2016年1月の記事「国の成り立ち(3)〜日本の主権回復〜」内のリンク先が切れていましたので、残していた中から。
馬英九総統が台北賓館で「日華平和条約」締結の意義を語る
発信日時:2009/5/8
台北駐日経済文化代表処 台湾週報より
馬英九総統は4月28日、台北賓館で「100年の回顧―台北賓館物語」イベントの開幕式に出席し、「日華平和条約」(中日和約)が中華民国の歴史発展において重要な役割を果たしたことを振り返った。同式典において、「日華平和条約」に調印した際の中華民国側全権代表の葉公超氏、副代表の胡慶育氏、列席委員の汪孝熙氏および、日本側全権代表の河田烈氏、首席委員の木村四郎七氏の5名の銅像が公開され、当時の調印の様子が再現された。
以下は、同式典において馬総統が語った内容の要旨である。
○ ○ ○
57年前の今日、「日華平和条約」がここで調印された。この日は、「サンフランシスコ平和条約」の発効した日でもある。「サンフランシスコ平和条約」は、「日華平和条約」より7カ月早い1951年に調印され、「日華平和条約」は1952年4月28日に調印された。
この美しい台北賓館の建物は、1899年に建築工事が始められ、1901年に落成し、1913年に全体の改修工事が完了した。ローマ風の柱と、ギリシャ風の壁、バロック式の華麗な風格がミックスされ、著名な建築家である松山森之助氏によって設計された当時から非常に著名な建築である。私は小学校のとき、よくこの建物の前を通ったが、大人になってから、日本が台湾を統治した50年間で、19名の総督のうち16名がここに住み、即位前の昭和天皇もここで歓待を受けたことを知った。
いかなる古蹟も、ハード面での建築本体の美しさだけでなく、さらに重要であるのはソフト面の部分、すなわち歴史である。台北賓館は過去、日本の台湾総督官邸であり、光復(解放)後は、1961年に総統府の所属となり、外国からの来賓を招待する場所となった。また、最も重要なことは、57年前のこの瞬間、ここで「日華平和条約」が調印されたことである。
「日華平和条約」は幾重もの意義があり、一つは「サンフランシスコ平和条約」の延長上にあることである。「サンフランシスコ平和条約」はきわめて特殊な状況に置かれていた。第二次世界大戦が終わって6年が経ち、まだ平和条約が締結されていない間に、中国の内戦(国共内戦)が発生し、中華民国は台湾に遷った。1950年に朝鮮戦争が勃発し、米国のトルーマン大統領は、第七艦隊に台湾の防衛を支援するよう要求した。中国の内戦および朝鮮戦争の2つの戦争が続いている間、講和会議を招集することはきわめて困難であった。「サンフランシスコ平和条約」調印後、46カ国が批准したが、台湾と中国大陸はいずれも同平和会議および締約に招かれず、ソ連は東欧各国を引き連れて退席抗議した。このような状況下で、締結対象は特殊なものとなり、日本と真に交戦した国家が、逆に締結国とはならなかった。このため、「サンフランシスコ平和条約」第26条に、日本は1942年1月1日の「連合国宣言」に署名し、日本と交戦したが「サンフランシスコ平和条約」の締結国とならなかった国と、別に二国間条約を結ぶことが言及され、7カ月後に台北賓館で日華平和条約が締結されたのだった。
どうして日本は、韓国、台湾、澎湖、東三省(旧満州)、太平洋諸島など過去に占領した領土を放棄しただけで、誰に譲渡するか言わなかったのか、それは台湾の地位が確定していないことを意味するのではないか? と問う人がいるが、その主な要因は、「サンフランシスコ平和条約」第2条の規定がいずれも放棄した領土を誰に渡すか述べていないからであり、それは当時の英国と米国の重要な理念と戦略によるものだった。これらの件については複雑であるため、コンセンサスのある部分から先に決め、その他については二国間条約で処理することとしたのである。これは、わが国が日本と締結しただけでなく、1956年にソ連も日本と講和条約に類似したものを締結して領土問題に関する処理を行っている。日華平和条約の条文の行間からはっきり理解できるように、仮に日本が領土を中華民国に譲渡しないのであれば、双方は署名しなかっただろうし、国籍も含めて1945年10月25日の光復当時の状況に対する再確認だったのである。
日本の最後の台湾総督である安藤利吉氏が陳儀・行政長官と1945年10月25日に台北公会堂で引き継ぎの儀式を行い、台湾住民は中華民国国籍を回復し、その後地方政府が設置され、選挙等を行ったことは、いずれも主権行為であるが、なぜ再度確認する必要があったのか? と問う人がいるが、国際法上は、両国の戦争状態が終結後に、講和条約を締結しなければならないからである。但し、第二次世界大戦の状況は特殊であり、中国と日本は1931年の九一八事変(満州事変)からすでに開戦し、1937年の盧溝橋事件後に全面開戦となったと理解する人もいるが、われわれは当時、日本には宣戦布告しておらず、真珠湾攻撃の二日目となる1941年12月9日になって、当時の国民政府の林森・主席が日本、ドイツ、イタリアに対して宣戦布告したのである。戦争が終わり、台湾は光復し、政府は主権をすでに7年間行使してから講和条約(日華平和条約)を締結した。情勢はきわめて複雑であったが、情勢がいかに複雑であろうと、講和条約を結んだ後、情勢は落ち着いたのである。
「日華平和条約」の意義は、第一に中日間の戦争状態を法的に終結させることであった。実際に、日本にとって、法的な判決または当時の政府は、1945年8月15日の後、台湾人を日本人とはみなしておらず、われわれが国籍を回復したのは10月25日であったが、多くの日本の研究者はみな、天皇が投降を宣言した後、台湾人が日本人とみなされなくなったと認識している。日本が1946年に実施した選挙においても日本在住の台湾人および韓国人は排除されていた。「日華平和条約」の署名は一つの確認行為であり、戦争状態の終結を確認し、主権が中華民国に移転したことを確認するものであった。同時に、中華民国と日本の友好関係を開くものとなった。
当時、中華民国は台湾に遷って2年あまりだったため、中央政府はきわめて苦しい状態だったが、「日華平和条約」締結後、外交の情勢は比較的安定した。さらに2年後、米国と中華民国は「中米(米華)相互防衛条約」を締結し、総体的に情勢はさらに安定した。このことから、「日華平和条約」は当時きわめて重要な役割を果たしており、われわれが台北賓館へ来たなら、この美しい建物を鑑賞するほかに、さらに重要なのは、この建物から過去に起こった歴史を見て、「日華平和条約」が果たした役割を理解することである。「日華平和条約」は、戦後の中日間の戦争状態を終結させ、台湾の主権が中華民国に移転したことを法的に確認し、日本との正常な関係を回復した。
1972年に日本と中国共産党が外交関係を樹立する際、日本の大平正芳外相は「日華平和条約」が無効となったことを宣言したが、実際には、戦争を終結させる講和条約は二つに分類される。一つは処分性の条約(dispositive treaty)であり、言い換えれば、確定後に変化しないものであり、特に人民の国籍、財産等がこれにあたる。もう一つは執行性の条約(executive treaty)であり、例えば両国の往来関係に区切りをつけるものである。但し、これはいずれも1952年当時の「日華平和条約」が果たした役割に影響するものではない。
