国の成り立ち(3)〜日本の主権回復〜

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    占領されれば主権は一旦喪失します。

    日本は終戦後、アメリカを主体とする連合軍に占領されました。

    以下,再び主権を取り戻すまでを辿ってみます。

    主権は施政権よりも先に喪失する

    内政より対外的な面の主導を取り戻しにくい。

    連合軍による直接統治は日本政府の反対により、なんとか断ることができた。

    但し、北緯30度以南の南西諸島及び小笠原諸島は、この時から米軍政下に置かれるようになる。

    本土は、施政つまり内政は、GHQ(極東軍総司令部)の指導の下でそのまま日本政府が行う形の間接占領統治方式で行われた。その一方、主権は殆ど失ったまま時は流れる。

    日本は自衛隊発足まで長らく軍を持たず、対外向けの外交は、GHQを通して行うこととなる。

    1951年9月8日  サンフランシスコ講和条約締結

         アメリカを始めとする連合国諸国と日本との間に結ばれた平和条約

         互いの全権大使が署名することで条約が結ばれたことになる

         この条約を批准した連合国は日本国の主権を承認した

         同日    日米安全保障条約締結

    1952年4月28日 サンフランシスコ講和条約発効・主権回復及び国交回復

              (「昭和27年条約第5号」として公布される)

         調印・批准を行った多くの連合国と日本との間の「戦争状態」は、

         この条約の発効をもって終結した

    沖縄や奄美、小笠原諸島は、条約発効時から正式にアメリカの管理下に置かれることになる。これら島々の施政権はそれまでと同様米国が握る。本土復帰までは、時を待たなければならない。その道は険しいながら、この時、ある布石が打たれていた。

    【補足:講和条約を結ばなかった国々との関係】

    ソ連と幾つかの東欧諸国、中国(中国共産党)と台湾(中華民国)の二国、及びビルマ、インドネシアなどの国々は調印せず、あるいは会議へ招聘されなかったり、批准しなかったりであった。後年、個別に結んだ条約や合意によって戦争状態は終結することとなる。インドは参加こそしなかったものの、条約発効後、自主的に戦争状態の終結を宣言している。

    台湾(中華民国)とは講和条約発効日に合わせて、日華平和条約を結ぶことができた。その後、日中国交回復(1972年)により、日本と台湾は国交断絶となる。


     

    【補足2:「日華平和条約」締結の意義】

    台北駐日経済文化代表処:台湾週報より(総統府 2009年4月28日)

    「馬英九総統が台北賓館で「日華平和条約」締結の意義を語る」


    リンクを貼っておきます。

    何だか感動してしまったので。

    民進党(民主進歩党)が躍進し、蔡英文氏が台湾総統となることが決まりました。これで馬英九率いる中国国民党が敗退した訳です。

    総統に就任した当時の馬英九氏は当初中国寄りではなく、日本寄りでもなく、自分の国を愛し、「日華平和条約」の果たした重要な役割を理解しています。また、そこから今に繋がる台日双方の交流の活発さを喜びとしています。

    しかし、惜しからんや。愛した国とは「台湾」ではなく、あくまで「中華民国」としての国でした。中華民国は、支那大陸統一という理想の下に建てられました。国民党が台湾に来たのは内戦の結果、おちのびてきたようなもの。中国共産党との内戦状態は李登輝総統が一方的に終結を宣言した1991年まで続きました(戒厳令体制解除)。それまでの共産党との長い戦いの歴史を見るに、台湾を守るという視点を欠いています。

    その為、年月が経てばたやすく経済面から中国大陸寄りの政策に傾き、国民の支持を失ったのでしょう。

    国も人も時の流れの一瞬のみに目を向けると、それ以上推し量ることができません。

    対照的に、民進党が掲げているのは「台湾の主権独立」です。

    台湾の統治は、日本政府から中国国民党(外省人主体)、そして戦前からの台湾人(内省人)の元へ還ったことになります。中国共産党の口をはさむ隙はなくなりました。日本が中国へ遠慮する理由も。今だ日本政府として公式に台湾を国家と認めていないのですから。

    今ならば、これを機会に台湾との国交回復が成るのではないかと期待しています。合わせて独立するために必要な、中国以外との経済的な交流や発展の手助けをすることが必要です。
    李登輝総裁はそれまでの建前であった、「中華民国は中国全土を代表する政府」から「現実外交」へシフトしたという側面もあります。
    日本を慕っていてくれることに感謝するだけでは駄目です。

