]

         こうして近衛はすべてを黙したまま、服毒自殺を遂げた。朝日新

        聞社説は「死者に鞭打つ気持ちはないが」と前置きしながら、「近

        衛公が政治的誤りを犯し、戦争責任者たりしことは一点疑いを容れ

        ない」と死者に鞭打った。近衛の狙い通りである。

         近衛はノーマンの工作を逆手にとって、戦争犯罪者として罪と汚

        名を引っ被ったまま、黙ってこの世を去った。そしてその志どおり、

        皇室は安泰を得た。ノーマンの皇室廃止と日本共産化の野望は、近

        衛の自決によって頓挫したのである。

         800年近くも皇室をお守りしてきた近衛家の当主としての責任

        を、近衛文麿は自らの命も名誉も捨てて果たしたと言える。

         ちなみにノーマンは、1952年にアメリカ上院司法委員会によって

        ソ連のスパイであった可能性を指摘され、カナダの外交官という身

        分からエジプト大使に転身して追求を逃れたが、1957年カイロで謎

        めいた投身自殺を遂げた。

                                             (文責:伊勢雅臣)

    参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)

    1. 工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず近衛文麿と天皇』★★、

       日本経済新聞社、H18

    2. 鳥居民『近衛文麿 「黙」して死す』★★、草思社、H19

    © 平成20年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.
     


    近衛家の戦い(近衛文麿・上)〜八百年御側に仕え〜

    0


      (長文転載)

      ■■ Japan On the Globe(572) 国際派日本人養成講座 ■■■■

            地球史探訪: 近衛文麿の戦い(上)

                        日本を戦争に引きずり込んだ「見えない力」

      戦争を阻止すべく、近衛文麿首相は日米首脳会談実現に全力を上げたが、、、

          

      1.「僕の志は知る人ぞ知る」■

           昭和20(1945)年12月16日朝、青酸カリを飲んですでに冷た

          くなっている近衛の遺体が発見された。近衛は戦争犯罪容疑で米軍

          に呼び出しを受けており、その前夜、次のようなメモを遺していた。

               僕は支那事変以来、多くの政治上過誤を冒した。之に対し深

              く責任を感じて居るが、所謂(いわゆる)戦争犯罪人として、

              米国の法廷に於(おい)て裁判を受けることは、堪え難いこと

              である。殊に僕は、支那事変に責任を感ずればこそ、この事変

              解決を最大の使命とした。そしてこの解決の唯一の途は、米国

              との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたの

              である。その米国から今、犯罪人として指名を受けることは、

              誠に残念に思う。

               しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於(お)いてさ

              え、そこに多少の知己(ちき)が存することを確信する。[1,

              p18]

           米国における「知己」の一人が、近衛が首相として日米交渉に全

          力を尽くしていた時の駐日米国大使ジョセフ・グルーである。グル

          ーは近衛が万策尽きて首相を辞任した際に、次のような手紙を送っ

          ている。

               日本のために貴下が捧げられた、長い難渋な、この上なく卓

              抜な公的奉仕に敬意を表します。[1,p253]

           近衛は昭和18年4月、すでに敗色濃厚となった大戦の最中に、

          支那事変当時を回想して、次のように述懐している。

               なにもかも自分の考えてゐたことと逆な結果になつてしまつ

              た。ことこゝに至って静かに考へてみると、何者か眼に見えな

              い力にあやつられてゐたような気がする。[2]

          「何者か目に見えない力」が、近衛内閣を支那事変に巻き込み、対米

          戦争に駆り立て、そして今また近衛を戦争犯罪容疑で死に至らしめ

          たのである。近衛の悲劇は、昭和日本の歩みの象徴であった。

          