今年は台日特別パートナー関係促進年であり、日本との相互ノービザ措置、自動車運転免許証相互承認に加え、6月1日から双方青少年の一年間のワーキングホリデー制度が始まる。今後、わが国政府は日本の北海道札幌に弁事処を開設し、東京に文化センターを設立することも計画している。このほか、台北松山空港と東京羽田空港は、来年の羽田空港新滑走路完成後、毎日双方4便ずつのチャーター便が開設される。今後、台日双方の交流はさらに緊密、活発となり、当初の「日華平和条約」の精神により合致することを期待している。
【総統府 2009年4月28日】
写真提供:総統府
]]>
文明開化に浮かれて軽薄に流れる人々を憂いて、明治天皇が薄れそうになる精神を示されたお言葉が教育勅語です。井上毅(こわし)と元田永孚(ながざね)が中心となり、文章の起案に当たりました。
口語訳も添えて記してみました。「教育勅語」と、なんとなくそう聞くだけで敬遠する方も一読のほどを。
国の骨幹。
素朴で明るいなんとなく明治天皇の想いの強さも感じられるけれど、儒教が入る前の日本古来の普遍的な考え方のような気がします。
日本だけでない人間的な。
文中に出てくる皇運とは国の運ではないでしょうか。冒頭に「我カ皇祖皇宗國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」とあります。
我が祖先が目指した日本の日本たるゆえん。君と知らしめられた民との結び付き。
この先も途絶えさせることなく、受け継いでいかなければなりません。
教育ニ関スル勅語
朕󠄁惟(おも)フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁(はじ)ムルコト宏遠󠄁(こうえん)ニ?ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克(よ)ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ?育ノ淵源亦實(じつ)ニ此(ここ)ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ恭儉(きょうけん)己レヲ持シ博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ學ヲ修メ業(ぎょう)ヲ習󠄁ヒ以テ智能ヲ啓󠄁發シ?器ヲ成就シ進󠄁(すすん)テ公益ヲ廣メ世務(せいむ)ヲ開キ常ニ國憲ヲ重(おもん)シ國法ニ遵󠄁(したが)ヒ一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ
是(かく)ノ如キハ獨(ひと)リ朕󠄁カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺󠄁風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道󠄁ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵󠄁守スヘキ所󠄁
之ヲ古今ニ通󠄁(つう)シテ謬(あやま)ラス之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施シテ悖(もと)ラス朕󠄁爾臣民ト俱ニ拳󠄁々服󠄁膺(ふくよう)シテ咸(みな)其?ヲ一ニセンコトヲ庶󠄂幾󠄁(こいねが)フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽
教育に関する勅語
私は、私達の祖先は遠大な理想のもとに日本の国を始められ、深慮のもとに徳を打ち立てになられたものと信じます。そして、国民が忠孝両全の道を全うし、心を合わせて努力した結果、今日に至るまで見事な成果をあげて参りました中には、日本のすぐれた国柄の真髄にして教育の根本となるものの存在がまた、いかにも見られます。
国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、公共の利益や、世間の務めに尽力し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて国の平和と安全に奉仕し、そして、果てしなく広がる天地とともにこれからも続く、国の定めを助けなければなりません。このようなことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
この国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また、日本ばかりでなく、外国にて行っても間違いのない道でありますから、私はあなたたち国民と共に、胸に留めて決して忘れず、皆で立派な日本人となれるよう、心から念願するものであります。
明治二十三年十月三十日
御名御璽
こちらの口語訳は、国民道徳協会訳文を基に加筆しました。
記憶も新しい舛添さんへの、そして昨今のマスコミ主導のこの狂騒。
石原さんの百条委員会への招致しかり、森友学園関連の国会質疑や取材攻勢しかり。
今率先しているのは。
あの時より、今のほうがよく分かる。
みんな、しっかりして。
覚書を全部移すと長くなるので、少し切り貼りしています。
通して読みたい方はこちらのリンクから。
ブログ「In Deep」から抜粋させていただきました。
『ある異常体験者の偏見』 アントニーの詐術 山本七平 1973年より。
原則は非常に簡単で、まず一種の集団ヒステリーを起こさせ、そのヒステリーで人びとを盲目にさせ、同時にそのヒステリーから生ずるエネルギーが、ある対象に向かうように誘導するのである。これがいわば基本的な原則である。ということは、まず集団ヒステリーを起こす必要があるわけで、従ってこのヒステリーを自由自在に起さす方法が、その方法論である。
この方法論はシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』に実に明確に示されているので、私が説明するよりもそれを読んでいただいた方が的確なわけだが、……実は、私は戦争中でなく、戦後にフィリピンの「戦犯容疑者収容所」で、『シーザー』の筋書き通りのことが起きるのを見、つくづく天才とは偉大なもので、短い台詞によくもこれだけのことを書きえたものだと感嘆し、ここではじめて扇動なるものの実体を見、それを逆に軍隊経験にあてはめて、「あれも本質的には扇動だったのだな」と感じたのがこれを知る機縁となったわけだから、まずそのときのことを記して、命令同様の効果のもつ扇動=軍人的断言法の話法に進みたい。
まず何よりも私を驚かしたのは『シーザー』に出てくる、扇動された者の次の言葉である。
市民の一人 名前は? 正直に言え!
