ー8月18日ー「満州国」皇帝が退位(抜粋)

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    『再現日録』終戦からの31日間

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    (3)1945年8月18日 「満州国」皇帝が退位

     

     日本の連合国への降伏に伴い、「満州国」(中国東北部)の溥儀皇帝が18日に退位した。これによって満州国は建国以来約13年半で消滅することになった。

     退位の儀式は同日未明、朝鮮との国境に近い大栗子の皇帝の仮住まい先で行われた。皇帝は自ら「退位詔書」を読み上げながら、目頭を押さえて号泣したという。

     皇帝は9日のソ連対日参戦後、満州国の首都新京(長春)から大栗子に退避、日本人社宅に移り住んでいた。

     日本の関東軍も満州北部からは退却し、新京から通化に司令部を移している。このため満州各地では開拓団など多くの日本人が取り残され、ソ連軍などによる暴行や略奪が横行している。避難中に家族が離散するなどの悲劇も起きている。

     

     一方、日本では18日、内務省が「外国駐屯軍慰安施設等整備要項」で、占領軍兵士のための慰安婦設置を全国に指令した。

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     溥儀はこの後、日本への亡命を図ったが、ソ連軍に捕らえられ、50年に中国に身柄を引き渡される。戦犯収容所に入るが59年に特赦で出所した。その生涯は「ラストエンペラー」として映画化された。

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    転載元:南日本新聞 2015年8月18日掲載分

     

     

    ※大栗子=ターリーズ

     

     

     

    過去は振り返らない。

    歴史をただ受け継ぎたい。

    空白は虚偽を産むからそうならないように、惑わされないように。

     

    次に記す事件は二度と繰り返してはならない。

    亡くなった方達に哀悼の意を。

     

     

    朝鮮と国境を接する満州通化省。

    終戦時、通化省の満州国軍や警察は国民党軍に組み入れられていた。中華民国の軍の統治下にあったのだ。

    ソ連の参戦に呼応し、八路軍が駐留する。

    ここでの八路軍とは、華北からの正規の中国共産党軍と先に駐留していた朝鮮人民義勇軍を合わせた総称である。

     

    満州各地から命からがら南下してきた日本人は通化市に集まっていたものの、ソ連軍の占領下、内地に帰れない。

    ソ連が撤退すると、支配を委譲された共産党軍が幅を利かせるようになる。

    だんだんと締め付けや暴力、略奪はひどくなった。中国人で処刑をまぬがれた通化省行政の幹部はわずかだった。

     

    中華民国政府の要請を受けた、元関東軍軍人らは共に蜂起しようと計画を立てていたが既に情報は漏れていた。

    1946年2月3日。

    武器もない中、共産党軍の拠点襲撃や、溥儀の后婉容や嵯峨浩(皇弟妃)らを救出しようと蜂起するも、日本人は孤立して敗れる。

    国民党軍は計画を延期しようとしていたのだが連携がとれず伝わらなかった。

    16歳以上の日本人男性は関与を問わず連行された。そして数千人の日本人が無惨に殺された。

    これも戦後の話。

     

     


    満州国

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      満州国地図

       

      満州国は、もうひとつのアメリカと言われているんですよね。

      日本国が保護国で、満州国は被保護国という位置付けになりますでしょうか。

       

      清の最後の皇帝愛新覚羅溥儀は再び万里の長城以東の土地、わが故郷満州で執政の地位になることを了承した。

      それは自らの意志だった。西太后の墓を国民党軍に荒らされ、陵辱されてから。

      憤怒し、支那と訣別し、満州の再興を誓った。翌々年には皇帝の座に就き、日本を訪れた際は東京駅で昭和天皇直々の歓迎も受けた。貞明皇后の慈母のごとく温かいもてなしに感激したともいう。

       

      しかし文化の違いは歴然であった。例えば、召使いを片方が死ぬまで喧嘩させて、楽しむわけでもなく、少しの暇つぶしになったかなという程度。日本の統治の仕方と余りに違いすぎる。

       

      日本としては、アメリカが全般的に移民禁止してから、有り余る人口を満州に送り込むことで解消したいという意図は確かにあり、強引さも感じられる。ソ連との国境に送った農業青年開拓団は防衛のための民兵という意味合いがあった。溥儀に任せる訳にもいかず、政治の主導権は関東軍が半分以上は握っていた。

      要職の多くは日本内地人が登用されていた(内面指導)反面、台湾人や満州人からの採用もあった。例えば台湾人の謝介石は外交部総長に就任し、のちに満州国籍を取得した。裁判官や検察官などは日本内地人以外の民族から任用された。制度上、立法院はあったが、選挙は一度も行われなかった。

      満州がただの領有論ではなく、独立論の上に運営されたのは、石原莞爾らによって現地満州人の政治能力が評価されていたことにもよる。

      建国時、東北行政委員会が満州国建国を宣言し、満州国協和党(後日協和会に変更)が結成された。日本人や現地人が構成員となっており、これがただひとつの政党となる。建国の理想を護持し政府を監視すること、近い将来、関東軍がこれに主権を譲り治安維持に専念することが期待されたが、支那事変を期に、次第に関東軍や政治行政と一体化する。

       

      明治維新以来の近代化への情熱と技術を受けて、日本はもとよりアジア一速い特急列車「あじあ号」を走らせ、水洗便所など上下水道の普及、大きなダム建設,大豆の一大生産地樹立、モンゴル系遊牧民族の生活圏である草原の保護など、豊かな国家、夢がつまった国家建設が進められていた。