      2.日本を支那事変に引きずり込んだ内外二つの力■

           支那事変は、昭和12年(1937)年7月、近衛の第一次内閣発足の

          一ヶ月後に勃発したものである。その発端となったのが、北京郊外

          の蘆溝橋での日本軍と国民政府軍の衝突で、中国共産党によって両

          軍を戦わせた陰謀である事を示唆する証拠がいくつか見つかってい

          る。

           近衛は不拡大方針をとり、現地では停戦協定も結ばれたが、日本

          軍は何度も不法射撃を受け、通州では260余名の日本人が虐殺さ

          れた。さらには上海でも中国共産党に通じた国民政府軍の高官が日

          本軍を攻撃して、戦火を広げた。

           一方、近衛内閣の内部にも、共産主義者が忍び込んでいた。近衛

          がブレーンとしていた昭和研究会のメンバー、元朝日新聞記者・尾

          崎秀實は「東亜共同体」建設のために、親日政権の樹立を主張して

          いた。これは裏返せば、蒋介石政権打倒を意味し、日本と国民政府

          を戦わせて、共倒れさせ、日中で「赤い東亜共同体」を建設しよう

          という陰謀であった。

           昭和研究会周辺には共産主義者がいるらしい、との噂が出始めて、

          近衛は第2次、第3次内閣では尾崎を遠ざけた。噂は真実で、後に

          駐日ドイツ大使館顧問のリヒャルト・ゾルゲがソ連のスパイである

          事が発覚した際に、尾崎もその協力者として逮捕され、死刑に処せ

          られている。

           こうして近衛内閣は、内からと外からの共産主義勢力の謀略によ

          り、支那事変に引きずり込まれていったのである。

           昭和14(1939)年1月、支那事変を収拾できないまま、近衛内閣

          は総辞職した。

      3.「多くの政治上過誤を冒した」■

           昭和15(1940)年7月、第2次近衛内閣が発足した。すでに欧州

          大戦でヒトラーの快進撃が始まっており、「バスに乗り遅れるな」

          との声が国内にも上がっていた。ドイツ、イタリアとの三国同盟を、

          前任の米内光政内閣はなんとか抑えこんでいたが、近衛内閣発足後2

          ヶ月で成立させてしまう。

           さらに日本軍の南部仏印進駐を契機に、アメリカの対日石油全面

          禁輸を招き、日米間の緊張が高まった。近衛は、三国同盟を推進し

          てきた松岡洋右を更迭し、第三次内閣を発足させた。

           第1次内閣での支那事変収拾失敗と、第2次での三国同盟成立、

          第3次の日米対立と、近衛の首相在任中にわが国は大きく戦争に近

          づいていくのだが、それを近衛は「僕は支那事変以来、多くの政治上

          過誤を冒した」と振り返っているのである。

           華族筆頭の名家に生まれ、下積みの経験もないまま首相にまでな

          ってしまった近衛の脇の甘さが、こうした過誤の原因だろう。しか

          し、日米戦争の危機を迎えて、近衛は立ち上がった。

      4.「生命のことは考えない」■

           昭和16(1941)年8月4日、開戦の4か月前、近衛はある覚悟を

          陸海両相に打ち明けた。

               これまでの日米交渉では種々の誤解や感情の行き違いもあり

              このまま進んでしまって戦争となることは陛下にも国民にも

              申し訳がない。今は危機一髪のときであって、野村大使だけを

              通じての交渉では時期を逸するかもしれない。

               そこで自分はホノルルにおいてルーズベルト大統領と直接会

              談をして帝国の真意を率直に述べたいと思う。・・・この会談

              は急を要する。

           及川海相は即座に賛成し、東條陸相は種々注文をつけながらも異

          存ないと言ってきた。

           さっそく天皇に奏上したところ、「石油の全面禁輸に関し、海軍

          側の情勢もあることだから、大統領との会見は速やかにせよ」と督

          促されて、近衛は決心を固めた。

           その決心とは、ルーズベルト大統領との会談で支那からの撤兵を

          要求されたら、その場で電報で天皇の裁可を仰ぎ、決定調印すると

          いう非常手段をとることだった。

           周囲から「そんなことをしたら殺されるに決まっている」と心配

          する声があがったが、近衛は、生命のことは考えない、と答えた。

      5.近衛の「生涯の喜び」■

           近衛の提案を受けたルーズベルトは、「私の警告と平和的プログ

          ラムに従うなら、近衛と会ってもよい、場所はアラスカのジュノー

          でどうか。期日は十月中旬ということにしよう」と回答した。「警

          告」とは、日本がこれ以上侵略を続ければ、たとえアメリカ自体が

          攻撃されなくとも、その第三国(英国、オランダを含む)を援助す

          る、という内容であった。

           近衛はその「警告」を原則承知する回答を付けて、訓電させた。

          この近衛回答にルーズベルトは納得して頷いたという。近衛はこれ

          を生涯の喜びとして手記『平和への努力』にこう書いている。[1,

          p241]

               大統領は余のメッセーヂを読み、「非常に立派なもの」と大

              いに賞賛した後、「近衛公とは三日間くらに会談を希望する」

              といひ、期日に関してこそ言質を与へなかったが、大いに乗気の

              色を見せたのである。

               恐らくこの時が日米の一番近寄った時であったかも知れない。

           しかし、近衛の喜びは長くは続かなかった。9月3日、ルーズベ

          ルトは野村大使を呼んで近衛への返書を渡した。

               この会談そのものには賛成するが両国の国内事情も多々ある。

              近衛公には同情するがやはり事前の予備交渉で詰める事が必要

              だろう。

           ルーズベルトが態度を翻した裏には、国務長官コーデル・ハルが

          「首脳会談の前に話をまとめておかねば会談を開く意味はない」と

          譲らなかったからである。

      6.「私は3カ月間は日本を赤ん坊扱いできる」■

          

           実は、ルーズベルトの周辺にも共産主義者たちが入り込んでいた。

          彼らは日米を戦わせることで、日本の軍事力を米国に向け、ドイツ

          と戦っていたソ連を護ろうとしたのである。 

           後にハルの名を冠した「ハル・ノート」なる要求が日本政府につ

          きつけられた。これは米国議会にも秘密にされており、後にその内

          容を知った共和党下院リーダー、ハミルトン・フィッシュ議員が

          「この最後通牒により、日本を開戦に追込んだ責任がルーズベルト

          にある」と断言したほど、厳しい要求を盛り込んでいた。

          「ハル・ノート」の原案は財務次官ハリー・デクスター・ホワイト

          が作成しており、彼は後にソ連のスパイであったことが明らかにな

          っている。

           こうした共産主義者たちに乗せられていたルーズベルトはすでに

          対日開戦を決心しており、近衛の提案を受け取る直前には、英国首

          相チャーチルと会談して、第二次大戦の指導方針や戦後処理に至る

          まで合意していた。

           その際に、ルーズベルトは「私は3カ月間は日本を赤ん坊扱いで

          きる」とまで言っていた。近衛の回答を賞賛したのも、「赤ん坊扱

          い」の一つだったのだろう。

           近衛は「生命のことは考えない」と言うほど、日米開戦を避ける

          ために必死の思いで奮闘した。しかし、日本を戦争に陥れようとい

          う「見えない力」が米国側にも働いている事に、近衛は気がついて

          いなかった。

          