シナ シナだ。本名だ。
市民の一人 ブチ殺せ、八つ裂きにしろ、こいつはあの一味、徒党の一人だぞ。
シナ 私は詩人のシナだ、別人だ。
市民の一人 ヘボ詩人か、やっちまえ、ヘボ詩人を八つ裂きにしろ。
シナ ちがう。私はあの徒党のシナじゃない。
市民の一人 どうだっていい、名前がシナだ・・・やっちまえ、やっちまえ・・・
こんなことは芝居の世界でしか起こらないと人は思うかも知れない。……しかし、「お前は日本の軍人だな、ヤマモト! ケンペイのヤマモトだな、やっちまえ、ぶら下げろ!」、「ちがいます、私は砲兵のヤマモトです! 憲兵ではありません」、「憲兵も砲兵もあるもんか、お前はあのヤマモトだ、やっちまえ、絞首台にぶら下げろ」といったようなことが、現実に私の目の前で起こったのである。
これについては後で後述するが、これがあまりに『シーザー』のこの描写に似ているので私は『シーザー』を思い出したわけである。新聞を見ると、形は変わっても、今でも全く同じ型のことが行われているように私は思う。
一体、どうやるとこういう現象が起こせるのか。扇動というと人は「ヤッチマエー」、「ヤッツケロー」、「タタキノメセー」という言葉、すなわち今の台詞のような言葉をすぐ連想し、それが扇動であるかのような錯覚を抱くが、実はこれは、「扇動された者の叫び」であって、「扇動する側の理論」ではない。
すなわち、結果であって原因ではないのである。ここまでくれば、もう先導者の任務は終わったわけで、そこでアントニーのように「……動き出したな、……あとはお前の気まかせだ」といって姿をかくす。というのは、扇動された者はあくまでも自分の意志で動いているつもりだから、「扇動されたな」という危惧を群衆が少しでも抱けば、その熱気が一気にさめてしまうので、扇動者は姿を見せていてはならないからである。(中略)
従って、扇動された者をいくら見ても、扇動者は見つからないし、「扇動する側の論理」もわからないし、扇動の実体もつかめないのである。扇動された者は騒々しいが、扇動の実体とはこれと全く逆で、実に静なる理論なのである。
(そして、しばらく後にこのように続きます)
事実、事実、事実、事実とつなぎ、その間にたえず、「……でしょうか? ……でありましょうか? ……このことを考えてみましょう! ……たとえそう見えたとしても……ではないでしょうか?」ということばでつなぐ。
これをやっていくうちにしだいに群衆のヒステリー状態は高まっていき、ついに臨界値に達し、連鎖反応を起こして爆発する。……ヤッチマエー、ぶら下げろ−、土下座させろー、絞首台へひったてろー、……から、ツツコメ、ワーまで。
私は上にあるシェークスピアの芝居の中にある「どうだっていい、同じ〇〇だ、やっちまえ」という台詞をこの10年くらいだけでも何度見てきたことか、と思います。
その人がいいとか悪いとかではなく、「どうだっていい、同じ〇〇だ」という事例。
同時多発テロのあとの西欧社会のイスラム教徒、領土問題などで利用される際の反〇〇運動(日本、中国、韓国など)、原発問題のあとの電力会社の社員に対して・・・ etc 。
世界中で無限に今も続く「どうだっていい、同じ〇〇だ」 のループ。
そして、上の七平さんの書いてる通りに、
扇動された者は騒々しいが、扇動の実体とはこれと全く逆で、実に静なる理論なのである。
私の好きな言葉を思い出します。
「悲しい、とても悲しい話をしよう
いつもと変わらない、それは一体どういうことだ
そんなことはっ、不良少年どもしか分からない
分からないことを嘆くのはたやすい
俺はたやすい男ではないからこれ以上嘆かない
とりあえず俺は悲しいが、おまえたちは、楽しいだろう」
]]>
厄介な人達を味方に引き入れたものです。
味方の少ない小池都知事は共産党に食いつかれた、と前回の動画でありましたが、正にその通り。
彼らは原発の時は「ゼロリスク」を示せと周りを困らせていましたね。
私たちは「理想郷」ではなく、「現世」を生きなければならない。
そもそもの始まりは、築地中央卸市場の老朽化対策、それと、時代に合わせた改革のためでした。
建物の老朽化
・昭和10年に建設された。
・アスベストが含まれる。再整備、あるいは移転の際に処理される予定。
環境面からのアプローチ
・今ある技術を駆使した結果、豊洲新市場は開設後も「安全」に運営される体制が整った。モニタリング調査との整合性もある。
・HACCPが2018年に日本においても義務化される。今のところ、豊洲はその基準を満たしている。築地は再整備されない限り、条件は劣悪なままとなり、加工品の拡充など次の展望が見えない。中小企業などに対しては弾力的な運用はされると思われるが、大きな市場であるし、「築地」という名前は世界的に注目されているソフトブランドなので、この点から見ても、市場関係者は窮地に陥っている。
※HACCP=略称ハサップ。食品の製造や加工に対して食品衛生を守ろうと国際的に考え出された衛生管理の手法。国連下のWHO(世界保健機関)やFAO(国連食糧農業機関)が主導している。仲卸にはB基準が適用される。
※[3月25日追記]築地に7社ある水産卸のうち「第一水産」が6日付で、食品安全マネジメントの国際規格FSSC 22000(より明確)と、日本版HACCP「JFS-E」のB規格の認証を得たと発表しました。
移転中止兼築地再整備の問題点
・市場は生鮮食品を扱う場所。アスベストなどが含まれるため、営業しながらの改修、再整備はかなりの時間がかかる。今までも何回か検討されながら、無理だと判断されてきた。
・移転中止に対する市場関係者への保障はかなりの額にのぼる。これは都の財政から支払われることになる。
・環状2号線は都心から選手村への通り道。築地市場跡を通って造られる予定なので、このままだと工事が進まないままオリンピックを迎えることになる。
東京都議会が百条委員会(調査特別委員会)を設置する方針を決めました。
さらし者にしようとしている。
あんなに東京のために力を尽くした御仁なのに。
それでいいの、東京都民の方々。
多少、口は悪いかもしれませんが、「warm heart」がある首長だったではありませんか。
ディーゼル規制に関してはニュースに疎かった私も覚えています。パリや北京の大気汚染を対岸の火事と眺めていられるのは、石原さんのおかげです。恩を仇で返すのでしょうか。
Tweetから
同じ事何度でも呟きます。日本中の皆さん、今、豊洲の土壌汚染が〜とデマばら撒く共産移転反対派と、#小池都知事 が、石原氏に対して故無き訴訟を謀ってます。でもね、皆さん、皮肉な事に23区内の空気中のベンゼン濃度って、石原都政以前は、現在の基準値の2〜3倍あったんです。(2017/2/17)
(※この場合の基準値は、大気中の環境基準値)
移転決定までの経緯