       

      超特急「あじあ号」
      超特急「あじあ号」
       

      周辺国からの移住者は後を断たず、毎年100〜150万人ずつ、人口は増えていった。

      開拓団の総勢は22万人ほど。内地からの日本人の人口比率は2%前後で推移していた。

       

      満州統治にあたり、日本は産業開発5カ年計画を策定し、48億円を投じた。

      基本として掲げられた理想は次の3つであった。

       

      建国の精神は、東洋古来の王道主義による民族協和の理想郷を作り上げることであり、軍閥や官吏の腐敗を防ぎ、多くの人が餘慶(よけい)を受けられるようにする。

      満州国を承認した国々に対し、門戸開放、機会均等の精神で広く資本を求め、諸国の技術経験を有効に利用する。

      自給自足を目指す。

       

      もし、支那事変が起こらず、何代も平和が続いたら、日本の文化のいいところが浸透し、「五族共和」が成っていたのかなと思いもするし、そう願う近頃です。大陸国家と海洋国家は成り立ちが違うから、それは後世から見たら困難な道を選んだものです。

       

      参考Web:Wikipedia(フリー百科事典)・・・・・・・・・

      ブログ「かつて日本は美しかった」から「満州史」

      国際派日本人養成講座・・・・ ・・・・・・・・
       


      切所の心得

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        あまり表には出てこないお話ですが。
        副総理兼財務大臣、金融担当大臣の麻生さんがこういうことを話されていました。さすがの麻生さん。

        16・04・21(木)

        為公会の例会挨拶の要旨から

        ● 熊本を中心に大分など九州地方では地震が続いており、避難先での生活の長期化も懸念されている。いろんな形での支援も行われているが、政府としては引き続ききちんと対応していかねばならない。政治家が現場に足を運んで行うことは、そこで調整のつかない事柄について責任を取り実行することだ。分かったような顔をして余計なことは言わないこと。ぜひその点だけはよろしくお願い申し上げる。

        ● 一昨日(火)、「為公会と語る夕べ」を開催させていただいた。松本(純)実行委員長を始め大勢の方々にお力添えをいただいた。震災対応の為、河野(太郎)大臣等は欠席となったが、無事終えることができた。(懇談が始まる前に)「熊本がんばろう!」と皆で(唱和)できたことは良かったと思う。また、会場で義援金を募らせていただいたが、お陰様で約55万8000円が集まった。熊本に所縁のある方を含めいろんな方の話も伺うことができ、これも本当に良かったと思う。

        『現場で調整のつかない事柄について政治家が責任を取り実行すること』とは。
        例会に出席していた大隈和英氏がfacebookに詳細を載せていました。

        衆議院議員
        為公会所属
        おおくま 和英さんのfacebookから

        【切所の心得】この木曜日の為公会定例会で、麻生太郎会長が全員に訓示された。「とにかく政治家は現場へ行って自分の目で確かめて来い。福岡では九州財務局が堅牢な建物を被災者に開放した。支援物資の集積場に、移転したばかりの青果市場跡地を転用した。大量に出る被災地のがれきやゴミは、ゴミ収集車を派遣して全部福岡で面倒見ることとした。こんなことは報道されない。そして、必ず現場では「ここは県の管轄、〇〇省の管轄だ」と物事が停滞する。その時に、現場に行った政治家が「全部自分が責任とる。その通り進めてもらって構わない」と現場を前に進める務めを果たせ。わかったような余計なことは一切言うな。それが俺たち政治家の務めだ。」と概ねこのようなことを我々に訓示された。

        思わず電気が走り、武者震いをした。危機に際して国会議員の務め、有権者から付託された大きな役割、その真骨頂を叩き込まれる思いです。今、被災地の皆さんは必死に頑張っておられる。我々も頑張らねば。

        福岡や広島などで生活ごみ収集を引き受けているというニュースとこのことはきっと関わっているのでしょう。21日の時点で、福岡市に続き、北九州や大分市が処理の一部受け入れを表明し、福岡市、北九州市、広島市、神戸市、京都市の合わせて5つの自治体が清掃職員と収集車を派遣することを決定したそうです。なんて素早い対応。トップが責任を一手に引き受けることはもちろんですが、それぞれの判断と連携なくしては出来ません。
        一人一人出来る範囲で踏ん張りましょう。エイエイオー。


         現場を前に進める務めを果たせ。

















         


        東中佐の突撃ー第一次ノモンハン事件ー(転載)

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           第一次ノモンハン事件で捜索隊(偵察任務のほか攻撃任務も行う)の東中佐ら19名は敵に包囲され、突撃攻撃を試みる。部隊の飯島少尉は戦車に飛び乗り、乗員を刺殺、次の瞬間に胸に弾が貫通し、もはやこれまでと敵戦車上で割腹した。東中佐は日本刀を持って突撃し、榴弾に倒れた(池田軍医中尉の目撃談)。こういった行為は戦後論調ではバカな突撃、精神主義といわれそうだが、これでソ連軍はビビッて200メートルも退却してしまった。これがなければ目撃した池田軍医ほか負傷兵の命運も尽きていたのかもしれない。
           日本軍の白兵戦はソ・モ軍にとっては恐怖であったのと、日本兵の銃剣術によってバタバタやられたので、銃剣術の有効性を認識したようだ。ソ連はノモンハン戦後に銃剣術を取り入れ、対ドイツ戦で使い効果をあげている。
           東中佐のことは外蒙古軍(モンゴル軍)の間でも知られていて「太陽の先生(ナラン・バクシ)」と言われていた。日本兵捕虜から聞いたのだと思う。当時、モンゴルは日本のことをナラン・オルシス(太陽の国)と呼んでいた。モンゴル人が日本をどう思っていたかを垣間見ることができる。
           1990年、ノモンハンの戦場の慰霊に東中佐の三女の方がおり、同行していた言語学者の田中克彦氏がモンゴル国軍の国境哨所長に「あの人がアズマ中佐の娘さんです」と言ったところ、所長は東中佐の娘さんを誘って馬に乗せ、草原を散歩していった。

