国の成り立ち(2)〜東アジアを中心に・近代から終戦にかけて〜

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    文明と文明の衝突は、統治の有り様を変えてきました。近代以降は今までにない形のものも出てきます。

    主権と施政権の関係

    携帯や車に例えると、分かりやすい。
    所有者が「主権を持つ者」で、実際の使用者が「施政権を行使している者」となる。

    第2次大戦終戦時においての東アジア及び東南アジアの状況を見てみますと、日本の勢力図と重なります。

    植民地  …主権なし。施政権も原則なし。

      台湾(日清戦争以後)

    併合   …国の一部となる。

      韓国(日韓併合 (1910年) )

    委任統治 …委任当初は主権、施政権ともなし。

          民族自決の原則。段階的に原住民へ譲渡することが目的となっている。
          独立に向けて政治的社会的訓練を受ける期間。

      北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦(第1次大戦後に連合国としてドイツ領土だったこれらの地域を委任統治することとなった (南洋諸島) )

    被保護国 …部分的な主権保持。外交面の保護を受ける。施政権はある。

      満州国(元首は清の最後の皇帝溥儀 (1932年建国) )

    占領地  …自国の領土が武力により、他国の支配下に置かれること。

          まだ処遇が決まっていない状態。

      タイを除く東南アジア各国(フィリピンは1944年にアメリカが再奪回する)

      中国大陸の一部(例:北京占領 (1937年7月末に日本軍占領。その後、占領下のまま、王克敏、王揖唐等による中華民国臨時政府が誕生する) )

      

    主権は、原則として強者が握る。戦争に勝てば勝者の意志に沿う。

    1945年8月、日本はいくつかの条件を呑んで連合国に降伏した。
     

    参考blog:『世界飛び地領土研究会』委任統治と信託統治領


    国の成り立ち(1)〜ミクロネーションズ〜

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      国と一言で言いましても、なかなか説明は難しいです。

      どうやって国は生まれ、存続するのでしょうか。

       

      「人が信念と共に歩んでいくように、国にも建国の理想というものがある。」

      こういう言葉もあります。

       

      ここで、国が国と呼ばれるために必要な要素を整理してみます。

      理想を実現するために成立すべきものは。

       

       

      ◯主権

       独自の軍(防衛)

       外交権

       通貨発行権

      ◯施政権

       行政、立法、司法の三権を行使する権限

       

      ここでいう主権とは、民と領土を統治する統治権、及び他国からの干渉に左右されずに独自の意思決定を行う国家主権のこと。

       

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      「シーランド君ですよ」

       

      来ました、シーランド君。

      小さな小さな国(ミクロネーション)として数えられる国のひとつです。

      どれくらい小さいかというと、大きな二本の柱に支えられた海上の要塞がすべての領土、国民は2006年の時点で計4名、王様と一名の兵士からなる君主制です。ふむふむ、独立までの経緯が知りたいですね。

       

      【The struggle for liberty】

      場所はイギリスの東海岸から6海里離れた公海上。

      第2次世界大戦中に、イギリス軍が本土上空防衛のため海上に建設したマンセル要塞のひとつが舞台となります。

      これら要塞群は戦後は軍の管理を離れ、放置されていました。

       

      娯楽のひとつとして挙げられるラジオ。ヨーロッパでのラジオ放送は国営放送が独占していました。民営には放送免許が認可されなかったのです。これに反発した人々が北海上のあちこちで錨を下ろし、船舶から沿岸諸国に向けて放送を行うようになりました。1960年代に入ってから見られるようになったこの送信形式による放送は、海賊局、海賊放送と呼ばれています。

       

      元イギリス陸軍少佐のパディ・ロイ・ベーツもそのひとり。

      漁師をしていましたが、要塞のひとつを不法占拠していた海賊放送のスタッフを追い出し、その後釜に座りました。最終的に移った要塞フォート・ラフス (Fort Roughs/U1) が建国の地となります。海洋放送法の施行でマンセル要塞からのラジオ放送が禁止されたのを機にラフス・タワーの独立を宣言したのです。

      君主ベーツ大公が治めるシーランド公国が生まれた瞬間です。1967年9月2日のことでした。

       

      【経済や他国との交流など】

      シーランド・ドルという独自通貨があります。米ドルと等価の固定相場制です。

      主要産業は、切手やコインの発行と一番耳目を引くのは爵位の販売ですね。カジノを開こうとした時もあったみたいです。

      海外との交通手段はモーターボートやヘリコプター。ヘリポートあり。

      サッカーがさかんです。シーランド代表チームがなんとありまして、主に非承認国家が参加する国際団体NF-Boardに準会員として参加しています。

       

      【国の標語は「E mare libertas」 (海からの自由)】

      現在はロイ・ベーツ公亡きあと、息子のマイケル皇太子が後を引き継いで2代目シーランド公に即位しています。

      何か緩急ある時は?

      ベーツ公の友人が駆け馳せます。過去にはクーデターも撃退。

       

       

       

      「えっへん、イギリスの野郎には負けないのですよ」

       

      そう、あなたは立派な国ですね。敵いません。

       

       

      シーランド公国公式HP

      http://www.sealandgov.org

       

       



      JUGEMテーマ:ヘタリア自由研究


       

      新年の抱負(丙申・ひのえさる)

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        新年明けましておめでとうございます。

         


        「赤ん坊まで急に2歳になって、お祝いにあずかるのでございました。」

                             「武士の娘」(ちくま文庫)より 

                   


         

        晴れ渡る空の下、初日の出を拝んで清々しい力をもらいました。

        おみくじに付いていた和歌は今年は短く。

        鳥を 撃たんとするに 弓はなし

        何かに臨もうとする時機をのがすな、準備を怠るな。

        そう心得ました。


        誰にとりましても幸多き年でありますように。





         


        「海難1890」を観てきました

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          トルコでのタイトルは、「Ertuğrul 1890」。