平成10年代に都庁に勤めていましたので、中央市場局にいたことはありませんが、移転決定までのゴタゴタはずっと見ていました。あれだけ揉めた中でまとめ上げたのは凄いことだなあと思ってました。で、「石原大型公共事業反対」の格好の標的にされたんですよね…(2016/9/11)
↓
そうでしたか!最後までまとまらなかった水産仲卸が落ち着いたのは、仲卸一軒一軒に送った石原知事からの手紙が大きかったと思います。その後現東卸理事長のご尽力、都の協力があったればこそ、ここまで漕ぎ着けられたんです。最後の最後でやられてますが…w(2016/9/12)
また、市場問題PTによる築地市場業者へのヒアリングでは。
「私共、ここへ至るまでに30年以上、東京都の皆さん、設計会社の皆さんと色んな議論を尽くしてきました。今日、問題提起された内容は全てその中に含まれております。その中でいろんな議論をしながら到達したのが『ここ』なんです。」2016/11/20
オレたち築地市場の全事業者宛に平成22年10月に配られた、石原知事からの手紙。
汚染「除去」手法を編みだし…と書いてあった。(2016/9/13)
拝啓 時下益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。
日頃より、首都圏三千三百万人の食を支えるため、ご尽力されていることに深く敬意を表し、感謝いたします。
さて、この度、私は東京都知事として、築地市場の豊洲移転を進めていくことを決断いたしました。
築地市場の再整備が持ち上がったのは二十五年以上も前、鈴木都政の時代のことであります。
当初の築地・現在地再整備が残念ながら頓挫した後、業界自ら苦い経験を糧にして、築地の街に深い愛着を持ちつつも、豊洲での新市場建設に活路を見出されました。
都としても、共に協議を重ねて、平成二十六年度の開場を目指してまいりました。
本年の第一回都議会定例会では、移転のための予算が認められた一方、議会として現在地再整備について検討したいとの意向が示されたことから、結論を待っておりました。
議会の検討からは、現在地再整備の困難さが、改めて明らかとなりました。仮に全てが順調に進んでも十数年の月日がかかることがわかりました。現在地再整備が選択肢たり得ないことは明白ですが、議会は結論を先送りし、今後の見通しも示しておりません。
ならば、知事としての責任で大きく歯車を回すしかありません。なにより、築地市場を取り巻く情勢が、先送りを許しません。
開場から七十五年が経過し老朽化は窮まっております。
観光客の賑わいとは裏腹に、今後求められる品質・衛生管理の水準に応えられず、産地・顧客ニーズへの対応もままなりません。新市場整備が先に延びるほど、厳しい経営環境が、一段と悪化するのは必至です。
先般、業界団体から
「議会の現在地再整備案では実際には二十年かかり、とても待てない。豊洲に新市場を開設して欲しい。」
旨の切実なご要望を頂きました。
市場の未来を見据え長い時間をかけて議論をまとめてきた業界の労苦に応えるためにも、先も見えぬまま待つ不安と焦燥に区切りを付けるべく、決断をいたしました。
今後、豊洲移転に全力を傾けてまいります。
移転予定地の土壌汚染対策については、我が国最高権威の学者の方々の英知もお借りして、日本の優れた先端技術を活用した汚染除去手法を編み出し、現地での実験も済ませております。安全・安心の確保は十分可能であり、万全を期してまいります。
移転を具体的に進めていくにあたり、皆様がそれぞれに抱える課題・不安・心配は様々であります。これらに丁寧に耳を傾けながら、皆様と共に知恵を絞ってまいります。
首都の行政を預かる知事として、現実に立脚し、複合的に発想して、今回の決断をいたしました。
皆様のご理解、ご協力をよろしくお願いいたします。
敬具
平成二十二年 十月
東京都知事 石原慎太郎
築地市場事業者の皆様
詳細な記事の数々。後半のほとんど、写真や手紙の内容など幾つか転載させていただきました。
また、信輔さん、noriさんのTweetからの情報もたくさん拝借させていただいています。
《電子書籍紹介》
「安全」なのか分からないから、「安心」とは言えない。
結論が曖昧なまま、なんとなく不安を覚えている人は多いのではないでしょうか。
ならば、そこを紐解いていきましょう。
結局、豊洲新市場は「安全」なのかどうなのか。
また、「安全」とは一体何を指すのか。
冷静かつ分かりやすい。耳慣れない言葉もひとつひとつ図解を交えながら解説していく。中央卸市場の豊洲移転にまつわる一連の騒動をまとめた良書。
「1時間でだいたい分かる。築地問題の話を図解しました。」
高橋洋介 著 電子書籍(Kindle版)250円
Amazonにて販売中。
kindle unlimited(100万冊以上読み放題)でも読めます。
key word:
地下水浄化プラント・地下ピット
抜粋:
「現在の豊洲市場の地下は汚染されているどころか、現在の東京の湾岸部で一番きれいな土壌の可能性がある。」
「地下水を利用する予定は一切ない。」
「無責任な報道は、ついに政治問題に発展してしまったわけです 」
「 そもそもこれらは築地の移転問題とは何ら関係がありません。それなのに、このようなゴタゴタを断片的にしか知ることのできない視聴者には「豊洲はけしからん」という漠然とした印象ばかりが 残ってしまったのです。」
石原慎太郎元都知事が巻き込まれたり、豊洲の住民が移転の是非を問う住民投票を課せられそうになっていたり、収束することなく話が妙な方向に行っていますね。
豊洲の住民は、同時に風評被害にも悩まされています。
ぜひ読んでいただきたいですし、東京在住の方や、なんだかよく分からんね、という周りの方にも勧められると思います。
石原さんの後ろ盾になれば。
ランキングにこっそり参加しています。ひとポチをぜひ。
月曜日のプライムニュースで、森喜朗氏が「環状2号線が間に合わない。ゼネコンに聞くと3月がリミット」と心配されていたそうです。
東京オリンピックへ向けての大切な準備のひとつ。
あまり時間がありません。
《書籍発行後の動き》
9回目のモニタリングで急に分析値が高く出たことについて、再調査の動きが始まっています。想定外のデータが得られたら、暫定値として据え置いて再検証するのは当然の流れでしょう。
豊洲市場(東京都江東区)の地下水モニタリング調査に関し、16日、都は近く実施する再調査は、大幅に基準値を超えた場所を中心に30カ所程度で実施する方針を明らかにした。測定結果の精度を高めるため3機関に依頼する。
産経ニュース 2017年1月17日配信より
3月にその結果は出る模様です。
この一連のモニタリングは、「安全」かどうかではなく、「理想」どおりかどうかを調べているように思えます。それは技術者達が、理想である完璧を目指して自らを追い込んできた証でもあるのですが。