      7.グルーとの会見■

           9月6日、御前会議が開かれ、陸海軍首脳部がまとめた「帝国国

          策遂行要領」が提示された。それは「10月下旬を目途に対米戦争

          準備を完遂する」「並行して米英との外交交渉を進める」「10月

          上旬に至っても外交交渉の目途がつかない場合は対米開戦を決意す

          る」というものだった。

           昭和天皇は「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさ

          わぐらむ」との明治天皇御製を拝誦され、陸軍の主張する戦争準備

          は進めても、なお「外交を第一とせよ」との思し召しを示された。

           東條はこれに驚愕し、「聖慮は和平を望んでおられる。こうなっ

          たら何としても日米交渉を成功させねばならない」と自分に言い聞

          かせるように言った。天皇の思し召しにより、近衛の進めていた日

          米交渉の重要性を軍部も再認識する所となった。

           この晩、近衛は駐日米国大使グルーと秘かに会い、こう説いた。

               自分が大統領と直接会談できれば双方の見解対立を必ず解決

              できる。現内閣では陸海軍は一致して交渉の成立を希望してお

              り、こういう機会は生涯のうちにまたとないから、この際一刻も

              早く大統領と会見して根本問題につき意見を交換したい。・・・  

               自分は身の安全も顧みず、日米関係の再建のために命をかけ

              たいと思っている。もしアメリカへ行くなら一行の船には東京

              の天皇と直接交信できる性能を持ったラジオを装備し、大統領

              と合意に達することがあれば天皇に奏上し、詔勅が発せられ、

              即刻すべての敵対行為を取りやめる命令が下されることになっ

              ている。[1,p246]

           グルーは、早速、近衛との会談を受諾するよう促す電報を本国に

          打った。そして、日本の和平派は未曾有で極めて危険なことだが、

          天皇を介入させてアメリカとの戦争を避け、日本の方向転換実現の

          ためにあらゆる可能な方法を用いる覚悟をしている、と自らの手記

          に遺した。

      8.東條との対立■

           しかし、10月2日にハルから示された回答は、近衛の提案を一

          蹴したものだった。日本が中国の特定地域に不特定期間駐屯しよう

          としていることを非難し、日米首脳会談は両国間になお現存する意

          見不一致のままでは効果を望めない、と突き放したのだった。

           この回答に軍部は「外交交渉に望み無し、もはや開戦やむなし」

          との意見で固まってしまった。それでもなお、近衛はあきらめずに、

          10月5日、東條を私邸に呼んで話し合った。

           近衛はまだ外交交渉の望みを捨てるわけにはいかない、と迫ったが、

          東條は、もはや承伏しがたい、と態度を硬化させたままだった。

               一番問題になっているのは、三国同盟ではなく支那の駐兵だ

              と思うから、ここは一度引き上げて、わずかな資源保護くらい

              を名目とした兵を残すだけにしてはいかがか。[1,p249]

           東條は「アメリカの態度は強硬で明白だ。駐兵拒否といわれては

          陸軍は譲れない」と突っぱねた。こんな押し問答が何度も続いた。

           東條の説得に失敗した近衛内閣は総辞職し、内大臣・木戸幸一の

          推挙で、東条内閣が登場する。東条は、昭和天皇の意向に従って最

          後の対米交渉を進めたが、その努力もむなしく遂にハル・ノートを

          突きつけられて、開戦を迎えることになる。

          

      9.「日米交渉に全力を尽くした」近衛■

           この経緯を辿れば、近衛が「日米交渉に全力を尽くした」という

          のも誇張ではないことが理解できよう。そしてグルーがそれを「長

          い難渋な、この上なく卓抜な公的奉仕」と称賛したのも単なるお世

          辞ではないことは明らかである。

           米国が真に平和を望んでいるとしたら、グルーが促した通り、日米

          会談を受諾して、和平への一縷の望みを模索したはずである。しか

          し、ルーズベルト大統領はすでに対日開戦を決意しており、近衛の

          必死の提案を一蹴したのである。

           その米国が日本を占領して、近衛を「戦争犯罪人」として検挙し

          ようとは、いかにも理不尽な仕打ちであった。実は、そこにも「見

          えない力」が働いていたのである。

                                         (続く、文責:伊勢雅臣)

      参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)  

      1. 工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず−近衛文磨と天皇』★★、

         日本経済新聞社、H18

      2. 三田村武夫、「大東亜戦争とスターリンの謀略」★★、自由社、

         S62

      © 平成20年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.


      元気のでるおまじない(Olympic)

      0




         



         


         

        スペイン在住のデザイナーかんかんさんの考案した作品です。
         

        彼女のツイッターから

        扇は末広がりで縁起がいいものとされ、古くから応援するときの道具として使われてきたので、オリンピックのモチーフとして最適&「和」も感じられていいかなと。「多くの人で支えられている日本(日の丸)」を扇の中で表現しています。



        そこに在る扇とひるがえる扇
         

        もし、2020年のオリンピックロゴが仕切り直しとなり広く公募の中から選ばれるとしたら、こういうハレの日の気分を盛り立たせてくれるデザインがいいですね。このデザインと同じく、パラリンピックが脇役ではなく、独立しているものなら一層心はずみます。

         

        かんかんさんのあの扇が桜へと代わり…というイメージをアニメーションにしたいというつぶやきに

        naxさんが早速応えていました。

        https://vimeo.com/136943261
         

        先ほど、かんかんさんのツイッターをのぞいたら、匿名者投稿のこんなGif動画もありました。
        この切磋琢磨な自由な雰囲気はオリンピック。

         