          この日土合作の物語は、紀伊半島沖で台風に遭遇したオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号から始まる。

          映画で描かれたふたつの実話。その前にも、その後にも物語は続く。

          こちら日本ではお正月にかけて公開中。トルコでは25日から公開予定。

          久しぶりに映画館で鑑賞してきました。

          音響の良さとこの風景。

          どうしましょう。もう一回見に行きたくて、うずうずしています。


           

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          「山賊の娘ローニャ」の魅力

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            今日はアニメをひとつご紹介。

            ちょうど去年の今頃にNHKのBSで放送されていた「山賊の娘ローニャ」です。

            宮崎駿の息子さんの宮崎吾朗が監督を務めた、スウェーデンの児童文学作品を原作とするアニメです。

            毎週、家族で楽しみに見ていて、特に最終回。ローニャの父、マッティスの真っ直ぐさに心打たれました。

            DVDのジャケットにあるラフスケッチだけでも素敵です。

            山賊の娘ローニャDVD第1巻

            (ジャケットイラスト)近藤勝也

            このマッティス。後からふと調べてみましたら、人物紹介のところに「直情径行」とありました。これは藤原道長と同じ言われようです。

            ブログで時期を同じくして道長とその和歌を追っていた時から、この両者は似ているなと感じていたものですから、無性に嬉しくなりました。

            直情径行とは、思ったことをそのまま言うこと。よく泣き、よく怒る。

            よく笑ったり。まさにマッティスそのものです。言い得て妙です。

            そして、それは道長にも当てはまるということで。

            道長の評には、将帥の器あり、というのもありました。

            自然と人を惹き付ける人物が中心にいる物語が面白くない訳がありません。

            個人的には吾朗さんの作品ではとび抜けて好きです。

            嵐の晩に生まれたわんぱく娘ローニャが目一杯森を走り抜け、季節が一回りするたび、すくすく育っていく。

            脇を彩るは赤ん坊から知っている山賊達と、森に住まう不思議な住民達。それから、なんの因果か隣同士で生活することになってしまうライバルの山賊一家。


            それを見事にアニメーションにしています。大人陣にちょっと手厳しいあらすじも、いろんな世代が楽しめる要素になっていると思います。家族そろって大いに楽しめます。


            原作者は他には「長くつ下のピッピ」を書いた人と言えばお分かりでしょうか。
            和訳本も発売されています。文字は大きめで読みやすいです。


             


            山賊のむすめローニャ【岩波少年文庫】

            アストリッド・リンドグレーン(著)
            大塚勇三(翻訳)
            イロン・ヴィークランド(イラスト)



            再放送の願いも込めてのご紹介でした。


            .*+.*.。 追記 ゚+..*+
            ニコニコ動画で1話と2話の無料配信中です♪
            山賊の娘ローニャ 第1話&第2話「初回拡大スペシャル〜かみなりの夜の子〜」

             


            歴史探訪〜日華事変(支那事変)は何故長引いたのか (2) 〜

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              (前回からの続き)

              国民党政府の外交官、高宋武が、蒋介石へは内緒で1938年7月に和平交渉の為に来日した際、「蒋介石は、日本との長期抗戦の構えがある」と断言できたのもこの年表を読めば納得できる。

              日本政府としては、蒋介石の下野は和平の条件として譲れないという。それは頑なほどだった。

              高宋武は「日本と戦える人物も、日本と講和できる人物も、蒋介石をおいて他にない」と反論する。

              日本との和平交渉はいくつものルートが作られながら難渋する。その傍ら、高宋武は長年蒋介石の片腕でありながら、親日政権樹立へと心動かされる汪兆銘に説く、「民族の裏切りものとなるべきではない」。

              12月に入り、汪兆銘は蒋介石へ「君は安易な道を行け、我は苦難の道を行く」との書簡を送り、重慶からハノイへ脱出した。以後は、単独で日本政府との交渉を進めた。

              南京に親日政権を打ち立てたのは、その翌々年であった。

              1937年、娘にこう問いかけた言葉が残されている。

              「今、父が計画していることが成功すれば、中国の国民に幸せが訪れる。しかし失敗すれば、家族全体が末代までも人々から批判されるかもしない。お前はそれでもいいか」

              この時、彼は蒋介石と袂を分つことを心に決めたに違いない。孫文の大アジア主義を継承する道を選んだ汪兆銘。日中の共存共栄こそ中国国民の幸せに至る道であると確信して。

              日中和平の礎として。

              高宋武と別ルートで茅野老に和平工作を依頼した、上海派遣軍司令官である松井石根(いわね)大将もその一人であった。彼の若い頃に川上操六陸軍大将の唱えた「日本軍の存在理由は東洋の平和確保にあり」という見識や、孫文の日中韓対等連携を指向する大アジア主義に共鳴して、自身も「大亜細亜主義」という日中が連携し欧米の侵略に対抗して平和裡な中国統一を掲げる考えを提唱していた。蒋介石とも長く親交があった。

              1933年には日本国内で「大亜細亜協会」を設立し会長に就任した。この協会へは、組閣前の近衛文麿などが参加している。その根底にある、日本と国民党政府との協力維持という考えは、1937年の冬に総大将として南京に入城した際も何ら変わりはなかった。

              翌年の11月には、第一次近衛文麿内閣が反共主義(抗日容共な国民党政府の否定)と汎アジア主義(東洋古来の精神文化と西洋近代の物質文化の融合による「新文化の創造」や東洋独自の道徳仁義による「東亜に於ける国際正義の確立」)を含む、「東亜新秩序建設」という理想を掲げている。

              一方、コミンテルンである尾崎秀実(實)の狙う「東亜共同体」とは、日本と蒋介石政権が共倒れして、両国で共産主義革命が実現した後に成立するはずのソ連・日本・中国による「赤い東亜共同体」であった。