厳しい基準設定(水道水並み)だけでなく、排水基準も比較対象に加えたり、浄化プラント(※1)から敷地外へ排出される排水も一緒に調査するなど、適切で、現実的な判断が下されることを望みます。
例えば、前回に近い分析結果が出たならば、それでも「安全」であることに変わりはないのですから、「安心」の敷居を一段下げて、豊洲移転にGoサインを出す(※2)。
都民の不安を一斉に払拭できる判断と決断は、現都知事など一部の政治家にしかできません。「現場を前に進める務めを果たせ」、ですよね。混乱の犯人探しや住民へ責任転嫁している場合ではありません。中心に立つ者の臨機応変さが、問題解決への一番の近道です。
(※1)排水基準以上の地下水は、ここで浄化されてから排水される。
(※2)ベンゼンなどの揮発性物質について、地下水環境基準の100倍の濃度でも地上空気の環境基準は保たれることが豊洲の専門家会議の計算によって示されています。地下ピット内の空気も今現在、留意するべき汚染は何ら見られていないということです。
(補足資料)
各有害物質は下記を超えないことが求められる(おおまかなもの・排水基準を1とした時)
[環境省]
排水基準 1
地下水環境基準・土壌環境基準(溶出基準) 1/10
(くみ上げて使う飲料用水を対象としたもの)
[厚生労働省]
水道水質基準 1/10
(水道水…飲料用上水)
魚屋+議員+議員=本音トーク「報道特注(右)」テーマ?豊洲問題
早、松の内も過ぎまして。
今年のお正月はおせちにお雑煮、おでんまで。堪能しました。
初詣ももちろん行きましたよ。
おみくじに付いていた和歌はこちら。
荒れくるう嵐のあとの末遂に
道は隠れぬ雪降りつもれば
たった今あるいは今年これから。
にっちもさっちもいかないと天を仰ぐことがきっとあるでしょう。
でも、ああ遂にと嘆く前に。
春は必ずやってくる。
太陽の光がきっと雪を溶かす時がくる。
それを忘れてやいませんか。
大事なのは、落ち着いて考えること。
手立ては必ずあるはず。
生まれついた時代のなかで、限られた自分の時間をどう活かすか、どの道を選ぶかだけは決めることができるのだから。
誰にとりましても豊かで実りある一年が訪れますように。
]]>
くっくりさんのブログで昔から続いている「外国人から見た日本と日本人」シリーズの中の、一番最初のエントリー(07/10/16)からの抜粋です。
■C・P・ツュンベリー=スウェーデン人。医師・植物学者。ケンペル、シーボルトと並んで「出島の三学者」と謳われた。1775年(安永4年)来日。
「江戸参府随行記」より
地球上の民族のなかで、日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである。・・・その国民性の随所にみられる堅実さ、国民のたゆまざる熱意、そして百を超すその他の事柄に関し、我々は驚嘆せざるを得ない。政府は独裁的でもなく、また情実に傾かないこと、・・・飢餓と飢饉はほとんど知られておらず、あってもごく稀であること、等々、これらすべては信じがたいほどであり、多くの人々にとっては理解にさえ苦しむほどであるが、これはまさしく事実であり、最大の注目をひくに値する。
(中略)日本人の親切なことと善良なる気質については、私は色々な例について驚きをもって見ることがしばしばあった。それは日本で商取引をしているヨーロッパ人の汚いやり方やその欺瞞に対して、思いつく限りの侮り、憎悪そして警戒心を抱くのが当然と思われる現在でさえも変わらない。国民は大変に寛容でしかも善良である。
(中略)正義は外国人に対しても侵すべからざるものとされている。いったん契約が結ばれれば、ヨーロッパ人自身がその原因を作らない限り、取り消されたり、一字といえども変更されたりすることはない。
■タウンゼント・ハリス=初代米国総領事。1856年(安政3年)来日。
「日本滞在記」より
彼ら(日本人)は皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない−これが恐らく人民の本当の幸福というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見出す。
■バジル・ホール・チェンバレン=イギリス人。1873年(明治6年)〜1905年(明治38年)、日本で教師として活躍。
「日本事物誌1」より
日本人の間に長く住み、日本語に親しむことによって、この論文の後半において簡単に述べた最近の戦争や、その他の変化の間における国民のあらゆる階級の態度を見ることができたが、これらの外国人すべてに深い印象を与えた事実が一つある。それは、日本人の国民性格の根本的な逞しさと健康的なことである。極東の諸国民は――少なくともこの国民は――ヨーロッパ人と比較して知的に劣っているという考えは、間違っていることが立証された。同様にまた、異教徒の諸国民は――少なくともこの国民は――キリスト教徒と比較して道徳的に劣っているという考えは、誤りであることが証明された。
過去半世紀間、この国のいろいろな出来事を充分に知ってきたものは誰でも、ヨーロッパの総てのキリスト教国の中に、日本ほど前非を認めるのが早く、あらゆる文明の技術において教えやすく、外交においては日本ほど率直で穏健であり、戦争に際してはこれほど騎士道的で人道的な国があろうとは、とうてい主張できないのである。もし少しでも「黄禍」があるとするならば、ヨーロッパ自身の良き性質にもまさるさらに高度の良き性質を、その新しい競争相手が所有しているからにほかならない。このように驚くべき成果が生じたのは、日本人が苦境に立たされていることを自覚し、断乎として事態を改善しようと決意し、全国民が二代にわたって熱心に働いてきたからにほかならない。
(引用者注:「黄禍」=19世紀半ばから20世紀前半にかけて、アメリカ・ドイツ・カナダ・オーストラリアなど白人国家において、アジア人を蔑視し差別する「黄禍論」が現れた)
■エドワード・シルベスタ・モース=アメリカ人。明治10年代に計3回日本に滞在。東京大学で生物学を講じた。大森貝塚を発見。
「日本その日その日1」より
外国人は日本に数カ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於いて道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生まれながらに持っているらしいことである。
衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正さ、他人の感情についての思いやり・・・・これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。