          ブログ「かつて日本は美しかった」の [満州史]より
          (いくらか文体を変えています)

               

               

          .。*゚+.*.。ノモンハン事件(ソ連ではハルハ川事件、モンゴルではハルハ川戦争) ゚+..。*゚+

          満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争。数で大きく上回るソ連とモンゴルの連合軍に対し、関東軍(日本陸軍)と満州国軍は互角に戦う。空中戦は日本に軍配が上がる。8月の惨敗。9月に入ってからの攻勢と大規模な反撃の準備。9月15日に停戦が成立した後すぐ、17日にソ連軍がポーランドに侵攻したことを知る。東の憂いがなくなったソ連は西へ力を傾注することができたのだ。「負けたと思ったほうが負け」、諜報戦に敗北した。停戦交渉に関わった陸軍駐在武官・土井昭夫大佐は「こんなことならもう2、3日粘っていれば・・・まんまと騙された感が強い」と話したという。

          結局ソ連に押し込まれた形で敗戦、国境線画定となり領土防衛という戦いの目的を達成することはできなかった。第一次ノモンハン事件は、1939年5月11日から31日まで。

               

               


          国の成り立ち(4)補足2ー奄美復帰ー

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            前回に続いて、「沖縄に託された潜在主権」の補足資料となります。
            私にとって身近な奄美を中心に、南西諸島が米軍政下に置かれてから本土復帰までの流れを辿ってみました。

            本土と行き来するにはパスポートが必要だったそんな時代。施政権を日本が取り戻すまでに必要だったものは、何よりも、日本へ帰りたいという住民の強い意志でした。

            奄美では、奄美共産党や社民党が日本復帰運動の骨組みを作った一面も垣間見えます。革命への引力よりも郷土や国を愛する心が勝り、他の住民と連帯して復帰運動を起こしました。

            大切なのは、元の国へ戻りたいという声を繰り返し挙げる、その姿勢を変えない、そこにあると思います。自分達の行動の目的は何かをよく見極めなければいけません。

            国際社会に翻弄されるこれらの島々は、行方を決めるもうひとつの力、住民の声も内包していました。
             


            植物学者ウィルソンのかごしまの記録

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              写真展「百年の記憶ウィルソンの見たかごしまの自然」を宝山ホールまで見に行きました。
              縄文杉と並んでよく知られる屋久島のウィルソン株。その名付け親でもあるイギリスの植物学者、アーネスト・ヘンリー・ウィルソンの足跡を彼の撮った写真から辿ります。
              告知に書かれている通り、様々な植物の背景にある100年前の風景も合わせて興味深く拝見しました。写真に添えられた説明文からも本当に植物を愛した人だと分かり、見に行って良かったです。
              書き留めたメモや覚え書きの中からいくつかご紹介したいと思います。

               

              • 1914年と1917年から18年にかけて来日

                 針葉樹と桜の調査のため、訪れた。

                 

              • 1914年2月来鹿

                 蒲生や屋久島を中心に。
                 1月に大噴火したばかりの桜島の貴重な写真も数点あり。

               

              • 日本の植物学者や住民との親交

                 高名な植物学者である牧野宮太郎氏や、旧制加治木中教諭であり、のちに京都大学講師となった植物学者田代善太郎氏と親交を深める。
                 また、同行した田代さんや屋久島の青年達にウィルソンは屋久島の将来を託す、
                 「色んな国を旅してきたが、この森ほど素晴らしい森はなかった。この森を守ってほしい」。
                 その後の田代さんの活動は、屋久島の国立公園としての登録や現在に至る世界自然遺産登録に大きな影響を与えた。
               

              • 3月3日

                 カンヒザクラ(寒緋桜)
                 「この愛らしさを表現する言葉は思い付かない」
                 「下向きに咲く様子はまるで釣り鐘のようだ」
                 

                


                


              (写真提供)無料写真素材サイト 写真AC


                 中国、台湾、石垣島に自生。
                 石垣島では、冬を告げる花。早咲きの桜の園芸種の親となる。

               

              • 1918年5月

                 ミヤマキリシマの群生地に感嘆する。
               

              • クルメツツジの美しさ

                 「My princess」



              ちなみに、私が訪れた日は写真展の最終日だったのですが、展示自体は来週の日曜日(6日)まで続けられて引き続きいつでも観覧することができるそうです。


                (展示場所)宝山ホール4階 化石展示室

                (開館時間)9:00〜17:00
               



               


              論理的思考が導くもの

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                一息入れて。

                右脳がひらめきなど直感的な思考に携わる一方、左脳は論理的な思考に携わると言われています。
                日頃から「論理的思考」を意識すれば、左脳と右脳が均等に働き精神が安定する助けになるのかもしれませんし、これから起きる出来事にも気持ちを強く持って対処できるかもしれません。
                感情と理性のバランスが取れることを目指します。

                論理的思考。
                例えば、演繹的推理。
                ホームズ好きのわりには、「演繹」と「帰納」の区別がいつも曖昧なわたくし。
                演繹とは・・なになに・・・「いくつかの前提に立った結論が論理的に正しいことを導くこと」。
                よし、忘れない内にその論理的思考を鍛えてみましょう。



                左脳トレーニングの中から

                 

                【答えは解答欄のところにあります】


                【問題1】有名な問題ですね

                あるクレタ人が、
                「全てのクレタ人はうそつきである」と言った。
                これはどこかおかしいか否か?どちらも内包するか?