              「終局的な平和」の為なら、国民を欺くことも日中戦争に駆り立てて共に「人柱」にすることも許されると信じて疑わないコミンテルンの忠実な使徒であった。第1次近衛内閣発足直前に「昭和研究会」の一員となってからは、「中央公論」などへの寄稿を続けた。新聞記者時代に培ったペンの力を知っていた。

              一連の流れの中で私達は、共産思想の恐ろしさや狡さや抜け目のなさを知ることになろう。また、いったん撒かれた対立の種は取り除くことが困難なことも。


               

              ともかく、アヘン戦争の一報を聞いた時から日本は欧米の侵略へ対抗する術を絶えず考えていたのだと思う。一番の良策はやはり、日中が連携してアジアの繁栄を守る中にあるはずだ。その術はもう潰えてしまったのか。それとも、今も夢の一部として続いているのだろうか。

              何故日華事変は長引いたのか。そこから学ぶことは多い。学んだことを活かして伝えたい。

              大陸の風が吹く。私達が恋い願う風は海からの風だ。

              蒋介石は後に松井大将の話になった時、「閣下には申し訳ないことをした。南京には大虐殺など無かった」と涙ぐんだそうである。と同時に支那事変当時、党の兵士に過酷な民衆からの略奪や犠牲を許したのも、当時の中国人としては何の自らを呵責することもない判断であった。

              松井大将は南京入城の翌年には、役目は終わったと考え制服を脱ぎ帰国した。帰国後は南京と日本の土を混ぜた「興亜観音」を作り、毎日欠かさずお参りしていた。

              終戦後には、南京大虐殺というありもしない組織的な事件の首謀者として、B級戦犯として処刑された。

              南京占領に厳しい軍紀を持って臨み、入城後に略奪が数十件あったことさえ、日露戦争に比べて変わってしまったと嘆く尾張藩士の息子であった。

              松井石根大将の辞世の句は、3句詠まれている。最後の句の「自他」は、日本人と中国人の暗喩であると推測されている。南京入城翌日の慰霊祭の際には、「支那人を馬鹿にせず、英米には強く正しく、支那には軟らかく接し英米依存を放棄させるよう」強い調子で訓示を与えたという。どこまでも、日中の強い連携と東洋の平和を願った人であった。


               

              天地も人もうらみずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く
               

              いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば
               

              世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等に誠の心  

               

              参考Web:参考Web:国際派日本人養成講座^^^^^参考Web:国際派日本人養成講座^^^^^国際派日本人養

              参考Web:国際派日本人養成講座^^^^^^^

              汪兆銘工作はコミンテルンの陰謀か?

              Wikipedia(フリー百科事典)^^^


               


              歴史探訪〜日華事変(支那事変)は何故長引いたのか (1) 〜

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                 忘れられない人がいる。近衛文麿元首相の長男で元陸軍中尉の文隆氏。昭和18年(1943年)末、士官候補生だった和田さんは、3カ月間同じ部隊に所属した。

                 

                 文隆氏は米国留学経験があり、当時の世界情勢に明るく、祖国への思いも強かった。

                 ある日、思い切って尋ねた。「戦況悪化は著しいようですが、見通しはどうなのでしょうか」。文隆氏は即答した。「勝負はついた。誰かが止めなければいけないが、陛下以外にはいらっしゃらない」

                 当時は口にするのもはばかられる話題。18歳だった和田さんの質問に対し、諭すような口調だった。「日本は敵を知らず、防御することもせず、戦争に突入した。米国は日本を相当研究しているぞ」。諜報や情報収集力の重要性を切々と説いたという。

                (8月15日の産経ニュースより一部抜粋)

                 


                 

                敵を知り己を知れば百戦殆(あや)うからず。

                己の中にも敵はいる。

                何故、支那事変は長引いたのだろうか。

                講和の機会はなかったのだろうか。

                 

                 

                 

                日本陸軍にとって、中国の共産化は最も避けたかった事態のひとつであった。ゆえに、平常においても蒙疆(もうきょう、内モンゴル中部)・満州への駐兵に固執した。皮肉にもこれが中国への進出を狙うアメリカとの対立を招いてしまう。その姿勢を変えなかったことは対米開戦のひとつの伏線となる。
                 

                満州国建国後の日本は引き続き軍を駐留するかたわら、満州国内での「五族協和」を謳う。

                背後にある欧米の思惑と暗躍するコミンテルン。

                日本は当初の目的を見失ってはいけない。すなわち支那や満州など中国大陸との共存共栄、あるいはロシア勢の満州以北への追い返し。

                 

                 

                 

                支那事変勃発後には、コミンテルンの尾崎秀実(實)(ほつみ)が関わったとされる日中和平分断工作や親日政権樹立の話がある。歴史上の人物が味方か敵か惑わせる。実は危なくこの話を信じるところだった。何といっても何年か前まで、毛沢東と蒋介石の区別もよくつかなかったのだから。

                曖昧なところを曖昧なままで結論を急いではいけない。

                 

                関係者の人となりを見てみよう。

                蒋介石の長年の片腕であった汪兆銘。共に親日派で、孫文の死後、協力して共産党勢力の排除にあたってきた。

                思想的に公正な新聞を戦後に立ち上げた松本重治もいる。

                一介の評論家である尾崎がその行動まで影響を与えることは適わないと思えてきた。

                 

                ネットで探ってみると、こんなまとめが見つかった。

                鍵は、仲間割れとされた親日政権樹立ではなく、蒋介石が監禁された西安事件にあった。

                簡潔明瞭なまとめなので、そのまま引用させてください(前後省略、年月など一部加筆しています)。

                 

                 


                 

                 

                 