    長くなりました。

    この日華平和条約にまつわる話の中で、降伏後に手放した領土を誰に譲渡するかを日本が言わなかった理由を問えば、当時の英国と米国の重要な理念と戦略によるものだったと述べています。複雑ゆえに、同意ある部分のみ講和会議では決めて、その他については、個々二国間条約で処理することとなったのです。

    次回は、その互いの思惑が交叉する国際社会に置かれた日本の選んだ道について述べていきます。


     


    ー8月17日ー東久邇宮内閣が成立(転載)

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      『再現日録』終戦からの31日間

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      (2)1945年8月17日 東久邇宮内閣が成立

       鈴木貫太郎内閣の総辞職を受けて東久邇宮稔彦王を首班とする新内閣が17日に成立、内閣制度が始まって以来初の皇族内閣が誕生した。

       新首相は軍の武装解除など終戦にかかわるさまざまな処理と占領軍を迎える役割を担う。外相は重光葵元外相が復任した。

       57歳の東久邇宮稔彦王は久邇宮朝彦親王の九男として生まれ、1906年に東久邇宮家を創設した。陸軍大学校卒業後に明治天皇の皇女と結婚。20年から27年までフランスに留学し、帰国後は陸軍航空本部長などを歴任。

       皇族の中でも自由主義的な思想を持っているとされ、41年の対米開戦には反対していたとされる。同年の近衛文麿内閣の総辞職後は首相候補にも名前が挙げられた。

       しかし、昭和天皇は「軍が絶対的に平和保持の方針で進むというなら」よいが「皇族総理の際、万一(対米)戦争が起きると皇室が開戦の責任をとることとなるので良くない」として反対し、東条英機内閣が誕生した経緯があった。

       一方、日本の軍政下にあったインドネシアは17日、独立宣言を出した。

            ◇            ◇

       「昭和天皇独白録」によると、41年10月の時点で対米開戦をめぐる皇族の意見は、高松宮は「戦争論者の一人」、「東久邇宮、梨本宮、賀陽宮は平和論者だった」。
       

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      転載元:南日本新聞 2015年8月17日掲載分
       

      ※東久邇宮=ひがしくにのみや

       稔彦王 =なるひこおう

       賀陽宮 =かやのみや

       

      ※葵=あおい、まもる
       

      Key word:国の成り立ち


       


      ー8月16日ーソ連 北海道占領要求(転載)

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        去年は戦後70年ということで歴史を振り返る多くの企画がありました。

        こちらはそのひとつ、地元の新聞の連載記事となります。少しずつ転載という形でご紹介していけたらと考えています。
         


         

        『再現日録』終戦からの31日間

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         70年前の夏、ポツダム宣言受諾とともに日本政府は占領軍受け入れを進めるが、満州や樺太などで悲劇はなお続いた。虚脱と混乱、そして希望の芽吹きが織りなす8月16日からの31日間を現代の記事スタイルで再現する。

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        (1)1945年8月16日 ソ連 北海道占領要求

         ソ連のスターリン首相(共産党書記長)は16日、日本占領政策をめぐり、トルーマン米大統領に対して「日本軍がソ連軍に降伏すべき地域の中に北海道の北部を加えること」を要求した。これは北海道の北半分をソ連が占領統治する提案で、境界線は「東は釧路、西は留萌に至る線とし、釧路と留萌の両市は北半分に属する」としている。

         トルーマン大統領が連合国各国に送った「一般命令第1号」は、日本軍が降伏すべき相手を以下のように定めている。

         (1)中国、台湾および北緯16度以北のインドシナは蒋介石(中華民国主席)軍(2)満州、北緯38度以北の朝鮮、樺太はソ連軍(3)北緯16度以南のインドシナ、ビルマからソロモン諸島に至る地域は英軍かオーストラリア軍(4)日本本土、フィリピン、北緯38度以南の朝鮮においてはマッカーサー元帥率いる米軍。

         スターリン首相は(2)について同意しつつ、北海道北部と「千島列島全部」を加えるよう求めた。この日、日本では特攻隊の創設者とされる大西滝治郎海軍中将が官舎で自決した。