                合わせて、その結論が正しいことを順序立てて説明してください。


                 

                【解答1】
                 
                おかしい。且つおかしくない。

                全てのクレタ人がうそつきなら、このクレタ人もうそつき。
                「全てのクレタ人はうそつき」という嘘をついた。

                嘘ではない「本当」のことはふた通り考えられる。
                実は「全てのクレタ人は正直者」なら、矛盾を含んでいる。
                おかしな話だ。

                あるいは「クレタ人には嘘をつかない人もいる」ということを隠していたのかもしれない。
                中にはうそつきもいるのなら、このクレタ人がうそつきだとしても矛盾はしていない。
                うそつきが嘘をついただけ。
                よって、おかしくはないとも言える。

                もし、「私はうそつきです」とこのクレタ人が話したのなら、矛盾していることになる。






                【問題2】こちらも有名な問題とのこと

                あるところに、うそつき村と正直村があります。
                あなたは、どちらかの村にたどり着きました。
                どちらの村なのかは分かりません。
                村人になんと質問すれば、あなたはその村がどちらの村なのかが分かるでしょうか?

                ーその他の前提ー
                ※質問した相手はその村の住民とします。通りすがりの人ではありません。
                ※彼らはYesかNoでしか回答しません。
                 例えば「ここは正直村か?」と問えば、どちらの村の住民も「Yes」と答えます。
                 「ここはうそつき村?」と尋ねると、両者とも「No」となります。


                 
                【解答2】
                矛盾のない答えはいくつかあります

                 
                1:「ここは正直村でもあるし、うそつき村でもあるのですか?」
                  正直村だったら「No」うそつき村なら「Yes」となる。
                2:天気のいい日に「いいお天気ですね」(分かり切った事実)
                  正直村だったら「Yes」うそつき村なら「No」となる。

                その他、色々な質問が出来ると思うので、ぜひ探してみてください。







                【問題3】

                前提を変えてみましょう。
                実際の生活では、正直者ばかりが集まる村も、うそつきばかりが集まる村もありません。
                また、人間という生き物は、正直でもあるし、嘘を付くこともあるのです。
                気まぐれというのとは少し違う。複雑な生き物といいましょうか。
                その「人間」に、【解答2】で挙げた問いかけと同じ内容で順番に投げかけたら「正直者」や「うそつき」の受け答えと違いは出てくるのでしょうか?


                1:「あなたは正直者であるし、うそつきでもあるのですか?」
                2:天気のいい日に「いいお天気ですね」


                nonomiti


                 
                【解答3】
                 
                違いはある。どちらの答えにもあてはまらない。

                1の場合:「Yes」
                2の場合:正直に答えたい気分の時は「Yes」、ちょっとひねくれた気分の時やそれどころじゃない時は「No」









                前提によって、導かれる答えは変わってきました。これでは、【解答2】で導き出された答えは実生活には、活かされません。
                この世は、残念ながら正直者ばかりの村は存在しないし、嘘つきばかりの村もありません。複雑故に魅力的なこの世界。

                例えば自分の予想どおりに事が運ばないことがあっても、すぐ感情的になって悲観して決めつけないで、慌てず色々な視点を持つようにすれば、そうすればもっと前向きで充実した毎日を送れるのかもしれません。人を見る目が確かになることも期待できます。

                ちなみに私が好きな言葉は「さて」ですね。困りきった時に、さて、と呟くと、ちょっと視野が広がります。
                「さて、ワトソン君。この煙草の吸い殻は、僕がまとめた論文によれば、何てことなくどの銘柄かは分かるのだよ」




                ここからは、人生の落とし穴にはまった人へ。

                辛い出来事を抱えた人は、その体験を思い出そうとすると右脳のみが働く状態になることが多い、との知見が得られました。
                感情を担う右脳や情動をコントロールする小脳が興奮し、記憶を言葉にする左脳の活動は低下してしまう。思い出そうとしても思い出せない。距離の取り方が分からず思い出す時は突然で、いわゆるフラッシュバックとなり苦しめられる。その延長で、心や体に異状をきたすことがある。

                そのまま過ごしてきて生きづらさを抱えてしまうとしたらどうでしょう。
                左脳を意識的に活性化することは、解決を探る糸口になります。

                今まで述べてきた方法は物の見方(認知)を変えるので、自分で自分の視野を狭くすることを防ぐ働きがあります。
                それとは別に、自分では防ぎ切れない出来事に巻き込まれることもあるでしょう。辛かったことを細かく語らなくても良いことから、震災後から特に注目されてきたEMDRという心理療法は、目や体を左右均等に動かして、両方の脳を直接刺激する方法です。短期間で、辛い出来事と冷静にいつでも向き合えるようになることを目指します。簡単なようで、閉じ込めた記憶を思い出す中で安心できる場所をひとつ用意しておく、など抑えるポイントが幾つかあり、訓練を受けた精神保健の専門家が中心になって実施すべき方法です。