                事件直前の状況

                蒋介石

                国民党指導者の蒋介石は国交内戦9年、ついに毛沢東を僻地延安に追い詰め、支那統一五分前という絶好の位置につけていた。
                彼の戦略は、安内攘外といって、国内を統一してから、支那を植民地にしている英国などと交渉して独立国として権利を取り戻そうというものであり合理的であった。
                日本は1932年に満洲国を作ったが、蒋介石はタンクー協定を結んで、満洲との鉄道、通信を正常化し、日本とは良好な関係を維持していた。
                彼が一番警戒していたのが共産党であり、「日本は皮膚病だが中国共産党は(生命取りの)心臓病である」と述べたのはよく知られている。

                対日戦の利益

                自分の国民党軍を損耗するので得はない。損するだけ。事実戦後の内戦再開で上海戦24万の損失を嘆いた。

                日本

                日本は蒋介石と反ソ反共で一致していたので、軍事顧問を送るなど協力していた。

                ソ連警戒中。大陸の戦争に利益なし。

                張学良

                張学良は満洲の軍閥張作霖の継承者である。満洲で日本人を迫害し,協定侵犯を300件以上起こしたので少数の日本軍に反撃され(満洲事変)本土に追い出され、部下を連れて当時国民党蒋介石軍の配下になっていた。蒋介石は張学良に共産軍本拠地の総攻撃を命じていた。しかし張学良は蒋介石に内心反発し自分の軍閥軍を弱めようとしているのではないか、と疑っていたという。このためソ連や中共の工作にのせられた。張学良は元の勢力圏である満洲に帰りたかったので、何らかのソ連からの約束があった可能性がある。

                日本を滅ぼせば満州を再度支配できると思った。

                毛沢東

                中共の毛沢東は、1927年の蒋介石の反共攻撃で敗北をつづけ辺境を逃げ回って延安に到着していた。彼はソ連の顧問団とともに飛行機でソ連に逃亡する準備を終えていたという。
                この中共を管理していたのがソ連である。ソ連は1921年に中共を設立し、顧問団、金、武器を与えソ連の極東政策に利用していた。
                当時の毛沢東は田舎のゲリラの隊長にすぎず、世界の左翼から神と畏怖されていたスターリンとは月とスッポンであった。

                蒋介石に追い詰められていたので、内戦が止めば息継ぎができる。

                スターリン

                欧州ではヒトラーが台頭し、軍事力を強化していた。これを見たスターリンは、東西挟撃を恐れて、東部国境の反共勢力である日本と蒋介石を無力化することを考えた。それは両者の戦争であった。スターリンは反共の蒋介石を対日戦争に利用することを考えた。それは毛沢東は蒋介石と比べると田舎者であり、欧米の支援を取り付けるのは難しいと見たからである。
                スターリンは1926年に蒋介石を軍艦「中山」号で誘拐しようとして失敗している。
                1935年のコミンテルン第七回大会では主敵をナチスドイツ、ポーランド、日本としている。中共を滅ぼそうとしている蒋介石は入れていない。ということはスターリンはこの時すでに蒋介石を利用して日本攻撃を行わせる戦略を持っていたということになる。コミンテルンは「スターリンの手袋」と言われ、KGBが金も人も支配するソ連海外謀略工作の偽装組織であった。

                東部国境の反共の日本と蒋介石が戦えば、安心して西部のヒトラーに対応できる。


                 


                英国・植物学者:お帰り、100年前の桜 標本、鮮やかに(転載)

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                  (写真)ウィルソン株(屋久島町2012年梅村直承撮影)
                   

                  ◇米ハーバード大保管 屋久島の作家の撮影写真を公開

                   英国人の植物学者、アーネスト・ヘンリー・ウィルソン(1876〜1930年)が来日した際に採取した植物の標本の写真が、採取から1世紀を経て日本で公開されている。鹿児島県・屋久島在住の作家、古居智子さんが、米ハーバード大が保管するウィルソンの資料を紹介する活動の一環で、現地で撮影したもの。サクラの淡いピンク色が確認できるなど、太平洋戦争の戦火や開発にさらされる前の草花をよみがえらせる貴重な資料だ。

                   ウィルソンは、屋久島で屋久杉の巨大な切り株を調査し、「ウィルソン株」の名前の由来となったことで知られる。珍しい植物を求めて旅するプラントハンターとして中国で調査した後、ハーバード大の依頼を受けて1914年と17年の2回来日した。1914年の来日時には当時整備されたばかりの鉄道網を使い、屋久島からサハリンまで日本を縦断したとされる。

                   古居さんは4年前からウィルソンの国内の足跡を調べ始め、今年7月にハーバード大の標本館を訪れた際、ウィルソンが日本で収集したとみられる標本157点を確認した。標本には全国各地の地名が記され、コヒガンザクラの花(1914年東京)、オオイタビの葉、タチテンノウメの葉と花(いずれも1917年小笠原)、フクギの葉(同年沖縄)などがあった。

                   ウィルソンは、日本のものも含め生涯で約1万6000点の標本と約7700枚の植物の写真を残したという。世界各地で進む樹木の伐採を心配していたといい、新聞のインタビューに「もし写真や標本で記録を残さなかったら、100年後にその多くは全て消えてなくなってしまうだろう」と話していた。

                   古居さんによると、ウィルソンが撮影したり標本にしたりした樹木には、戦中の空襲や戦後の開発で失われたものが多いという。古居さんは「ウィルソンが残した写真や標本から、日本のこれまでの100年、そしてこれからの100年を考えてほしい」と話す。

                   プラントハンターの歴史に詳しい国際日本文化研究センターの白幡洋三郎名誉教授は「ウィルソンは冒険家として知られていたが、標本からは研究者として植物と真摯(しんし)に向き合う姿勢が伝わってくる」と話す。

                   これらの標本の写真は、鹿児島市内で開かれている写真展「百年の記憶 ウィルソンの見た鹿児島の自然」で来年2月末まで公開される。【斎藤広子】

                   ◇意義深い資料

                   国立科学博物館の岩科司・植物研究部長の話 標本の中でも、小笠原で採取された植物に、すでに絶滅したものが含まれていれば非常に貴重な資料になる。100年前の日本で樹木を中心にした写真も恐らくなく、100年間の樹木の成長を知るうえでも意義深い。