        広がれオリンピック精神

        タイミングを同じくして、MGRつながりのチャロチャロさんのブログでもこの扇ロゴ関連の記事が上がりました。そもそも、エンブレムをデザインするとは?というアプローチは切り口鋭くてめっぽう面白いです。色々理解が深まります。

        YUuuuさんのアニメーション作品



         


        きょう1号機発送電開始(転載)

        0

           九州電力は13日、再稼働した川内原発1号機(薩摩川内市)の発電と送電を14日午前9時ごろ始めると発表した。同日は出力を30%まで上げ、8月下旬ごろからフル出力運転を行う。発送電は定期検査で停止した2011年5月以来、4年3ヶ月ぶり。

           九電は、夏場の電力供給が不足する恐れがあるため、中部電力や中国電力からの融通を受けている。1号機がフル出力運転できれば、自前で対応できる見通し。供給余力を示す予備率も、安定供給に最低限必要な3%から5.1%に改善する。

           13日午後4時半ごろに発電用のタービンを起動。回転数を発電時と同じ毎分1800回転まで1時間半かけて上昇させた。タービンに異常が発生した場合に、流入する蒸気を遮断する装置が正常に動くか確認する検査なども実施。タービン車軸の振動が正常でバランスを取る作業が不要になり、発送電開始が当初予定の14日午後6時ごろより早まった。

           1号機は11日に原子炉が起動して再稼働し、同日夜に核燃料の核分裂が安定する「臨界」に達した。9月上旬の営業運転開始を目指している。

          (雪松博明)

          南日本新聞 2015日8月14日掲載分


           

          安倍談話の後のNHK出演の中でも、総理から川内原発へ関しての言葉がありました。

          今、原発がベースロード電源として選択肢の中にあることの必要性。それから、防災面からこれからも、より充実した避難計画を目指していくということ。

          半径10Km圏内の災害時要援護者に関しては、避難手段や経路、必要なバスの確保が獲得できたそうです。

          原料のウランは、100%輸入に頼っています。ただ西からではなく主な輸入先はオーストラリアやカナダなので、石油とは違う輸入経路を辿ることからエネルギーの安定確保につながります。

          再稼働からの一連の流れに、ひと安心しました。鹿児島県民としてこれからも自分に出来ることを確かめていきたいです。



           


          一歩一歩確実に(川内原発関連記事)

          0


            こちら鹿児島は、朝早くから蝉時雨。今日も暑くなりそうです。

            記録を兼ねてニュースをまとめてみました。
             

            薩摩川内市にて

            川内原発半径5Km圏内は安定ヨウ素剤の事前配布の必要あり

            →今だ対象者の3割の住民(約1300人)が受けとっていない(5月末時点)

            その必要性や副作用などへの懸念からヨウ素剤配布会へ足を運ばない人が多い

            8月中旬から10月末にかけて市職員の戸別訪問の予定あり
             

            川内原発1号機は10日から原子炉を再稼働させ、13日前後には発電と送電を開始する見通しです。

            安定ヨウ素剤の配布に関してまとめています。→「甲状腺内部被曝予防策」


             


            ゆめもめぐみもきかまほし〜「天皇の料理番」のエピソードから〜

            0


               秋山徳蔵が妻俊子を亡くしたのは、大正天皇がお隠れになって間もない頃でありました。皇太后(貞明皇后)から悔やみのお言葉を頂いた徳蔵が大宮御所までその礼に参ると、皇太后は入江大夫を通じて1体の人形を賜ります。

               亡くしたのは妻であるのに。

               翌日、徳蔵は再び大宮御所へ赴き、入江大夫に人形を頂いた件で礼を述べます。

               それに大夫は歌で応えて。
               

              亡き妻の ゆめもめぐみも きかまほし 世々につたえよ これの人形(ひとがた)


               

              「きかまほし」… 聞きたい。聞いてみたい。

              【動詞】「聞く」の未然形の「きか」+【助動詞】「〜まほし」([願望]を表す)

               残された子供を大切にせよとの意味が込められた人形と、俊子の心情へ思いを馳せたこの和歌の書かれた色紙は、秋山家の家宝となりました。

               秋山徳蔵は「忘れ得ぬ2人の婦人」として、貞明皇后と妻俊子の名前を挙げていたといいます。


               

              .*+.*.。 「めぐみ」 ゚+..*+
               

              元々、「めぐみ」は「恵」とも「恩」とも書いた。

              恩は、許慎の「説文解字」によると、後漢時代の中国ではすでに「恵(めぐみ)」という意味であったし、日本でも「日本書紀」や「古語拾遺」などで、「めぐみ」「みうつくしみ」「みいつくしみ」という読み方が為されていた。

              言葉の語源にさかのぼれば、「芽ぐみ」となる。春に草木が芽ぐむことから。

              春の陽気に誘われて草木は目覚め、生命力がはぐくまれていくのと同じように、他者に命を与えたり、命の成長を助けるということ。
              「恵」と書けば人から人へ渡るものでもあるし、「恩」であれば師や親からだけでなく、友人同士で互いに睦み合う中で生まれるものでもある。
               


              住民避難計画の進捗状況

              0


                川内原発の再稼働にまつわるニュースや、原発事故を想定した対策についてまとめています。1号機の再稼働はこの夏が終わる前には叶いそうです。
                今回は、原子力災害時の被曝防止に向けて練られている対策の内、住民避難計画について焦点を当ててみます。