                 


                国の成り立ち(4)補足1ー天皇メッセージー

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                  記事「沖縄に託された潜在主権」の補足資料です。
                   

                  沖縄は沖縄戦以後そのまま米軍政下に置かれたものの、終戦後27年という短期間で、平和裡に本土復帰を果たしました。

                  伏線となった昭和天皇の意向が米国の公文書として残されています。「利己心」という記述が度々物議を醸していますが、これは天皇の真意を測り兼ねて、「疑いなく利己心あり」と決めつけてしまったのでしょう。実際は両国の状況を考慮した深い洞察力からくるもので、のちの講和条約米国全権大使ダレスを「以前の国際法には見られない表現だ」と感嘆させました。訳する時も痛感しましたが、我田引水にならないようにするのは、中々に難しいものです。そして、分かり切っていることを説明することも難しい。


                   

                  1947年9月19日。

                  宮内府御用掛の寺崎英成が、日本橋三井ビルの3階までシーボルドGHQ政治顧問兼外交局長を訪ねてきた。その目的は、琉球諸島の将来に関する昭和天皇の意向を伝えることにあった。

                  「天皇メッセージ」と呼ばれるその文書は、使者の訪問を受けたウィリアム・J・シーボルドの国務省への報告書と、付随のマッカーサー宛の会談メモからなる。30日には国務省極東局へと届けられた。

                  【米国国立公文書館保管報告書】
                   クリックで原寸大コピーが表示されます(PDF文書)【資料コード:0000017550】


                      


                   

                  【9月22日にまとめられた国務省への報告】(とその和訳)

                   UNITED STATES POLITICAL ADVISER

                  FOR JAPAN

                  Tokyo, September 22,1947.

                  Subject Emperor of Japan’s Opinion Concerning the Future of the Ryukyu Islands.

                  The Honorable

                          The Secretary of State,

                                   Washington.

                  Sir

                   I have the honor to enclose copy of a self-explanatory memorandum for General MacArthur, September 20, 1947, containing the gist of a conversation with Mr. Hidenari Terasaki, an adviser to the Emperor, who called at this Office at his own request.

                   It will be noted that the Emperor of Japan hopes that the United States will continue the military occupation of Okinawa and other islands of the Ryukyus, a hope which undoubtedly is largely based upon self-interest. The Emperor also envisages a continuation of United States military occupation of these islands through the medium of a long-term lease. In his opinion,the Japanese people would thereby be convinced that the United States has no ulterior motives and would welcome United States occupation for military purposes.

                  Respectfully yours,    

                           W. J. Sebald

                           Counselor of Mission

                  1947年9月22日 東京 

                  主題:琉球諸島の未来にかかわる日本の天皇の見解

                   米国政府国務長官閣下

                   拝啓

                   私は、1947年9月20日にマッカーサー元帥に宛ててしたためた、御覧の通りの覚書のコピーを同封することを光栄とするものです、要請の上、当事務所まで訪ねてきた天皇の御用掛の寺崎英成氏との会話の要旨が含まれております。

                   沖縄及びその他の琉球諸島への軍事占領をアメリカが継続するよう日本の天皇が希望していることが記されており、疑いなく利己心に大きく基づく希望です。天皇はまた米軍が行うそれらの島々の軍事占領は長期の租借という手段を通して継続していくことを思い描いています。天皇の見解では、それによって日本国民は米国には隠れた動機が何もないと納得し、米国の軍事目的による占領を歓迎するだろうとのことです。

                  敬具

                  任務参事官  W. J. シーボルド

                  【同封の9月20日にマッカーサー元帥宛に記した会談覚書のコピー】(とその和訳)

                   GENERAL HEADQUARTERS

                  SUPREME COMMANDER FOR THE ALLIED POWERS

                  Diplomatic  Section

                  20 September 1947

                  MEMORANDUM FOR : General MacArthur

                   Mr. Hidenari Terasaki, an adviser to the Emperor, called by appointment for the purpose of conveying to me the Emperor's ideas concerning the future of Okinawa.

                   Mr. Terasaki stated that  the Emperor hopes that the United States will continue the military occupation of Okinawa and other islands of the Ryukyus. In the Emperor's opinion, such occupation would benefit the United States and also provide protection for Japan.  The Emperor feels that such a move would meet with widespread approval among the Japanese people who fear not only the menace of Russia, but after the Occupation has ended, the growth of rightist and leftist groups which might give rise to an "incident" which Russia could use as a basis for interfering internally in Japan.

                   The Emperor further feels that United States military occupation of Okinawa(and such other islands as may be required) should be based upon the fiction of a long-term lease -- 25 to 50 years or more -- with sovereignty retained in Japan.  According to the Emperor, this method of occupation would convince the Japanese people that the United States has no permanent designs on the Ryukyu Islands, and other nations, particularly Soviet Russia and China,would thereby be estopped from demanding similar rights.

                   As to procedure, Mr. Terasaki felt that the acquisition of "military base rights" (of Okinawa and other islands in the Ryukyus) should be by bilateral treaty between the United States and Japan rather than form part of the Allied peace treaty with Japan.  The latter method, according to Mr. Terasaki, would savor too much of a dictated peace and might in the future endanger the sympathetic understanding of the Japanese people.