                  転載元:毎日新聞 2015年9月26日 ネット配信分
                   

                  以下、米ハーバード大学標本館提供
                  (C) Harvard University


                  アーネスト・ヘンリー・ウィルソン



                   

                    

                      (写真補足)
                   
                    左上:コヒガンザクラの花
                        (1914年3月に東京で採取)

                    右上:タチテンノウメ
                        (1917年4月に小笠原で採取)

                     左:フクギの葉
                        (1917年3月に沖縄で採取)




                   





                   


                  写真展「百年の記憶 ウィルソンの見たかごしまの自然」告知

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                    地元の話題をひとつ。

                    以前ご紹介した、英国学者アーネスト・ヘンリー・ウィルソンの写真展の案内です。

                    古居智子さんが南日本新聞に連載されていたエッセイにまつわる写真や、大正噴火後の桜島の様子も見られるそうです。植物学者の彼が風景写真を残すのは珍しいとのことでした。

                    場所は、鹿児島の西郷さんの銅像近くです。来年まで開催中とのことですので、お近くまで来られた際はぜひ訪ねてみてはいかがでしょうか。

                    (エッセイの何本かを転載させて頂いています。カテゴリーからどうぞ^ ^)ノ )

                     

                    写真展 「百年の記憶 ウィルソンの見たかごしまの自然」実施要項

                    1 趣旨 

                    巨大な屋久杉の切株ウィルソン株を発見したウィルソンは桜島大正噴火の年から数度来日し,沖縄・小笠原からサハリンまでの植物を精力的に調査し,全国で約750,鹿児島で は約 120 (屋久島58枚を含む)の鮮明な写真を残している。ウィルソンの足跡にふれウィルソンの写真と同じ位置で撮った現在の写真を比較すると,鹿児島で起こった 100年間 の自然や人の暮らしの変化が見えてくる。古い写真から今までにおこった出来事を読み解く機会を提供する。

                    2 期間
                    平成 27 95()~平成28228()

                    3 主催
                    鹿児島県立博物館 特別協力 古居智子(作家)

                    4 共催・後援
                    南日本新聞社,KTS鹿児島テレビ,公益財団法人 カメイ教育振興財団,公益財団法人屋久島環境文化財団,ハーバード大学アーノルド樹木園,姶良市,鹿児島市,霧島市,薩摩川内市,屋久島町および各教育委員会,仙巌園 

                    5 場所

                    宝山ホール4階化石展示室

                     6 内容

                    (1) ウィルソンの人物像・経歴、ハーバード大学アーノルド樹木園長からのメッセージ等
                    (2) 写真撮影地位置図
                    (3) 写真と解説(撮影にいたる足跡と植物解説)特定された撮影地点 43 鹿児島新旧写真 34×2 城山10、蒲生7,狭野神社2,霧島(1914 年分)3,(1918 年分)2,藤川天神2,新田神社2,桜島4,仙巌園2ほか 屋久島新旧写真 8×2

                    7 関連事業
                    (1) 屋久島研究講座・博物館講演会(屋久島環境文化財団と共同開催)

                    「ウィルソンの写真が語る人と自然」

                     古居 智子 (作家)・寺田 仁志 (植物担当学芸主事)

                    日時・会場 1017()14:00~ 県立図書館大研修室 

                    (2) 科学教室「殿様が愛した庭園探訪」

                     920()10:00~
                    島津光久がつくり,ウィルソンも写真を撮った仙厳園の植物・景観について現地で解説する。

                    (3) 科学教室「城山植物ウオッチング」

                     1115()10:00~
                    ウィルソンが歩き撮影した城山周辺の植物・景観について現地で解説する。

                    (4)ミュージアムトーク
                    14:00~
                    平成2795(),10 17(),1115(),1226(), 平成2819(),221()

                    (5) ドキュメンタリー映像製作 KTS鹿児島テレビ 展示風景,自然観察会,講演会風景を動画撮影し,会場だけでなく,出生地及び仕事場であったイギリス,米国だけでなく,調査地でもあった中国,香港および鹿児島県内で配信する。

                     8 その他

                    観覧料無料
                    展示写真は期間途中で入れ替える
                    写真提供 ハーバード大学アーノルド樹木園,川越保光,日下田紀三


                    歴史探訪〜ヤルタ密約〜

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                      今日は時をさかのぼって、先の大戦末期にヨーロッパでの趨勢が決し、連合国がクリミア半島のヤルタ近郊に集まった時のことについて述べてみます。この時に日本はまだ降伏するつもりはありませんでした。ソ連も加わり密かに話し合いが為されたことで、日本は調停役を知らず失います。

                      ヤルタ会談で密かに結ばれた協定がある。

                      英米とソ連との間に交わされたいわゆるヤルタ密約である。

                      ヤルタ協定(密約)

                      締結日:1945年2月11日

                      三大国すなわち米英ソは、ドイツが降伏し、且つヨーロッパに於ける戦争が終結したる後2ヶ月又は3ヶ月を経て、ソ連が次の条件により連合国に与して対日戦争に参加すべきことを協定するものとする。

                      一.外蒙古(蒙古人民共和国)の現状維持

                      二.日露戦争に依り侵害されたロシア国の旧権利の回復

                        (甲)樺太の南部と隣接する一切の島嶼のソ連への返還

                        (乙)大連商港でのソ連の優先的利益の擁護と国際化、又、旅順口の租借権はソ連の海軍基地として回復されること

                        (丙)東清鉄道及び大連を出口とする南満州鉄道は、中「ソ」合弁会社を設立して共同運営されること。但し、ソ連の優先的利益は保障。中華民国は満州に於ける完全な主権を保有すること