                防災は、不断の見直しです。整えられた事前準備の大切さ。

                遅れているとの指摘があった県内のバス事業者と県との協定も、5月の時点で概要ができました。

                乳幼児をはじめとする要援護者をいかに確実に避難させるか。ここがこの避難計画で一番肝心なところです。

                原発事故時において、半径30キロ圏内の住民一斉避難は想定していない。

                段階的に対応する。

                大体、3段階に分けられている。

                ※=避難手段がない者にはバス事業者による緊急輸送が取られる。

                一.警戒事態

                施設敷地緊急事態要援護者(災害時要援護者・安定ヨウ素剤の事前配布を受けていない者・安定ヨウ素剤の服用が不適切な者など)の輸送準備(安定ヨウ素剤:参照「甲状腺内部被曝予防策」

                二.施設敷地緊急事態 …放射線が敷地外へ出る恐れが出て来た事態

                5キロ圏内(PAZ)の住民の内、施設敷地緊急事態要援護者とその支援者を対象に避難させる()。

                三.全面緊急事態 …放射線が敷地外へ出る恐れが高まった事態

                PAZの一般住民を対象にした避難命令。この場合、避難手段は原則自家用車で30キロ圏外へ避難する()。

                5〜30キロ圏(UPZ)の住民は、屋内退避。

                UPZの住民は、屋内退避後にプラント状況や空間放射線量率等に応じて段階的に避難する。

                ※(事前準備)

                ・バスと運転手の確保

                ・事業者側の安全確保とバックアップ体制

                ・鹿児島県で事業者へ協力を要請するのは、概要では、積算被曝限度が一般公衆の年間限度の一ミリシーベルトを下回る場合となっている(自然放射線を除く)

                 (課題)

                ・万一の補償や除染対応、通信手段、燃料の確保、渋滞対策など

                 
                 

                *PAZ(Precautionary Action Zone)=予防的防護措置を準備する地域

                予防的な防護措置とは、即時避難を実施する等、放射性物質の環境への放出前の段階からの防護措置のこと

                *UPZ(Urgent Protective Action Planning Zone)=緊急時防護措置を準備する地域

                緊急時には、事態の規模や時間的な推移に応じて、屋内退避のみならず避難等の防護措置も出来るよう準備を整える必要がある


                 


                モウソウ竹と琉球口貿易(転載)

                0


                  最終回

                  『仙巌園(鹿児島市)』

                   1914(大正3)年3月16日。ウィルソンは仙巌園の山手北側で、モウソウ竹(江南竹)の林を観察していた。竹林奥に立つ石碑「仙巌別館江南竹記」によると、1736(元文元)年、島津家21代当主吉貴が琉球国に中国江南地方原産のモウソウ竹を所望し、2株を取り寄せ移植したところ、領内のシラス台地に見事に根付いた。

                   モウソウ竹の日本伝来については、道元や隠元といった高僧に由来する京都起源説や、近い所では蒲生の旧領主樺山家が伝えたという蒲生起源説など諸説存在する。が、18世紀後半に江戸で大流行した記録があることから、徳川家とパイプを太くしていた島津氏が将軍に献上し、やがて庶民に広まったという仙巌園発祥説は説得力がある。古来日本にあったマダケと比べ柔らかくおいしく、春いちばんに芽を吹くモウソウ竹の筍は初物好きの江戸っ子の心をつかんだ。

                   季節柄、ウィルソンも新鮮な筍の味覚を楽しんだ可能性はある。日本に先立つ中国探検で目にしたモウソウ竹が、島津公爵の庭に繁茂している。その背景をも咀嚼しながら、カメラを向けた思いを想像してみる。

                   1609(慶長14)年、財政危機にあった薩摩が琉球国に武力侵攻し、中国への進貢貿易の利権を握った。琉球口と呼ばれるこの間接貿易で得た利益と海外情報が、28代当主斉彬の集成館事業へと集約されていき、仙巌園の南に時代の先端をいく洋式工場が次々に建てられた。2株の竹が全国に拡大したように、薩摩から近代日本の礎となる技術が波及していったのである。

                   翌日、ガラス乾板に写し取った60枚の写真を梱包し、ウィルソンは鹿児島を後にした。そして3年後に再び日本の地を踏んだ時、真っ先に沖縄に足を運んでいる。仙巌園の竹林が、南の島へと彼の興味を誘(いざな)ったのかもしれない。

                   日本列島を北上してサハリン(樺太)まで樹を求め、花を探し、100年前の風景を採集して歩いたウィルソンの第一回日本横断旅行は年末まで続いた。

                  =おわり=

                  ______________________________________

                  古居 智子著

                  ______________________________________

                  転載元:南日本新聞 5月23日掲載分



                  悠久の時の中で、国と国との関係はめまぐるしく変わっていきます。

                  人と人。モノとモノとの交流も。
                  共に繁栄するには何ができるのかを想います。




                   


                  強くたくましく、朗らかであれ(いろはにほへと)

                  0


                    事を荒立てることを避けて、論陣を張ることもせず、最初からあきらめて。
                    それでいて、たやすくへこたれて逃げる。
                    そうじゃないでしょ、と言いたい。
                    男子たるもの、顔を上げて。強く逞しく朗らかであれ。


                    ここに記すは「日新公のいろは歌」。
                    戦国時代に生きた武士が残した和歌集です。

                    それぞれの和歌の下に現代語訳を置いています。

                     


                    いにしへの 道を聞きても 唱へても わが行ひにせずば かひなし


                    楼の上も はにふの小屋も 住む人の 心にこそは たかきいやしき


                    はかなくも 明日の命を たのむかな 今日も今日もと 学びをばせで

                     