                  W. J. Sebald

                  1947年9月20日

                  マッカーサー元帥宛ての覚書

                   天皇の御用掛の寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する天皇の意向を伝える為に、約束のうえ訪ねてきました。

                   寺崎氏は、沖縄とその他の琉球諸島を米国が軍事占領し続けることを天皇は希望していると述べました。天皇の見解では、そのような占領はアメリカへ利益をもたらし、また日本を保護するだろうとのことでした。ロシアの脅威だけでなく、占領が終了した時右翼や左翼の団体の伸張がいかにも「偶発的な事件」を起こして、ロシアがそれを日本への内政干渉の根拠に用いることをも恐れている日本国民から、この動きは広く支持されると天皇は感じています。

                   

                   天皇は、米国の沖縄(及び必要とされる可能性のある他の諸島)に対する軍事占領は、日本に主権を残して25年から50年又はそれ以上の長期租借という擬制に基づくべきだと大いに感じています。天皇によれば、この占領方式は琉球諸島に対する恒久的な企てをアメリカは持っていないと日本国民に納得させ、それによってソビエトロシアや中国をはじめとする他の諸国が類似の権利を要求することを封じるだろうとのことです。

                   手順に関して寺崎氏は、沖縄とその他の琉球諸島の「軍事基地権」は日米相互条約によって獲得するべきだ、連合国と日本との平和条約に組み込まれてよりもと感じていました。寺崎氏によれば、後者の方法は押し付けられた講和という感が強いだろうし、将来、日本国民の好意的な理解を危うくする恐れがあるとのことでした。

                  W.J.シーボルド

                   

                   


                  台湾と日本の物語

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                    懐かしいと言えばうなずいてくれる人もきっといるはず。

                    2009年に終了したバラエティ番組に、印象深い話があります。

                    私は一時期、この話にとてもとても支えられました。もちろん、今もです。

                    以下はその書き起こしと、関連資料とになります。


                     

                    (バン1台に乗って、世界を旅する恋愛バラエティ番組「あいのり」の一場面。

                     基本は男性4名、女性3名の若者7人連れ。

                     今回は台湾へやって来ました。周りを見渡しているとー。)

                     

                    ”こんにちはー”

                    ”こんにちは”(個々答えて)

                    ”日本の方ですか?”

                    1人のおばあさんが日本語で話しかけてきた。

                    (偶然会ったおばあさん。小柄で物腰の柔らかい。)

                    実はこれまでも…

                    たくさんの日本語をしゃべる台湾の方と出会ってきた。

                    ”日本の方なんですか?”

                    ”いいえ、台湾人です”

                    ”台湾の方で”

                    ”はいはい。

                    私は李という者で、日本の名前は樺島です。

                    日本人大好きです。

                    今でも心の中では、日本人だと思っています”

                    自分のことを日本人だと思っているというおばあさん。

                    これは一体どういうことなのか。



                     

                    (画面転換)

                    あいのり講座。

                    日本人大好き台湾の謎。

                    19世紀末、日本は日清戦争に勝利。

                    清の領土であった台湾の統治権を得た。

                    これ以降およそ50年間、台湾は日本の植民地となったのだ。

                    日本が採ったのは、同化政策。

                    つまり、台湾を完全に日本化しようとする政策である。

                    台湾人の名字も日本名に。

                    教育も日本語で行い、台湾人を日本人にしようとした。

                    さらに、生活のレベルを日本と同じにするため、様々なインフラを整備した。

                    台湾の南北を結ぶ縦断鉄道を建設。

                    広い道路を造り、上下水道を町中に整え、

                    大きな病院も作った。

                    それらは当時の日本よりも優れた設備だった。

                    当時、貧しさと戦っていた台湾の人たちの生活はどんどん改善されていった。

                    日本の採った同化政策が結果的に台湾を豊かにしたのだ。


                     

                    「台湾写真帖」(大正5年4月5日 台湾日々新報社)より「阿里山運材列車」


                    「台湾鉄道旅行案内」(昭和10年10月30日 ジヤパン・ツーリスト・ビユロー台湾支部)より「阿里山駅に着いた列車」

                    「高雄州要覧」(昭和8年7月5日 高雄州)より「高雄市」


                    「台北」(昭和15年4月30日 台北市勧業課観光係)より「太平町通」


                    「台湾写真帖」(大正5年4月5日 台湾日々新報社)より「土木局」


                    「台北」(昭和15年4月30日 台北市勧業課観光係)より「帝大病院」

                    「台湾全島写真帖」(大正2年2月15日 平賀商店)より「台湾総督官邸」(現台北賓館)





                    烏山頭水庫(烏山頭ダム)

                     

                    (おばあさんの周りにみんなで輪になって椅子に座り話に耳を傾ける。)

                    ”日本のほうはね、台湾に来ていろいろ建設しましたよ。

                    みんな日本のおかげですよ。

                    日本の時は、日本の正月、迎えます。

                    玄関の前にね、門松を立てて”

                    ”あぁ、今も”

                    ”今も、ある?