              ◇            ◇

         スターリン提案をトルーマンが受け入れていれば、北海道北部は戦後,共産圏に組み入れられた可能性もある。しかし、トルーマンは約2週間、スターリンと電文で応酬した末、北海道をめぐる要求を退けた。

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        転載元:南日本新聞 2015年8月16日掲載分

        ※留萌=るもい
         

        ※サイト内参考記事「歴史探訪〜ヤルタ密約〜」



         

        Key word:国の成り立ち


        国の成り立ち(2)〜東アジアを中心に・近代から終戦にかけて〜

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          文明と文明の衝突は、統治の有り様を変えてきました。近代以降は今までにない形のものも出てきます。

          主権と施政権の関係

          携帯や車に例えると、分かりやすい。
          所有者が「主権を持つ者」で、実際の使用者が「施政権を行使している者」となる。

          第2次大戦終戦時においての東アジア及び東南アジアの状況を見てみますと、日本の勢力図と重なります。

          植民地  …主権なし。施政権も原則なし。

            台湾(日清戦争以後)

          併合   …国の一部となる。

            韓国(日韓併合 (1910年) )

          委任統治 …委任当初は主権、施政権ともなし。

                民族自決の原則。段階的に原住民へ譲渡することが目的となっている。
                独立に向けて政治的社会的訓練を受ける期間。

            北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦(第1次大戦後に連合国としてドイツ領土だったこれらの地域を委任統治することとなった (南洋諸島) )

          被保護国 …部分的な主権保持。外交面の保護を受ける。施政権はある。

            満州国(元首は清の最後の皇帝溥儀 (1932年建国) )

          占領地  …自国の領土が武力により、他国の支配下に置かれること。

                まだ処遇が決まっていない状態。

            タイを除く東南アジア各国(フィリピンは1944年にアメリカが再奪回する)

            中国大陸の一部(例:北京占領 (1937年7月末に日本軍占領。その後、占領下のまま、王克敏、王揖唐等による中華民国臨時政府が誕生する) )

            

          主権は、原則として強者が握る。戦争に勝てば勝者の意志に沿う。

          1945年8月、日本はいくつかの条件を呑んで連合国に降伏した。
           

          参考blog:『世界飛び地領土研究会』委任統治と信託統治領


          国の成り立ち(1)〜ミクロネーションズ〜

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            国と一言で言いましても、なかなか説明は難しいです。

            どうやって国は生まれ、存続するのでしょうか。

             

            「人が信念と共に歩んでいくように、国にも建国の理想というものがある。」

            こういう言葉もあります。

             

            ここで、国が国と呼ばれるために必要な要素を整理してみます。

            理想を実現するために成立すべきものは。

             

             

            ◯主権

             独自の軍(防衛)

             外交権

             通貨発行権

            ◯施政権

             行政、立法、司法の三権を行使する権限

             

            ここでいう主権とは、民と領土を統治する統治権、及び他国からの干渉に左右されずに独自の意思決定を行う国家主権のこと。

             

            ・・・




             

             

            「シーランド君ですよ」

             

            来ました、シーランド君。

            小さな小さな国(ミクロネーション)として数えられる国のひとつです。

            どれくらい小さいかというと、大きな二本の柱に支えられた海上の要塞がすべての領土、国民は2006年の時点で計4名、王様と一名の兵士からなる君主制です。ふむふむ、独立までの経緯が知りたいですね。

             

            【The struggle for liberty】

            場所はイギリスの東海岸から6海里離れた公海上。

            第2次世界大戦中に、イギリス軍が本土上空防衛のため海上に建設したマンセル要塞のひとつが舞台となります。

            これら要塞群は戦後は軍の管理を離れ、放置されていました。

             

            娯楽のひとつとして挙げられるラジオ。ヨーロッパでのラジオ放送は国営放送が独占していました。民営には放送免許が認可されなかったのです。これに反発した人々が北海上のあちこちで錨を下ろし、船舶から沿岸諸国に向けて放送を行うようになりました。1960年代に入ってから見られるようになったこの送信形式による放送は、海賊局、海賊放送と呼ばれています。

             