こう感じるのが私一人でない証拠として、我国社交界の最上級に属する人の言葉をかりよう。我々は数ヶ日の間ある田舎の宿屋に泊まっていた。下女の一人が、我々のやった間違いを丁寧に譲り合ったのを見て、この米国人は「これ等の人々の態度と典雅とは、我国最良の社交界の人々にくらべて、よしんば優れてはいないにしても、決して劣りはしない」というのであった。
■アリス・ベーコン=アメリカ人。1881年(明治14年)来日。華族女学校(後の学習院女学校)の英語教師として活躍。
「明治日本の女たち」より
平民階級を語る上で忘れてならないのは、その多くを占める職人である。
日本が芸術や造形、色彩の美しさを大切にする心がいまだにある国として欧米で知られているのは、彼等の功績である。
職人はこつこつと忍耐強く仕事をしながら、芸術家のような技術と創造力で、個性豊かな品々を作り上げる。買い手がつくから、賃金がもらえるから、という理由で、見本を真似して同じ形のものや納得できないものを作ることはけっしてない。日本人は、貧しい人が使う安物でさえも、上品で美しく仕上げてしまう。一方、アメリカの工場で労働者によって作り出されるあらゆる装飾は、例外なくうんざりするほど下品である。
(中略)もちろん、日本の高価な芸術品は職人の才能と丁寧な仕事をよく体現している。しかし、私が感心したのはそのような高級品ではなく、どこにでもある、安い日用品であった。貴族から人夫にいたるまで、誰もが自然のなかにも、人が作り出したものにも美を見出し、大切にしている。
■レジナルド・カーニー=アメリカ人。歴史学者。黒人学専攻。ハンプトン大学助教授。
「20世紀の日本人−アメリカ黒人の日本人観 1900〜1945」(1995年発行)より
第一次大戦が終わると、ヨーロッパの戦勝国は世界の秩序をもとに戻そうとパリで講和会議を開いた。それぞれの国にはそれぞれの思惑があったが、一致していたのは、日本とアメリカからの申し入れには耳を傾けよう、という姿勢だった。
ウィルソン大統領は、世界秩序回復のための十四カ条を手に、パリに乗り込んだ。彼がまず唱えたのは、国際法と国際秩序の確立であった。日本の代表団は、ウィルソンが出せなかった十五番目の提案を持って講和会議に出席した。「わが大日本帝国は、国際連盟の盟約として、人種平等の原則が固守されるべきことを、ここに提案する」。これこそが、いわゆる十五番目の提案であった。……人類平等の実現をめざしていた日本と、そうでなかったウィルソン、その差がここに出たといってもよいだろう。
もし日本のこの十五番目の提案が実現されていれば、アメリカ黒人にとって、おもしろいパラドックスが生じていたかもしれない。……アメリカ黒人がほかの連盟国の人間と同じように、民主的に扱われるためには、アメリカ以外の外国に住まねばならなかったはずである。そんなパラドックスが生じていたかもしれないのだ。……「おそらく世界で最も有望な、有色人種の期待の星」、それが日本であるという確信。日本はすべての有色人種に利益をもたらすという確信があったのだ。それは、たとえ一つでも、有色人種の国家が列強の仲間入りをすれば、あらゆる有色人種の扱いが根本的に変わるだろうという、強い信念によるものだった。……全米黒人新聞協会は、次のようなコメントを発表した。「われわれ黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を闘わせている日本に、最大の敬意を払うものである」「全米千二百万の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」。
(引用者注:日本が提出したこの「人種差別撤廃法案」の投票結果は賛成17、反対11であったが、委員長を務めていたウィルソンが、かような重要案件は全会一致でなければいけないとして、不採択を宣言した)
(注:英連邦、特にオーストラリアの反発が強かった。またアメリカ上院も内政干渉にあたると猛反発した。ウィルソン自身はこの日本の提案に当初、前向きだった。側近でもある代表団の一員が草案を見せられた翌日には大統領提案として提案すると日本側に伝達している)
■フランク・ロス・マッコイ陸軍少将=リットン調査団のアメリカ代表。
「朝鮮新話」(鎌田沢一郎)(昭和25年発行)より
1932年(昭和7年)に宇垣一成・朝鮮総督に語った言葉
自分は昨夜来東洋における一つの驚異を発見した。それは、今回の長い旅行における大きい収穫であつた。同時に、自分の今日までの研究不足をしみじみと愧(は)ぢている。何であるかといへば、朝鮮に対する全般的な認識の相違である。
吾々は、朝鮮といふ所は、地理的には大体満州の延長であるから、相変らず匪賊(盗賊)が横行し、産業も振るはず、赭土(あかつち)色の禿山の下で、民衆は懶惰(らんだ)の生活を送つてゐるものとばかり思つてゐた。然るに列車が一度鴨緑江の鉄橋を越ゆるや車窓に隠見する事々物々、皆吾々の予想に反し、見渡す山河は青々として繁茂し、農民は水田に出て、孜々(しし)として耕作に従事し平壌その他工業地帯の煙突は活発に煙を吐き、駅頭に散見する民衆は皆さつぽりした衣服を纏(まと)い、治安はよく維持せられていて何ら不安はなく、民衆は極めて秩序正しく行動し、且つその顔に憂色がなく、満州に比べて実に隔世の観がしたのである。
これはとりもなほさず、貴国の植民政策が妥当であつて、歴代の総督が熱心に徳政を施された結果であることを卒直にお歓びすると同時に、今後における吾々の朝鮮観を根本より改めるであらう。
■ククリット・プラモード=タイ国元首相。
現地紙「サイアム・ラット紙」1945年12月8日付より
日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。
十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。
■氏名不詳(英軍中尉)
「アーロン収容所」(会田雄次=歴史学者。1943年に応召しビルマ戦線に歩兵一等兵として従軍、イギリス軍の捕虜となった)より
私たちの将校は「日本が戦争をおこしたのは申しわけないことであった。これからは仲よくしたい」という意味のことを言った。
(中略)英軍中尉は非常にきっとした態度をとって答えた。
「君はスレイブ(奴隷)か。スレイブだったのか。(中略)われわれはわれわれの祖国の行動が正しいと思って戦った。君たちも自分の国を正しいと思って戦ったのだろう。負けたらすぐ悪かったと本当に思うほどその信念はたよりなかったのか。それともただ主人の命令だったから悪いと知りつつ戦ったのか。負けたらすぐ勝者のご機嫌をとるのか。そういう人は奴隷であってサムライではない。われわれは多くの戦友をこのビルマ戦線で失った。私はかれらが奴隷と戦って死んだとは思いたくない。私たちは日本のサムライたちと戦って勝ったことを誇りとしているのだ。そういう情けないことは言ってくれるな」