                    昔からの立派な教えをいくら聞いても、またどれだけ口先で唱えても、自分で実行しなければ何の役にも立たない。


                    二階造りの立派な家に住む人も、みすぼらしい小屋に住む人も、その住む所によって人の値打ちは定められるものではない。その人の心にこそ、尊い、いやしい、の区別があるのだ。


                    世の中には、今日は用事がある、今日は気分が悪いなどと言って、大事な学問を勉強せず、あてもなく、明日の日を頼みにしている人がいる。





                    似たるこそ 友としよけれ 交らば われにます人 おとなしき人


                    ほとけ神 他にましまさず 人よりも 心に恥ぢよ 天地よく知る


                    下手ぞとて 我とゆるすな 稽古だに つもらばちりの 山とことの葉


                    科(とが)ありて 人を斬るとも 軽くすな いかす刀も ただ一つなり

                     


                    自分と同じくらいの似たものを、友だちとしやすいものであるが(それは必ずしも身のためにならないから)せっかく友として交わるなら、学問や腕前が自分よりすぐれ、しかもおとなしい人を選ぶがよい。

                    ※「交らば」の読み=ましはらは(まじわらば)
                    ※おとなしき人とは、「大人らしき人」となり、人格の練れた人のことを意味する。大人な人。


                    仏や神は外におられるのではなく、各人の心の中におられるのだ(悪いことをしたら)世間の人々よりも、まず自分の心に恥ずかしく思うべきである。天地の神はどんなことでもよく知っているぞ。


                    自分は下手だからといって、けいこ事一つであっても、気をゆるめ、なげだしてはならない。「ちりも積もれば山となる」という言葉もあるではないか。


                    例えば死刑にするような重罪人の場合でも、決して軽々しいさばき(裁判)をしてはならない。人を殺す刀もまたいかす刀も、君主の心一つになるのだ。(念には念を入れ、誤りがないようにせよ)



                     

                    海洋国家の魂映すナギ(転載)

                    0


                      『仙巌園(鹿児島市)』

                       1914(大正3)年3月16日月曜日。ウィルソンは仙巌園(磯島津邸)を訪れた。桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた見事な借景の庭園は、鹿児島の旅の締めくくりにふさわしい場所であった。

                       仙巌園は1658(万治元)年、島津家19代当主光久が別邸として創建し、明治以降は本家の別邸となった。名前は中国の景勝地、龍虎(りゅうこ)山の仙岩にちなみ、中国古代の家屋を模した望獄楼など随所に中国の影響が見られる。園内には、国内外から移植された多様な樹木や花が配置され、温室も整備されていた。さながら、植物園のような趣向で、プラントハンターの目を楽しませてくれたに違いない。

                       ウィルソンが足を止めたのは、御殿東奥の石垣の前に立つ一本の大木だった。

                       「有名な島津のプリンスの庭で、初めてナギを見た」

                       後に論文に書いているように、針葉樹でありながら広葉樹のような幅の広い葉を持つナギの木が新鮮に映ったようだ。

                       この木は現在も変わらぬ佇まいで、清水の流れを見下ろす場所に立っている。そして、その足元で毎年春になると、やはり中国起源の「曲水の宴」と呼ばれる雅な歌会が開かれる。水流に運ばれる杯が詠み手の前を通り過ぎる間に短冊に和歌をしたためる伝統の行事である。21代当主吉貴(よしたか)が始めたとされるが、その後断絶。1959(昭和34)年に火山灰や土砂に埋もれていていた曲水の庭が発掘され、90年に宴が復活した。

                       幕末、28代当主斉彬はこの庭の池で菜種油を搾る水車を回し、望獄楼に装着したスイッチを入れて地雷を爆発させ、配管を施した石灯籠に日本初のガス燈を点火させた。島津家代々の別邸は文化継承の地であると同時に、先駆的な実験の場でもあった。海を越えて外国と交流してきた土地ならではの進取の気風が、時代を超えて息づいていた。

                       ナギは、凪に通じるところから、航海の平穏を祈る神木とされてきたという。この木の存在もまた、海洋国家薩摩のひとつの表象であったのかもしれない。

                      ______________________________________

                      古居 智子 著

                      ______________________________________

                      転載元:南日本新聞 5月9日掲載分

                      磯庭園にあるナギという木の話です。

                      ウィルソンが訪れた100年前に既に、高さ15メートル、周囲1.2メートルはあったそうです。

                      雄姿を保ち続けているというナギの木を見に行く、また楽しみがひとつ増えました。

                      ナギ(梛)

                      マツ目マキ科ナギ属

                      比較的温暖な場所に自生する。雌雄異株。

                      熊野神社及び熊野三山系の神社では神木とされ、一般的には雄雌一対が参道に植えられている。また、その名が凪に通じるとして特に船乗りに信仰されて葉を災難よけにお守り袋や鏡の裏などに入れる俗習がある。
                      神社の中には代用木としてモチノキが植えている場合もある。

                      (以上 Wikipediaより)
                       

                       

                      (クリックで拡大)
                       

                      ー梛の雄花ー み熊野ネット「梛(ナギ)|梛の木について」より転載

                       

                      実はイヌマキに似ています♪





                       


                      涙の乾く間もあらば(安倍総理の外交にふれて)

                      0

                         

                        日曜の夕方は、くっくりさんの記事を読んでは泣き、夜九時からのドラマ「天皇の料理番」での「どやさ」のシーンを見ては笑い泣きして大変でした。

                         

                        真心。素敵ですね。

                         

                        ブログ「ぼやきくっくり」は、ネット巡りのきっかけを作ってくれたひとつです。E・S・モースの著作「日本その日その日」にはまっていたら、自然とお邪魔するようになって、それからです。