            元イギリス陸軍少佐のパディ・ロイ・ベーツもそのひとり。

            漁師をしていましたが、要塞のひとつを不法占拠していた海賊放送のスタッフを追い出し、その後釜に座りました。最終的に移った要塞フォート・ラフス (Fort Roughs/U1) が建国の地となります。海洋放送法の施行でマンセル要塞からのラジオ放送が禁止されたのを機にラフス・タワーの独立を宣言したのです。

            君主ベーツ大公が治めるシーランド公国が生まれた瞬間です。1967年9月2日のことでした。

             

            【経済や他国との交流など】

            シーランド・ドルという独自通貨があります。米ドルと等価の固定相場制です。

            主要産業は、切手やコインの発行と一番耳目を引くのは爵位の販売ですね。カジノを開こうとした時もあったみたいです。

            海外との交通手段はモーターボートやヘリコプター。ヘリポートあり。

            サッカーがさかんです。シーランド代表チームがなんとありまして、主に非承認国家が参加する国際団体NF-Boardに準会員として参加しています。

             

            【国の標語は「E mare libertas」 (海からの自由)】

            現在はロイ・ベーツ公亡きあと、息子のマイケル皇太子が後を引き継いで2代目シーランド公に即位しています。

            何か緩急ある時は?

            ベーツ公の友人が駆け馳せます。過去にはクーデターも撃退。

             

             

             

            「えっへん、イギリスの野郎には負けないのですよ」

             

            そう、あなたは立派な国ですね。敵いません。

             

             

            シーランド公国公式HP

            http://www.sealandgov.org

             

             



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            新年の抱負(丙申・ひのえさる)

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              新年明けましておめでとうございます。

               


              「赤ん坊まで急に2歳になって、お祝いにあずかるのでございました。」

                                   「武士の娘」(ちくま文庫)より 

                         


               

              晴れ渡る空の下、初日の出を拝んで清々しい力をもらいました。

              おみくじに付いていた和歌は今年は短く。

              鳥を 撃たんとするに 弓はなし

              何かに臨もうとする時機をのがすな、準備を怠るな。

              そう心得ました。


              誰にとりましても幸多き年でありますように。





               


              「海難1890」を観てきました

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                トルコでのタイトルは、「Ertuğrul 1890」。

                この日土合作の物語は、紀伊半島沖で台風に遭遇したオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号から始まる。

                映画で描かれたふたつの実話。その前にも、その後にも物語は続く。

                こちら日本ではお正月にかけて公開中。トルコでは25日から公開予定。

                久しぶりに映画館で鑑賞してきました。

                音響の良さとこの風景。

                どうしましょう。もう一回見に行きたくて、うずうずしています。


                 

                JUGEMテーマ:話題の映画

                 


                「山賊の娘ローニャ」の魅力

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                  今日はアニメをひとつご紹介。

                  ちょうど去年の今頃にNHKのBSで放送されていた「山賊の娘ローニャ」です。

                  宮崎駿の息子さんの宮崎吾朗が監督を務めた、スウェーデンの児童文学作品を原作とするアニメです。

                  毎週、家族で楽しみに見ていて、特に最終回。ローニャの父、マッティスの真っ直ぐさに心打たれました。

                  DVDのジャケットにあるラフスケッチだけでも素敵です。

                  山賊の娘ローニャDVD第1巻

                  (ジャケットイラスト)近藤勝也

                  このマッティス。後からふと調べてみましたら、人物紹介のところに「直情径行」とありました。これは藤原道長と同じ言われようです。

                  ブログで時期を同じくして道長とその和歌を追っていた時から、この両者は似ているなと感じていたものですから、無性に嬉しくなりました。

                  直情径行とは、思ったことをそのまま言うこと。よく泣き、よく怒る。

                  よく笑ったり。まさにマッティスそのものです。言い得て妙です。

                  そして、それは道長にも当てはまるということで。

                  道長の評には、将帥の器あり、というのもありました。

                  自然と人を惹き付ける人物が中心にいる物語が面白くない訳がありません。

                  個人的には吾朗さんの作品ではとび抜けて好きです。

                  嵐の晩に生まれたわんぱく娘ローニャが目一杯森を走り抜け、季節が一回りするたび、すくすく育っていく。

                  脇を彩るは赤ん坊から知っている山賊達と、森に住まう不思議な住民達。それから、なんの因果か隣同士で生活することになってしまうライバルの山賊一家。


                  それを見事にアニメーションにしています。大人陣にちょっと手厳しいあらすじも、いろんな世代が楽しめる要素になっていると思います。家族そろって大いに楽しめます。


                  原作者は他には「長くつ下のピッピ」を書いた人と言えばお分かりでしょうか。
                  和訳本も発売されています。文字は大きめで読みやすいです。