■ヘレン・ミアーズ=アメリカ人。東洋学者。戦前、戦後に来日。連合国占領軍最高司令部の諮問機関のメンバー。
「アメリカの鏡・日本」(昭和23年出版。出版当時、マッカーサーにより邦訳出版が禁止された)より
つい五年ほど前、米英両国の軍隊と砲艦が自国民の生命財産を守るために中国の「盗賊」を攻撃したとき、両国の世論は中国人を野蛮人と呼んで非難した。イギリスとアメリカの国民は忘れているようだが、日本人はよく覚えている。ところが、日本が同じように中国の「盗賊」を攻撃すると、同じ国民が日本人を野蛮人と呼ぶのである。
■ダグラス・マッカーサー=アメリカ人。日本占領連合軍最高司令官。
1951年(昭和26年)5月3日、アメリカ合衆国議会上院の軍事外交合同委員会で行われた証言
日本は八千万に近い膨大な人口を抱え、それが四つの島の中にひしめいているのだということを理解していただかなくてはなりません。その半分が農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。
潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまでに接したいずれにも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの地点においてか、日本の労働者は、人間は怠けている時よりも、働き、生産している時の方がより幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでもよいようなものを発見していたのです。
これほど巨大な労働能力を持つているということは、彼らには何か働くための材料が必要だということを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。
しかし彼らは手を加えるべき原料を得ることができませんでした。
日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫(すず)が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。
もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。
■ラダビノード・パール=極東国際軍事裁判のインド代表判事。
1952年(昭和27年)11月、広島高裁での歓迎レセプションにおける発言
わたしは1928年から45年までの18年間(東京裁判の審議期間)の歴史を2年8カ月かかって調べた。各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中にはおそらく日本人の知らなかった問題もある。それをわたくしは判決文の中に綴った。
このわたくしの歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。 そして自分らの子弟に『日本は国際犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。
満州事変から大東亜戦争勃発にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って卑屈・退廃に流されてゆくのを、私は見過ごして平然たるわけにはゆかない。彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤られた歴史は書き換えられねばならない。
■ラダビノード・パール=極東国際軍事裁判のインド代表判事。
1952年(昭和27年)11月、東京弁護士会での講演における発言
日本人はこの裁判の正体を正しく批判し、彼らの戦時謀略にごまかされてはならぬ。日本が過去の戦争において国際法上の罪を犯したという錯覚におちいることは、民族自尊の精神を失うものである。自尊心と自国の名誉と誇りを失った民族は、強大国に迎合する卑屈なる植民地民族に転落する。
日本よ!日本人は連合国から与えられた《戦犯》の観念を頭から一掃せよ。
■朴鉄柱=韓国人。大東亜戦争下に日本の皇典講究所を卒業。住吉神社に奉職。終戦後、韓国に帰国。李承晩大統領の反日政権下にあり、辛酸を嘗めさせられた。1954年(昭和29年)韓日文化研究所を設立。1990年逝去。
「日韓共鳴二千年史」(名越二荒之助編著)より
1967年(昭和42年)に訪韓した名越二荒之助に語った言葉
現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。“事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし”というのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。
日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。日露戦争と大東亜戦争――この二つの捨身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。
(中略)大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。日本は戦争に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、“聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。
■ラジャー・ダト・ノンチック=マレーシア人。南方特別留学生として日本で学び、戦後独立運動に参加。元上院・下院議員。1994年逝去。
「日本人よありがとう マレーシアはこうして独立した ラジャー・ダト・ノンチックの半生記」(土生良樹)より
かつて 日本人は 清らかで美しかった
かつて 日本人は 親切でこころ豊かだった
アジアのどの国の誰にでも
自分のことのように 一生懸命つくしてくれた
何千万人もの 人のなかには 少しは 変な人もいたし
おこりんぼや わがままな人もいた
自分の考えを おしつけて いばってばかりいる人だって
いなかったわけじゃない
でも その頃の日本人は
そんな少しの いやなことや 不愉快さを越えて
おおらかで まじめで 希望に満ち明るかった
戦後の日本人は 自分たち日本人のことを
悪者だと思い込まされた
学校でも ジャーナリズムも そうだとしか教えなかったから
まじめに 自分たちの父祖や先輩は
悪いことばかりした残虐無情な
ひどい人たちだったと 思っているようだ
だからアジアの国に行ったら ひたすら ペコペコあやまって
私たちはそんなことはいたしませんと 言えばよいと思っている
そのくせ 経済力がついてきて 技術が向上してくると