                    そしてあの国幟(こくし)も掲げます”

                    (口々に)”へー”

                    そんな平和な台湾に、

                    激動の波が押し寄せる。

                    1945年、第2次世界大戦に敗れた日本は、再び台湾を今の中国へと返還(注1)

                    しかし、当時の中国は2つに割れていた。

                    毛沢東率いる共産党と、蒋介石率いる国民党。

                    毛沢東の勢力に負けた蒋介石は、大陸中国を追われ、台湾を統治。

                    独立国を宣言して国連に加盟した。

                    遅れること26年、1971年に。

                    国連が大陸中国の加盟を承認し、アメリカや日本も賛成(注2)。

                    これに納得のいかない台湾は、国連から脱退。

                    この時以来台湾は国際的には中国の一地方として位置づけられてしまった。

                    しかし、その後台湾は、目覚ましい経済発展を遂げた。

                    その礎を築いたのは日本だと考えているため、台湾には親日的な人が多いのである。

                    (引き続き、皆でおばあさんの話に聞き入る。

                     戸惑ったりうなずいたりしながら。

                     丁寧な日本語で言葉を継いでいくおばあさん。)

                    ”日本人に対する恨みは何もない?”

                    ”ないです。

                    みんな日本慕っていますよ。

                    あの恨んでいないですよ”

                    ”自分は日本人?それとも台湾人?中国人?どの国?”

                    ”みんな今はね、中国人とは思わない、台湾人。

                    だけど、心の中ではまだ日本人みたいですよ…みたいに思っています。

                    みんな日本時代はもうとても、教育も受けて、よく教えてくれた。日本精神をね。

                    みなさん、日本精神わかる?

                    日本精神というのは義理堅い、真面目、勤勉であって。

                    台湾人は日本人よりも、日本精神を守っているそうです(笑)

                    日本を大事にしてください。私達の好きな日本をね。

                    そして日本と台湾の架け橋の新しい方になってください。

                    私はとても期待しています。

                    やっぱり日本人が好きだから…”

                    日本人以上に日本を大切にしている台湾の人たち。

                    日本が承認している世界の国は、

                    191カ国。

                    その中に台湾は入っていない…

                    (写真の転載元サイト)

                        烏山頭水庫:土木学会委員会サイト

                         他   :植鉄の旅
                     

                    GoGoザウルス(台湾旅行案内etc.サイト)にある参考記事です:今も台湾に残る日本統治時代の建物と心

                     


                    (注1)「返還」では決してない。台湾をめぐる情勢は複雑で、短いVTRにまとめることは難しい。日本降伏時の状況としては、国民党率いる中華民国が連合国の一員として占領統治を担う形を取っている。後年、「日華平和条約」により戦争状態は終結し、日本は台湾を放棄することが正式に確認された。どの国に譲渡するかは今に至るまで、明言されていない。
                    (注2)正確には、中国代表権を台湾(国民党)から大陸中国(中国共産党)へ移行するという形による国連常任理事国入りと、蒋介石の代表の国連からの追放である(アルバニア決議)。アメリカや日本は国連加盟は賛成するが、台湾の議席追放は反対という立場だった。


                     


                    国の成り立ち(4)〜沖縄に託された潜在主権〜

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                      潜在主権という概念

                      沖縄・奄美・小笠原は先に潜在主権のみ日本の元に回復されていた。

                       

                      講和条約の調印の場では、日本の主権回復と同時に、既に放棄した領土も含めて日本領の処遇が正式に再定義された。その内の米軍軍政下にあった島々はアメリカが施政を司ることが確認された。

                      その範囲は北緯29度以南の南西諸島(沖縄 (琉球諸島) と奄美群島(奄美本島を含めた南側))及び小笠原諸島となる。

                       

                      日本に施政権はない。固より主権も日本は持つ事はできない。

                      それが国際的な常識であるところ、昭和天皇は「潜在主権」という今までない概念をいち早くアメリカに提唱していた。

                      そのことが後の本土復帰へと結び付いたと言われる。

                       

                      ソ連や中国共産党などの脅威に囲まれる中、この時、沖縄の主権を強引に取り戻したとしても、独自の軍を持たない日本は守り切れなかっただろう。

                      アメリカがまず、沖縄を手放そうとしなかったのだから、施政権だけ日本へ移そうとしても敵わなかった。

                       

                      昭和天皇が提唱された潜在主権について詳しく見てみたい。

                      もう一度、時間軸に沿って時をさかのぼろう。

                       

                       

                       

                      終戦まもない1947年、9月。前年末からシベリア等抑留地からの引き揚げが始まっていた。

                      すでに連合軍が占領軍として日本へやって来た時から、沖縄・奄美・小笠原は米軍政下に置かれていた。

                       

                      世界情勢は依然、予断を許さなかった。

                      日米共通の目的は、ソ連や国共内戦を制しつつある中国共産党が日本へ進駐する機会を与えないこと。米軍が撤退すれば過激な右翼左翼どちらかが事件を起こし、それを土台に内政干渉してくることを懸念していた。

                       

                      昭和天皇は、講和条約は日米の二国間条約で締結することを望まれていた。

                      アメリカの沖縄占領は、日本に主権を残し長期租借という形で行うということ。今そこにある危機。戦後復興における日本の安全保障の危機から守るためであった。

                       

                      米軍部の目指すものは軍事拠点を置く「戦略的な信託統治」。国連の安全保障理事会への毎年の報告と審議を受けることがどうしても必要となる。そうなればソ連が拒否権を発動することが予測される。

                      軍部内には、決して沖縄を他国の軍事基地として使わせてはならないという決意があった。

                       