                         

                        硫黄島(いおうとう)のくだりもそうですが、中継で安倍総理の後ろの一段上の議長席の方がハンカチをしきりに取り出していて、あちらの方だから、鼻風邪かなと単純に思っていたら、そうじゃなかったというくだりでもう泣くしかないという感じでした。安倍総理の演説がアメリカの人のハートに確かに届いたと知ったら、こちらの心の琴線にも触れてしまいます。

                         

                        もうひとつ。

                        アメリカ訪問の前に、インドネシアにおいてのアジア=アフリカ会議に出席された安倍総理。合間を縫って、終戦後に起こった蘭英混合軍からの独立戦争をインドネシア人と共に戦った、日本人たちの墓前に献花をなさったそうです。あえてこの戦いのために残った日本人は二千人にのぼると言われています。

                         

                         

                         

                        4月22日

                        カリバタ英雄墓地

                         

























                        カリバタ英雄墓地で
                        献花を行う安倍総理







                         



                         

                        ジャカルタ−アジア・アフリカ首脳会議の開会式を終えると、日本の安倍晋三首相はその日、カリバタ英雄墓地を訪問した。

                         

                        「Okezone」の調べによれば、2015年4月22日水曜日午前10時頃、安倍首相はカリバタ英雄墓地に到着し、ジャカルタ管区司令部陸軍地方軍管区参謀長イブヌ准将に迎えられた。

                         

                        遺族および補佐官が同行した今回のカリバタ英雄墓地訪問で、安倍首相はインドネシア人と共に独立戦争を戦った日本人の墓前に献花を行なった。その日本人の名は衛藤七男という。

                         

                        カリバタ英雄墓地の管理者によれば、インドネシア独立戦争に参加した日本人28名が同墓地に埋葬されているという。

                         

                        カリバタ英雄墓地の参拝を終えると、安倍首相は再びアジア・アフリカ首脳会議の行事に出席するために帰路についた。

                         

                        Okezone, Rabu, 22 April 2015

                        PM Jepang Ziarahi Makam Pahlawan Kalibata

                         

                         

                        ★ ★ ★ ★ ★

                        ジャカルタ−ジャカルタ・コンベンション・センター(JCC)で開催されたアジア・アフリカ会議開会式への出席を終えると、日本の安倍晋三首相はカリバタ英雄墓地を訪れた。首相は国家英雄に認定された日本兵の墓に献花を行なった。

                         

                        2015年4月22日水曜日午前10時13分(インドネシア西部時間)カリバタ英雄墓地に到着した。この来訪は献花を予定する日本兵の親類に付き添われたものだった。

                         

                        安倍首相は献花を行う前に、追悼曲が流れる中、英雄たちの墓前で黙とうを捧げた。黙とうを終えると、黒いスーツに青いネクタイを締めた安倍首相は日本出身の兵士たちが眠る一角へと向かった。

                         

                        安倍首相は9つの墓に献花を行なった。献花を終えると、首相は厳重な警備の中、記帳場所へと向かった。10時40分、安倍首相はカリバタ英雄墓地を後にした。

                         

                        献花に付き添ったヘリアントは衛藤七男という名の日本兵の子息のひとりだ。彼は安倍首相による父親の墓の訪問は誇らしいことだと話す。

                         

                        「首相の訪問と献花は大変光栄なことです」とオレンジを基調としたバティックを着たヘリアントは語った。

                         

                        ヘリアントによれば、日本兵であった父親はインドネシア国軍に加入し、インドネシアの独立を目指して連合軍と戦ったという。この戦いによって、ヘリアントの父親は勲章を受け、英雄墓地に埋葬された。

                         

                        ヘリアントの他に、ヘンドリ・クロイワも安倍首相が日本兵の墓を訪問したことを嬉しく思うと話す。この出来事は、インドネシアの独立における日本兵の貢献の存在を証明したものだ。

                         

                        「過去(小学校)に植民地支配者の息子として何度もいじめられてきました。いじめは私たちの父親もインドネシア独立に貢献したのだと同級生たちが気が付くまで続きました。1963年になって、彼ら(現地学校の友人)も分かってくれました」とヘンドリは語った。
                         

                         

                        Detik.com, Rabu, 22/04/2015 11:23 WIB

                        Peringatan 60 Tahun KAA: Ditemani Anak Veteran Jepang, PM Shinzo Abe Tabur Bunga di TMP Kalibata

                         

                         

                         

                        その他の記事はこちらから。全て、インドネシアの報道機関によるものの翻訳となっています。

                         

                        インドネシア雑記帳

                         http://indonesia-zakkicho.ldblog.jp/archives/28306428.html

                         

                         

                        この記事関連のコメントを抜粋します。安倍総理の心中はいかに。

                         

                        岸信介(安倍総理の祖父)は昭和32年5月、東南アジア歴訪の旅に出た。

                        大戦の結果独立を果たした国々で、たいへん歓迎された。

                        「私は総理としてアメリカへ行くことを考えていた。それには東南アジアを先に回って、アメリカと交渉する場合に、孤立した日本ということではなしに、アジアを代表する日本にならなければいけない、という考えで行ったわけです。戦後は勿論誰も首相としてアジア諸国に行っていない。それらの国々の首脳と会って、アジアの将来を考え、アメリカとの関係を緊密にしなきゃならないと考えた。それでアメリカに行く前後に15ヶ国を二つに分けて回りました」

                        安倍首相はお祖父さんをお手本にしているとみえる。

                        そして硫黄島の栗林中将の孫にあたる新藤さんを連れてアメリカに行った。

                          (新藤義孝さんは、前総務大臣・現衆議院議員)
                         

                         


                         

                        4月29日

                        ワシントンD.C. アメリカ合衆国議会議事堂

                         

                        演説のタイトルは、「Toward an Alliance of  Hope」。

                        訳すると「希望の同盟に向かって」。

                         

                        「世界がもっと住みやすい良い所になるために、私たち2国は手を結び合おう」と呼び掛けている。

                        アメリカと日本が、「対等に」力を合わせれば、この世界はもっと良くなる、と提案している。
                         

                        Let the two of us, America and Japan, join our hands together and do our best to make the world a better, a much better, place to live.