                      三.千島列島のソ連への引き渡し

                      三大国の首班は、ソ連のこれらの要求が日本の敗北の後に確実に満足せしめらるべきことを協定する。

                      ソ連は、中華民国を日本より解放する目的を以て自国の軍を用いて援助する為に、ソ連・中華民国間友好同盟条約を中華民国の政府と締結する用意があることを表明する。

                      (いくらか文体を変えています)

                      日ソ中立条約を盾に、参戦するならと譲らないソ連。

                      この時スターリンはドイツ分割占領方式にならって、日本占領についても日本の東半分、少なくとも北海道の占領を認めてほしいと注文を付ける。ルーズベルトは概ね黙認する。

                      ドイツは全面降伏する。5月8日にフランスのランスにて降伏文書に調印。続く9日に首都ベルリンにて批准手続きとなる降伏文書調印を行う。

                      7月16日、アメリカのニューメキシコ州での原爆実験成功。。。

                      ソ連は広島原爆投下の3日後、日本時間で9日になろうかという時に宣戦布告し、ソ連軍は大挙して満州に侵入する。

                      領土拡張の本能を抱くロシアは、共産思想を得てもそれは変わらず、ヨーロッパは東南アジアが植民地であった頃の夢覚めやらず、自由の国アメリカにとって、ソ連はいつの間にか倒すべき敵であった。日本はそれでもなお思う。八紘一宇の夢。

                      そして、8月15日を迎える。日本はポツダム宣言を前日受諾し、これを国民へ知らせるを以て終戦の日とする。


                      近衛家の戦い(近衛文隆)〜ラーゲリに消えたサムライ〜

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                        (長文転載)

                        ■■ Japan On the Globe(297) ■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

                         

                        人物探訪:近衛文隆 〜 ラーゲリに消えたサムライ

                         

                        ソ連での獄中生活11年余。

                        スパイになる事を拒否し続けて、ついに屈しなかった青年貴族。

                         

                         

                        ■1.日本首相の息子であるコノエ中尉を捕らえました。■

                         

                         

                         同志スターリン、朝鮮国境で3日前にスメルシ(赤軍防諜部)が日本首相の息子であるコノエ中尉を捕らえました。

                         

                         その報告に、スターリンはゆったりと聞き返した。「コノエだと? この夏にヒロヒトが特使として名指したあの人物の息子か?」

                         「ヒロヒトの特使」とは、日本の降伏も間近の1945(昭和20)年7月に、ソ連に和平工作の仲介を依頼するために元首相・近衛文麿が特使として指名されたことを指す。しかし、その時にはすでにスターリンは日ソ中立条約を破って対日参戦することを決めていたのである。

                         近衛文麿の長男・文隆が所属する重砲兵第3連隊が停戦命令に従って武装解除に応じ、ソ連軍に投降したのは玉音放送の3日後、1945(昭和20)年8月18日だった。文隆は配下の中隊の部下を集めて、「なあに、川ひとつ越せば朝鮮だ。釈放されたら、さほど手間取らずに内地に帰れる。それまでは一致団結して頑張ろう」と相変わらず元気な檄を飛ばした。 

                         文隆は17歳にして米国プリンストン大学に留学したが、遊び過ぎがたたって中途退学。その後、しばらく父・近衛首相の秘書役を務めた後、上海に渡り、蒋介石政権の高官の娘と恋仲になって、一緒に日中和平工作に乗り出すが、軍部ににらまれて徴兵の対象となり、二等兵として満洲に配属された。今度はよく勉強して瞬く間に中尉まで昇進した。身長1メートル79センチ、体重81キロという堂々たる体躯にふさわしいスケールの大きな人物だった。

                         

                        ■2.すごいスパイになる!■

                         

                         ソ連国家保安省の防諜担当捜査官ピィレンコフは、保安省次官セリヴァノフスキー将軍のデスクの前に立っていた。将軍はいきり立っていた。

                         

                         いずれこちらの手に取り込むのだ。それはすごいスパイになる! 日本ではなんとしても工作要員が必要だ。捕虜を何人協力者に仕立て上げても、共産党支部に直行して集団入党が関の山。雑魚の集団だ。おまえの仕事は、一本釣りだ。話がついたら、すぐに帰国させ、国会議員にする。政党をつくり彼を党首にする。

                         いいか、コノエを落とせば、レーニン勲章だ! 期限は1ヶ月。できなければ、やつと一緒に監禁されることになる。

                                

                        ■3.そんな無分別だと、死刑台に直行だぞ。■

                         

                         コノエ、もう午前3時だ。17時間もあんたとやりあっている。そろそろ吐かないかね。

                                

                         そう言う捜査官ピィレンコフも駕籠の鳥であった。尋問は盗聴されている。コノエに向かって怒声を発し、頭がおかしくなるくらい、同じ質問を繰り返さねばならない。文隆はきょう一日何も食べていない。頬はこけ、目は落ちくぼんでいた。

                         

                         この8日間、捜査官殿、わたしは50時間尋問されました。同じ質問が繰り返されました。何故に報いを受けるのでしょうか? 皇軍将校たるわたしが軍紀を遵守し、陛下に忠誠を誓ったからですか? わたしは死ぬまで忠義をたがえません。わたしをむりやり裏切らせるようなことはあなたにもおできになれない。家族、祖国、天皇陛下、わたしにとって神聖にして犯すべからざるすべてのものを裏切れなんて。

                                

                         そんな無分別だと、死刑台に直行だぞ。

                                

                         父もそうだったが、わたしも死をおそれない。その備えは常にできております。

                                

                         もういい、コノエ。おまえの生殺与奪の件はこちらにある。言われたことをよく考え、分別を示すことだ。おまえはふつうの捕虜ではない。国家保安部の最高首脳が本件に関わっているのだ。ほら、紙だ。監房にもち帰り、自分の罪状を書け。