                      9月19日。

                      宮内府御用掛の寺崎英成は、昭和天皇の考えを携えて、GHQ政治顧問兼外交局長のウィリアム・シーボルドを日本橋三井ビルまで訪ねてきた。シーボルドにその意向を直接伝えるためだ。

                       

                      「沖縄の将来は、日本に主権を保持したままアメリカが25年から50年、あるいはそれ以上の長期租借という擬制によって、軍事占領が行われる必要がある。このことによって、日本国民は米国に沖縄諸島での恒久的な企てが無いことを納得し、他国、特にソビエトや中国による同様の権利の要求を封ずることができるであろう。このような占領は米国の利益となるとともに日本に防衛力を提供することになる」

                      また、この会談の中で、寺崎氏は「軍事基地権」の取得手続きは、日本と連合国との平和条約の一部に含めるのではなく、むしろ米国と日本の二国間租借条約によるべきだと感じたという。前者の方式では、押しつけられた講和という色合いが強すぎて、近い将来日本国民の好意的理解を危うくする恐れがあった。

                       

                      国と国民の安寧を守ることに日夜心を砕いてこられた昭和天皇。

                       

                      この昭和天皇が提唱された方式を「潜在主権方式」という。日本に主権が潜在的にあることが前提の契約。

                      条約締結と同時に主権は日本の元に戻ることで、実質日本から連合国が租借する形となり、その上でアメリカが代表して沖縄を司ることを目標に据える。

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                      サンフランシスコ講和条約(平和条約) 

                      締結日:1951年9月8日

                       

                      第三条

                       日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)孀婦岩(そうふがん)の南の南方諸島(小笠原諸島、西之島及び火山列島を含む)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。

                       

                       

                       

                      「潜在主権は日本にあり」という文言は、講和会議の米国及び英国全権大使が9月5日に述べた演説の中に出てくる。この文言は各国間の遣り取りの中で何度も丁寧に確認されているのが見て取れる。

                       

                      【サンフランシスコ講和条約 ダレス米国全権演説】1951年9月5日

                      (3条関連部分を抜粋)

                      第三条は、琉球諸島及び日本の南及び南東の諸島を取り扱っています。これらの諸島は、降伏以降合衆国の単独行政権の下にあります。若干の連合国は、合衆国主権のためにこれらの諸島に対する主権を日本が放棄することを本条約の規定とすることを力説しました。他の諸国は、これらの諸島は日本に完全に復帰せしめられるべきであると提議しました。連合国のこの意見の相違にも拘わらず、合衆国は、最善の方法は、合衆国を施政権者とする連合国信託統治制度の下にこれらの諸島を置くことを可能にし、日本に残存主権( residual sovereignty )を許すことであると感じました。

                       

                      【サンフランシスコ講和条約 ケネス・ヤンガー英国全権演説】1951年9月5日

                      (3条関連部分を抜粋)

                      琉球及び小笠原諸島に関しては、この条約は、これらの島嶼を日本の主権の外においては居りません。この条約は、北緯二十九度以南の琉球諸島を引き続き米国政府の管轄下に置くこと、即ちこれらの琉球諸島の中、日本に最も近い部分は、日本の下に残して置くばかりではなく、日本の行政権の下に置いているのであります。

                       

                      【サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説】1951年9月7日

                       奄美諸島、琉球諸島、小笠原諸島その他平和条約第3条によって国際連合の信託統治制度の下に置かるることあるべき北緯29度以南の諸島の主権が日本に残されるというアメリカ合衆国全権及び英国全権の前言を、私は国民の名において多大の喜をもって諒承するのであります。私は世界、とくにアジアの平和と安定がすみやかに確立され、これらの諸島が一日も早く日本の行政の下に戻ることを期待するものであります。

                       

                       

                      結果として、今に至るまで国連機構における手続きは行われず、沖縄が国連の信託統治領に置かれることはなかった。

                      長く要衝の地として、米軍の管理下に置かれた沖縄。歴代の首相はこの「潜在主権」を切り口に、アメリカへの沖縄返還要求を継続していった。

                       

                      そして平和裡に、沖縄は日本の元へと帰ってきた。冷戦はまだ続く中、わずか20年で祖国復帰を実現させたことになる。

                       

                       

                      国とは何かという探究と合わせて、昭和天皇は実に優れた感覚を持つ統治者であらせられた。そのことを申し上げたくて、ここまで書かせていただきました。次回からは、その戦勝国側から取り戻すきっかけとなった意向の詳細など、資料の補足をしていけたらと思います。

                       

                       

                       

                       

                       

                      *1946年1月26日、連合軍総司令部との覚書により、日本の小笠原諸島への施政権は停止された

                      *1946年2月に北緯30度以南の南西諸島は行政分離されて米軍の統治下に入った(トカラ列島は、講和条約締結に伴って一足早く日本へ復帰した(1952年2月10日))

                       

                       

                      *本土復帰の日*

                      施政権の日本への返還

                       

                      奄美1953年12月25日

                      小笠原1968年 6月26日

                      沖縄1972年 5月15日 

                       

                       

                       

                      参考Web:Wikipedia(フリー百科事典)・・・・・・・・・・・・・

                      blog「農と島のありんくりん」・・・・・・・・・・・・

                      blog「沖縄対策本部」内記事・・・・・・・・・・・・・

                      『沖縄祖国復帰を実現に導いた昭和天皇の「潜在主権方式」のご提案』

                      blog「日本史ー今日子センセのワンポイント授業」内記事

                      『沖縄とサンフランシスコ平和条約』


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