                   


                  山賊のむすめローニャ【岩波少年文庫】

                  アストリッド・リンドグレーン(著)
                  大塚勇三(翻訳)
                  イロン・ヴィークランド(イラスト)



                  再放送の願いも込めてのご紹介でした。


                  .*+.*.。 追記 ゚+..*+
                  ニコニコ動画で1話と2話の無料配信中です♪
                  山賊の娘ローニャ 第1話&第2話「初回拡大スペシャル〜かみなりの夜の子〜」

                   


                  歴史探訪〜日華事変(支那事変)は何故長引いたのか (2) 〜

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                    (前回からの続き)

                    国民党政府の外交官、高宋武が、蒋介石へは内緒で1938年7月に和平交渉の為に来日した際、「蒋介石は、日本との長期抗戦の構えがある」と断言できたのもこの年表を読めば納得できる。

                    日本政府としては、蒋介石の下野は和平の条件として譲れないという。それは頑なほどだった。

                    高宋武は「日本と戦える人物も、日本と講和できる人物も、蒋介石をおいて他にない」と反論する。

                    日本との和平交渉はいくつものルートが作られながら難渋する。その傍ら、高宋武は長年蒋介石の片腕でありながら、親日政権樹立へと心動かされる汪兆銘に説く、「民族の裏切りものとなるべきではない」。

                    12月に入り、汪兆銘は蒋介石へ「君は安易な道を行け、我は苦難の道を行く」との書簡を送り、重慶からハノイへ脱出した。以後は、単独で日本政府との交渉を進めた。

                    南京に親日政権を打ち立てたのは、その翌々年であった。

                    1937年、娘にこう問いかけた言葉が残されている。

                    「今、父が計画していることが成功すれば、中国の国民に幸せが訪れる。しかし失敗すれば、家族全体が末代までも人々から批判されるかもしない。お前はそれでもいいか」

                    この時、彼は蒋介石と袂を分つことを心に決めたに違いない。孫文の大アジア主義を継承する道を選んだ汪兆銘。日中の共存共栄こそ中国国民の幸せに至る道であると確信して。

                    日中和平の礎として。

                    高宋武と別ルートで茅野老に和平工作を依頼した、上海派遣軍司令官である松井石根(いわね)大将もその一人であった。彼の若い頃に川上操六陸軍大将の唱えた「日本軍の存在理由は東洋の平和確保にあり」という見識や、孫文の日中韓対等連携を指向する大アジア主義に共鳴して、自身も「大亜細亜主義」という日中が連携し欧米の侵略に対抗して平和裡な中国統一を掲げる考えを提唱していた。蒋介石とも長く親交があった。

                    1933年には日本国内で「大亜細亜協会」を設立し会長に就任した。この協会へは、組閣前の近衛文麿などが参加している。その根底にある、日本と国民党政府との協力維持という考えは、1937年の冬に総大将として南京に入城した際も何ら変わりはなかった。

                    翌年の11月には、第一次近衛文麿内閣が反共主義(抗日容共な国民党政府の否定)と汎アジア主義(東洋古来の精神文化と西洋近代の物質文化の融合による「新文化の創造」や東洋独自の道徳仁義による「東亜に於ける国際正義の確立」)を含む、「東亜新秩序建設」という理想を掲げている。

                    一方、コミンテルンである尾崎秀実(實)の狙う「東亜共同体」とは、日本と蒋介石政権が共倒れして、両国で共産主義革命が実現した後に成立するはずのソ連・日本・中国による「赤い東亜共同体」であった。

                    「終局的な平和」の為なら、国民を欺くことも日中戦争に駆り立てて共に「人柱」にすることも許されると信じて疑わないコミンテルンの忠実な使徒であった。第1次近衛内閣発足直前に「昭和研究会」の一員となってからは、「中央公論」などへの寄稿を続けた。新聞記者時代に培ったペンの力を知っていた。

                    一連の流れの中で私達は、共産思想の恐ろしさや狡さや抜け目のなさを知ることになろう。また、いったん撒かれた対立の種は取り除くことが困難なことも。


                     