                         

                         紙は必要ありません、捜査官殿。書くことがないのです。

                         

                         翌1946年4月、文隆はモスクワに送られ、ソビエト国家保安機関の本部ビル・ルビャンカに収容された。このビルには銃殺室や拷問室もしつらえてあり、スターリン時代の暴政のシンボルであった。

                         

                         その中の何十とならぶ地下墳墓のような監房の一つに文隆は入れられた。便桶の強烈な悪臭をかぎながら、酸っぱい黒パンと水のような囚人スープを与えられる。しばしば夕食後に呼び出しを受け、時には翌朝未明までぶっ通しで尋問を受けた。やがて歯は抜け始め、視力も落ちてきた。まだ30代だというのに、老人のようになってきた。

                         

                        ■4.「ソ連侵略の策謀」容疑■

                         

                         取り調べが長く続き、3年目の1948年4月19日、文隆は獄中で起訴された。スパイにならない以上、今後の対日カードとして罪人に仕立て上げて人質にしておこうとしたのであろう。起訴理由は、資本主義幇助に関わる犯罪行為の疑いであった。

                         その内容は、父・文麿の秘書官在任中にその意を体して、中国や満洲国の現地部隊を訪問し、ソ連侵略の策謀をなした事、また昭和20年2月14日、文麿が昭和天皇に上奏したいわゆる「近衛上奏文」に荷担して、国際共産主義に対する妨害をなしたという理由であった。

                         近衛が首相在任中に日ソ中立条約を成立させた事実だけを見ても、「ソ連侵略の策謀」とは荒唐無稽な理由であった。その中立条約を破棄して対日宣戦布告をしたのはソ連の方である。また「近衛上奏文」とは、日本を中国や英米との戦いに引きずり込んだのは国際共産主義の策謀であったと自省した内容で、現実にソ連のスパイ・ゾルゲと彼に操られた元朝日新聞記者・尾崎秀實が逮捕・処刑されている。しかし文隆は上奏文の存在すら初耳であった。

                         

                        ■5.ロシア語の嘆願書■

                         

                         起訴されてから、文隆はロシア語を身につけようと決心した。英語の通訳を介さずに、直接ロシア語でやりとりできれば、裁判でも言いたいことが言えるようになる。ダメで元々と、看守にロシア語を学びたいので辞書と紙、鉛筆を支給してくれないか、と頼んだところ、意外にもすぐに露英辞典を与えられた。

                         またロシア語の書物も、要求すれば無条件に差し入れられた。ソ連の文献を読めば共産主義の信奉者となり、スパイに転向するかもしれない、と考えたのかも知れない。

                         紙と鉛筆は支給されなかったので、10日に一回の入浴の際に、風呂場で掠めた石鹸屑と、マッチの燃えかすを練り合わせ、即席の墨を作った。これをマッチ棒につけて、タバコの空き箱の裏に文字を書きつける。文隆は毎日最低2時間はロシア語の学習にあてる事を自らのノルマとした。

                         それから2年ほど、ひたすらロシア語の学習に励んだ結果、文隆はロシア語の読み書きと日常会話には困らないようになった。10分間の入浴を終えて、看守詰め所の前を通りかかった時、ラジオの朝鮮戦争勃発のニュースを聞き取ることができた。

                         文隆が獄中で書いたロシア語の嘆願書が残されている。寒さをしのぐために取り上げられている毛皮の手袋を返して欲しい、とか、監房の通気窓が氷のために閉まらなくなったので、自分のスプーンで氷を割ろうとした所、折れてしまったので、代品の支給をお願いする、などと、監獄での暮らしぶりが窺われる。

                         後には、同じ監獄で友人となったヨシダ・タケヒコという日本人が肺病で見る見るうちにやせ衰えていったので、その世話ができるように、同じ房に入れてくれ、と嘆願している。

                         

                        ■6.「わたくしが敵なら銃殺しなさい」■

                         

                         7年目の1952年1月14日、突然、ソ連国家保安省の部長に呼び出され、判決が言い渡された。禁固刑25年である。文隆は起訴されたという以上、法廷に出て検事と弁護士のやりとりが、たとえ形の上だけでもあるだろうと思っていたが、それすらもなかった。「そんな裁判は聞いた事がない」と文隆は抗議したが、「コノエ、世界一民主的なわが裁判ではすべてが可能なのだ。われわれはブルジョワ法の古めかしいドグマは認めない。」

                         文隆には知るよしもなかったが、ソ連崩壊後に公開された資料では、このような形で有罪とされた者は385万人、うち82万人が極刑に処されたとされている。裁判の形式などに構っている暇はなかったろう。

                         大佐は今までの何百回もの尋問によって捜査官たちが作成した調書の抜き書きを示し、「きみの罪状は捜査で証明され、きみも認めた。だから署名せよ」と言う。文隆はロシア語で言った。

                         

                         いいですか、大佐。今短刀を持っていたなら、もう何度も捜査官たちに言ったように、迷わず相手の腹を刺していたことでしょう。このつまらぬ文書を見せられてこわくなったとか、びっくりしたからではありません。破廉恥にもわたくしの名誉を侮辱したことに対する抗議です。いかさま師のようにわたくしを刑に服させようとしている。わたくしが敵なら銃殺しなさい。その方が分相応だ。

                         

                        ■7.「近衛文隆を即刻帰せ」■

                         

                         1月20日、文隆はモスクワから、貨物列車を改造した囚人護送車に詰め込まれて、バイカル湖の西にあるイルクーツクのアレクサンドロフスク監獄に移された。帝政ロシア時代から3大中央監獄と呼ばれた国内最大の監獄の一つである。

                         文隆が収容された49号室は、25畳ほどの部屋に20人余りの囚人がいた。ほとんどが日本人で、関東軍将校や満洲国官吏、外務省領事などの任にあった人々だった。日本語をふんだんに話せることがうれしかった。天気が良ければ1時間ほど狭い敷地内を散歩できるが、冬の間は猛吹雪が吹き荒れて閉じこめられてしまう。