                         

                        ここで、演説の背景を見てみます。

                        中国は中華思想が続いている。その行いから目をそらすために、日本は今でも歴史を「修正」して「戦後秩序」を引っくり返そうとしているとの嘘の宣伝を展開することによって、「悪いのは日本であって中国ではない」との国際世論を作り上げるのを目的としている。 

                        実際そうなのか?そうではない。

                        日本は中韓に捏造された歴史は修正し、日本自らが隠した歴史は取り戻して、戦後レジーム(体制)から抜け出そうとしているのだ。

                         

                        私たちは歴史の流れに埋もれようとしているお互いの国のために戦った英雄達を忘れてはならない。今から世界の秩序を守るため、また、日本が目指して来たアジアの平和と繁栄が適うよう、共に手を結びませんか。でも今までとは違いますよ。あくまで対等に、ですよ。

                        アメリカの立場を尊重し、熾烈な歴史を思い、和解を求め、その上での提案。そんな安倍総理の歴史に残るであろう演説でした。

                        例えば、ローラバッカー共和党下院議員はこう評価したそうです。

                        「レーガン元大統領のスピーチ・ライターだった経験から、Aプラスを与えられる。歴史問題を威厳ある形で語った。第二次大戦に関し、首相はもう卑屈な態度を取る必要はない」

                         

                         

                        くっくりさんの演説に関する元の記事はこちらです。
                         

                        ぼやきくっくり

                        http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1716.html

                         

                         

                         

                         

                         

                         


                        新たな同盟とヘタリアにみる先の冷戦

                        0


                          29日にワシントンの米国両議会に招かれた安倍総理が行った演説は、歴史の転換点のひとつとなったと言ってはばからないでしょう。まだ余韻に浸っています。

                           

                          東のはしの小さな島国と、西のはしの大きな国に、人は何かを求めて辿り着いた。

                          人類の理想の、かたや古来からの道徳や武士道、かたや若々しい正義や希望。

                          このふたつが広い海を越えて結び付けば何だってできる。

                          今日は「歴史の試練」を乗り越えて、「対等に」付き合うことができるという記念の日。

                          新たな同盟。希望の同盟。

                          と、日頃、アルフレッド・アメリカがどうしようもなく好きな私としては、大風呂敷を広げたくなる演説でした。

                           

                          小泉政権下の時、初めて、ああ、日本はアメリカに負けたんだと思ったことを思い出します。それは既に過去のことだと思っていたのに。

                          この日の演説では、過去を乗り越えた、同盟の形が示されていました。「アメリカに期待されるのは、過去も今も未来も、希望を作り出すことである。この同盟をこう呼ぼう。希望の同盟と」。「アメリカ」の心をくすぐる最後の言葉。

                           

                          夢みたいです、安倍政権。

                           

                           

                          そしてこちらはそんなこんなでヘタリア熱が再燃して見つけた動画です。凄いです。

                          主に米露の先の大戦から冷戦までを時間軸で追った、えと、MMDという技術が入った動画だそうです。ほんとに凄いです。

                           

                          自由の国「アメリカ」と、酷寒の大地に広がる国「ロシア」。

                          過酷な潮流を切り抜けて来たこの世界。「日本」はこれから、何ができるでしょうか。




                          【第12回MMD杯本選遅刻組】 まだ見ぬ明日へ 【APヘタリアMMD-PV合作】

                           

                           

                          他の「国」の補足を少し。

                          眉毛が太くてしょうがないなという仕草を垣間見せるのが「イギリス」です。

                          そして、気取ってる長髪のお兄さんが「フランス」です。

                          彼ら連合軍に追いつめられた二人組は「ドイツ」と「プロイセン」。

                          「プロイセン」は、「ドイツ」の兄貴で、少しずつ領土を減らしながらドイツに溶け込み、大戦中は、ナチ党政権下に置かれました。そして終戦後はその一部が東ドイツとなります。

                           

                          人気記事5選



                          calendar

                          S M T W T F S
                          1234567
                          891011121314
                          15161718192021
                          22232425262728
                          293031    
                          << July 2018 >>

                          books

                          attractive entries

                          link banners

                          selected entries

                          categories

                          archives

                          recent comment

                          • 近衛家の戦い(近衛文隆)〜ラーゲリに消えたサムライ〜
                            香月
                          • 近衛家の戦い(近衛文隆)〜ラーゲリに消えたサムライ〜
                            香月
                          • 戦士の休息〜Card Wirthと共に〜
                            香月
                          • FUKUSHIMA50『The memory 1F lost all power supplies』5-17
                            うらら
                          • FUKUSHIMA50『The memory 1F lost all power supplies』5-17
                            香月
                          • FUKUSHIMA50『The memory 1F lost all power supplies』5-17
                            うらら

                          recommend

                          links

                          profile

                          search this site.

                          others

                          mobile

                          qrcode

                          powered

                          無料ブログ作成サービス JUGEM