                    ともかく、アヘン戦争の一報を聞いた時から日本は欧米の侵略へ対抗する術を絶えず考えていたのだと思う。一番の良策はやはり、日中が連携してアジアの繁栄を守る中にあるはずだ。その術はもう潰えてしまったのか。それとも、今も夢の一部として続いているのだろうか。

                    何故日華事変は長引いたのか。そこから学ぶことは多い。学んだことを活かして伝えたい。

                    大陸の風が吹く。私達が恋い願う風は海からの風だ。

                    蒋介石は後に松井大将の話になった時、「閣下には申し訳ないことをした。南京には大虐殺など無かった」と涙ぐんだそうである。と同時に支那事変当時、党の兵士に過酷な民衆からの略奪や犠牲を許したのも、当時の中国人としては何の自らを呵責することもない判断であった。

                    松井大将は南京入城の翌年には、役目は終わったと考え制服を脱ぎ帰国した。帰国後は南京と日本の土を混ぜた「興亜観音」を作り、毎日欠かさずお参りしていた。

                    終戦後には、南京大虐殺というありもしない組織的な事件の首謀者として、B級戦犯として処刑された。

                    南京占領に厳しい軍紀を持って臨み、入城後に略奪が数十件あったことさえ、日露戦争に比べて変わってしまったと嘆く尾張藩士の息子であった。

                    松井石根大将の辞世の句は、3句詠まれている。最後の句の「自他」は、日本人と中国人の暗喩であると推測されている。南京入城翌日の慰霊祭の際には、「支那人を馬鹿にせず、英米には強く正しく、支那には軟らかく接し英米依存を放棄させるよう」強い調子で訓示を与えたという。どこまでも、日中の強い連携と東洋の平和を願った人であった。


                     

                    天地も人もうらみずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く
                     

                    いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば
                     

                    世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等に誠の心  

                     

                    参考Web:参考Web:国際派日本人養成講座^^^^^参考Web:国際派日本人養成講座^^^^^国際派日本人養

                    参考Web:国際派日本人養成講座^^^^^^^

                    汪兆銘工作はコミンテルンの陰謀か?

                    Wikipedia(フリー百科事典)^^^


                     


                    歴史探訪〜日華事変(支那事変)は何故長引いたのか (1) 〜

                    0


                       忘れられない人がいる。近衛文麿元首相の長男で元陸軍中尉の文隆氏。昭和18年(1943年)末、士官候補生だった和田さんは、3カ月間同じ部隊に所属した。

                       文隆氏は米国留学経験があり、当時の世界情勢に明るく、祖国への思いも強かった。

                       ある日、思い切って尋ねた。「戦況悪化は著しいようですが、見通しはどうなのでしょうか」。文隆氏は即答した。「勝負はついた。誰かが止めなければいけないが、陛下以外にはいらっしゃらない」

                       当時は口にするのもはばかられる話題。18歳だった和田さんの質問に対し、諭すような口調だった。「日本は敵を知らず、防御することもせず、戦争に突入した。米国は日本を相当研究しているぞ」。諜報や情報収集力の重要性を切々と説いたという。

                      (8月15日の産経ニュースより一部抜粋)


                       

                      敵を知り己を知れば百戦殆(あや)うからず。

                      己の中にも敵はいる。

                      何故、支那事変は長引いたのだろうか。

                      講和の機会はなかったのだろうか。

                      日本陸軍にとって、中国の共産化は最も避けたかった事態のひとつであった。ゆえに、平常においても蒙疆(もうきょう、内モンゴル中部)・満州への駐兵に固執した。皮肉にもこれが中国への進出を狙うアメリカとの対立を招いてしまう。その姿勢を変えなかったことは対米開戦のひとつの伏線となる。
                       

                      満州国建国後の日本は引き続き軍を駐留するかたわら、満州国内での「五族協和」を謳う。

                      背後にある欧米の思惑と暗躍するコミンテルン。

                      日本は当初の目的を見失ってはいけない。すなわち支那や満州など中国大陸との共存共栄、あるいはロシア勢の満州以北への追い返し。

                      支那事変勃発後には、コミンテルンの尾崎秀実(實)(ほつみ)が関わったとされる日中和平分断工作や親日政権樹立の話がある。歴史上の人物が味方か敵か惑わせる。実は危なくこの話を信じるところだった。何といっても何年か前まで、毛沢東と蒋介石の区別もよくつかなかったのだから。