                         そんな時は文隆の独壇場だった。プリンストン大学の学生合唱団で鍛えた喉で、日本の歌を歌うと、房内はしんと静まりかえり、涙を流す者もいた。またアメリカでの数々の武勇伝を面白おかしく語っては大笑いさせた。まるでレコードのように同じ話を繰り返しせがまれた。

                         1955年6月に日ソ国交正常化交渉が始まった。この時点でもいまだ2千4百人近くもの「戦犯」がソ連国内に抑留されていた。特に文隆はその中心的存在として、東京や京都では釈放を要求する集会が開かれ、何十万人の署名入りの声明書や嘆願書が出されていた。日ソ交渉では鳩山首相が「近衛文隆を即刻帰せ」と要求した。

                         

                        ■8.文隆、死す■

                         

                         1956年6月14日、文隆はモスクワの西北およそ2百キロのチェンルイ村のイワノヴォ収容所(ラーゲリ)に移された。外国のジャーナリストも見学できる別荘のような建物で、日本軍の将官クラスや外務省の幹部級が抑留されていた。食事もよく、ここに入れられた日本人は急速に健康を回復していった。しかし、文隆だけは不眠に苦しめられ、気分が優れず一人陰鬱な顔をしていた。凄まじい尋問と獄中生活を凌いできた文隆には初めての事だった。

                         抑留者のうちに日本軍の軍医がおり、心配して文隆に言った。ソ連では政治犯にある種の薬物を使っており、それを何度か注射されると、鬱状態が続き、自殺に追い込まれることがあるという。文隆はいつもの痔の治療の際に、透明な液体の注射を打たれている事を思い出した。

                         10月19日、鳩山首相が領土問題を棚上げする形で、日ソ共同宣言にこぎつけ、日本人抑留者の帰国も確定した。ラジオのニュースを聞いたイワノヴォ収容所の日本人の間でどっと歓声があがった。文隆も久しぶりにうれしそうな顔をした。 

                         23日、不眠で一夜を明かした朝、ひどい倦怠感と頭痛に襲われた。高熱が数日続き、そのまま29日午前5時、息を引き取った。死因は動脈硬化にもとづく脳出血と急性腎炎とされた。同室で治療を受けていた太田米雄・元陸軍中将は午前4時20分頃、病室を移され、入れ替わりに専属の女医が入って、その後1時間もしないうちに悲報を聞いたという。

                         

                        ■9.「本当のサムライだ」■

                         

                         1958年1月28日、モスクワ。ソ連共産党中央委幹部会が開かれていた。文隆の未亡人から出されたイワノヴォ収容所への墓参りと遺骨返還の要請にどう答えるか、フルシチョフ以下の最高首脳陣が討議していた。「遺骨を返すしかない、日本なしではやっていけない」という結論が出た後で、国際政治・諜報担当のスースロフが言った。

                         

                         プリンスの死は、われわれにとり、ここだから言えることですが、ある種の救済でもあったのです。

                         同志諸君、ご想像下さい。こんな折りに、日本政界にもう一人のコノエが現れたらどうなりましょう。シベリア抑留の苦難を耐え抜いた若く生気に溢れた貴公子。40代の日本人たちは、元軍人であろうとそうでなかろうと、敗戦に不満で占領の恥辱に我慢がならない。ただちにコノエを新しい指導者として迎え入れるでしょう。こう言ってもまちがいはありますまい。3,4年後には、ソ連はその収容所群島の裏表を知り尽くした日本首相と事を構える羽目になる、と。

                         

                         フルシチョフが「賛成だ」と支持の声をあげた。ブレジネフは文隆が何度も脅されながらも、決してスパイにならなかった事を聞いて「あっぱれだ! 本当のサムライだ。」と感心した。彼は死因を聞いて「マイラノフスキー(スターリンの殺し屋)の手口としか考えられないな」と言った。

                         「その手口が使われたにしろ、使われなかったにしろ、今じゃ何の意味がある?」とフルシチョフが話を締めくくり、会議を打ち切った。

                        (文責:伊勢雅臣)

                         

                        ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)

                        1. V.A.アルハンゲリスキー、「プリンス近衛殺人事件」★★★、

                           新潮社、H12

                        2. 西木正明、「夢顔さんによろしく 上・下」★★★、文春文庫、H14

                        © 平成15年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.

                         

                           

                         


                        「近衛文麿の戦い」読後感想など

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                          近衛文麿の戦い(上)〜日本を戦争に引きずり込んだ「見えない力」
                          近衛文麿の戦い(下)〜命も名誉も捨てて近衛が護ったもの

                          共産勢力の恐ろしさ。何かあれば民主主義を持ち出すところは今に通じます。「共産主義は偽神」とはよく言ったものです。

                          誰もが分け隔てなく幸せに暮らせる世界。彼らの発するこの思想はぐっときます。特に若い人や純粋な人ほどそうでしょう。

                          ですが、根本的な欠点があります。

                          それは労働を忌むべきものとしているところです。

                          我が国は、神話の時代から、労働は尊い。

                          君は民を「百姓(おおみたから)」と呼び慈しみ、民は君を慕う。
                          国中平らかに安らけく。

                          そこにあるのは互いを信頼し合う心です。

                          君のおわします豊かな国。自助精神のある国。労働は尊い国。

                          戦後70年。真摯な反省とともに、これを守り、受け継いでいかなければなりません。

                          民主主義とは相性がいいようにも思えます。

                          ちなみに、資本主義は悪魔とのこと。中国は深みにはまっていますね。

                          偽神?悪魔?そう解説するブログはこちら。卓見です。

                            ↓  ↓  ↓

                          第三の道01共産主義の偽神

                          第三の道02資本主義の悪魔


                           



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