                      曖昧なところを曖昧なままで結論を急いではいけない。

                      関係者の人となりを見てみよう。

                      蒋介石の長年の片腕であった汪兆銘。共に親日派で、孫文の死後、協力して共産党勢力の排除にあたってきた。

                      思想的に公正な新聞を戦後に立ち上げた松本重治もいる。

                      一介の評論家である尾崎がその行動まで影響を与えることは適わないと思えてきた。

                      ネットで探ってみると、こんなまとめが見つかった。

                      鍵は、仲間割れとされた親日政権樹立ではなく、蒋介石が監禁された西安事件にあった。

                      簡潔明瞭なまとめなので、そのまま引用させてください(前後省略、年月など一部加筆しています)。


                       

                      事件直前の状況

                      蒋介石

                      国民党指導者の蒋介石は国交内戦9年、ついに毛沢東を僻地延安に追い詰め、支那統一五分前という絶好の位置につけていた。
                      彼の戦略は、安内攘外といって、国内を統一してから、支那を植民地にしている英国などと交渉して独立国として権利を取り戻そうというものであり合理的であった。
                      日本は1932年に満洲国を作ったが、蒋介石はタンクー協定を結んで、満洲との鉄道、通信を正常化し、日本とは良好な関係を維持していた。
                      彼が一番警戒していたのが共産党であり、「日本は皮膚病だが中国共産党は(生命取りの)心臓病である」と述べたのはよく知られている。

                      対日戦の利益

                      自分の国民党軍を損耗するので得はない。損するだけ。事実戦後の内戦再開で上海戦24万の損失を嘆いた。

                      日本

                      日本は蒋介石と反ソ反共で一致していたので、軍事顧問を送るなど協力していた。

                      ソ連警戒中。大陸の戦争に利益なし。

                      張学良

                      張学良は満洲の軍閥張作霖の継承者である。満洲で日本人を迫害し,協定侵犯を300件以上起こしたので少数の日本軍に反撃され(満洲事変)本土に追い出され、部下を連れて当時国民党蒋介石軍の配下になっていた。蒋介石は張学良に共産軍本拠地の総攻撃を命じていた。しかし張学良は蒋介石に内心反発し自分の軍閥軍を弱めようとしているのではないか、と疑っていたという。このためソ連や中共の工作にのせられた。張学良は元の勢力圏である満洲に帰りたかったので、何らかのソ連からの約束があった可能性がある。

                      日本を滅ぼせば満州を再度支配できると思った。

                      毛沢東

                      中共の毛沢東は、1927年の蒋介石の反共攻撃で敗北をつづけ辺境を逃げ回って延安に到着していた。彼はソ連の顧問団とともに飛行機でソ連に逃亡する準備を終えていたという。
                      この中共を管理していたのがソ連である。ソ連は1921年に中共を設立し、顧問団、金、武器を与えソ連の極東政策に利用していた。
                      当時の毛沢東は田舎のゲリラの隊長にすぎず、世界の左翼から神と畏怖されていたスターリンとは月とスッポンであった。

                      蒋介石に追い詰められていたので、内戦が止めば息継ぎができる。

                      スターリン

                      欧州ではヒトラーが台頭し、軍事力を強化していた。これを見たスターリンは、東西挟撃を恐れて、東部国境の反共勢力である日本と蒋介石を無力化することを考えた。それは両者の戦争であった。スターリンは反共の蒋介石を対日戦争に利用することを考えた。それは毛沢東は蒋介石と比べると田舎者であり、欧米の支援を取り付けるのは難しいと見たからである。
                      スターリンは1926年に蒋介石を軍艦「中山」号で誘拐しようとして失敗している。
                      1935年のコミンテルン第七回大会では主敵をナチスドイツ、ポーランド、日本としている。中共を滅ぼそうとしている蒋介石は入れていない。ということはスターリンはこの時すでに蒋介石を利用して日本攻撃を行わせる戦略を持っていたということになる。コミンテルンは「スターリンの手袋」と言われ、KGBが金も人も支配するソ連海外謀略工作の偽装組織であった。

                      東部国境の反共の日本と蒋介石が戦えば、安心して西部のヒトラーに対応できる。


                       
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