自分の国や自分までが えらいと思うようになってきて
うわべや 口先では 済まなかった悪かったと言いながら
ひとりよがりの 自分本位の えらそうな態度をする
そんな 今の日本人が 心配だ
本当に どうなっちまったんだろう
日本人は そんなはずじゃなかったのに
本当の日本人を知っているわたしたちは
今は いつも 歯がゆくて くやしい思いがする
自分のことや 自分の会社の利益ばかり考えて
こせこせと 身勝手な行動ばかりしている
ヒョロヒョロの日本人は
これが本当の日本人なのだろうか
自分たちだけで 集まっては
自分たちだけの 楽しみや ぜいたくに ふけりながら
自分がお世話になって住んでいる
自分の会社が仕事をしている
その国と 国民のことを さげすんだ眼でみたり バカにする
こんな ひとたちと 本当に仲よくしてゆけるだろうか
どうして どうして日本人は こんなになってしまったんだ
1989年4月 クアラルンプールにて
■彭榮次=台湾・李登輝前総統の側近。
2000年、訪台した小林よしのりに語った言葉
台湾は数百年もの間、3つの言葉が入り乱れていた。しかし日本によってやっと1つの言葉を得た。そして日本は台湾に「アイデンティティー」という概念と「戦争」というロマンを持ち込んだ。我々はそんなこと考えたことなかったから熱狂した。我々は夢中になったんだ。けど突然見捨てられたんだ「あなたたちは日本人ではありません」(引用者注:日本の敗戦のこと)。
だから、私たちは親から「お寺に行け」と言われた。昔、道教の寺では中国の古典を教えていた。寺子屋のような感じだったから、そこで中国というものを学んだよ。けど実際に入ってきた中国は全く違った。
日本は「いさぎよさ」「切腹」の概念を我々台湾人に残していた。中国の価値観は「どんな汚いことをしても生き残る」というものだ。我々台湾人に受け入れられるはずがない。だから、二・二八事件ではその2つの価値観が衝突して負けたんだよ。負けるのは当たり前、だってこっちは「いさぎよく死ぬ」という価値観なんだから。だからみんなバタバタ死んじゃった。
日本は今、中国とペタペタしてるようだが、日本と中国が仲良くできるはずがない。そのコンフリクトが台湾だ。日本にはすでに死んでしまった価値観が台湾に残ってる。日本が台湾に置いていった価値観だ。我々の世代は下の世代に「言葉(日本語)」を残すことはできなかった。でも価値観は残せたと思う。
台湾語に「あさり」という言葉がある。日本語でいさぎよいこと…つまり「あっさり」が台湾語として残ったのが「あさり」だ。「あさり」という言葉はそのまま台湾語でホメ言葉になっている。「あさり」は日本が台湾に残した日本精神(リップンチェンシン)なのだ。
■イビチャ・オシム=旧ユーゴスラビア(ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエボ出身のサッカー選手、指導者。2006年、日本代表監督に就任。
日経新聞2007年1月31日付インタビュー記事より
千葉の監督になって驚いたことの一つが、負けチームにサポーターがブーイングではなく“次はがんばれ”と励ますことだった。どうもこの国には結果だけにとらわれない文化がある、ということに気づいた。
日本には豊かであることを逆にコンプレックスに感じているサッカー関係者がいる。ハングリーでないと。でも、経済的に恵まれ、何でも選べる中からあえてプロを選んだ日本の選手にはサッカーをする喜びがまだある。そこは欧州のカネまみれのサッカーより、ずっといいと私は思う。
日本に来てサッカー観が変わった。日本に感化され、同化したという意味ではない。それでは皆さんもつまらないし、私が監督をするメリットもない。ともに働きながら、日本人の面白さに感じ入った、ということです。何というか……日本のアンビバレントなポリバレント性に。民主主義を原則としながら天皇制があるみたいな。みんなを尊重するやり方といいますか。
ひとつだけ。
「天皇制」というのは、日本で共産思想を広めようとしている者達が作り出した言葉ですから要注意。
何かを倒さなければ、「革命」となりませんから。
では何と呼ぶか?
「すめらぎ(天皇)」という呼び方にある古より連綿と国を統(す)めることを旨としてきた皇統、あるいは、君と知らしめられた民との結び付き。。
あまり抜粋になりませんでした
ブログ「ぼやきくっくり」
こういう人名だけでまとめられた一覧も作られています。長いシリーズですから、じっくり読み進めるのにも、これはというエントリーを選ぶのにも、見やすいものとなっております。
]]>
すこし集中して書きものをしたくて、近所の図書館に足をはこんだ。自習室に机が並べられ、中高生が勉強している。彼らと同じように、図書館で勉強しながら将来の不安に駆られていた自分を思い出しつつ、列に加わり書きものを始める。
高校生の頃の僕は獣医を志望し、北海道の大学に進学することを夢見ていた。その希望はかなわず福岡に進学することになったが、思いのほか充実した日々となった。テニスやアルバイトに打ち込み、バイクを買って走り回り、3年生では世界一周の船旅にも参加した。地質学の研究のため、甑島をはじめ九州各地の海岸線を歩いた。
博士課程で東京に進学すると国内外の調査航海に参加することになった。船酔いや挫折を踏みこえ、なんとか博士号をいただいた後は、研究分野を変えて研究者としての職を得た。海岸調査のためはるか南氷洋上で新年を迎え、南極観測隊の一員として南極内陸部でのキャンプ生活も経験した。
研究生活の中で、知識の体系が頭の中で組み立てられてゆく快感を覚える一方で、人類の知識に自分が一つを加えることの重みを知った。同時に先人たちの努力の偉大さと積み重ねの尊さを実感した。
そして今、研究者をやめて役場の職員となり、自分の背景を全て生かした学びの場の提供や研究のサポート、野外活動の場づくりなどに携わっている。これから先の展開も、さらに大きく思い描いていることがある。
振り返ってみると、受験勉強をしていた頃には思いもつかないほどに卒業後の道は開けていた。当時志していた獣医とは全く違う未来に踏み込んでいるが、僕はこの人生に満足しているし、心から愛している。
こうした全ての活動の土台が、図書館に座り英語や数学の問題に向かいあっていたあの頃の自分にある。同じように今、図書館に並んで座っている彼らがノートに刻む一文字一文字の先にも、それぞれの将来が広がっている。
大学進学の際に獣医ではない選択をしたのは、実はセンター試験に失敗したからだ。ゆくゆく動物に携われそうな生物学科を受験したがそこにも通らず、第2希望として書いた地球惑星科学科に拾ってもらったことが今の自分につながる。もし希望通りの獣医学科に進学できていたら、僕はどんな心境で今を迎えていただろうか。これほどの意外性やそこからくる面白さはなかったかもしれないが、また別の形で満足した人生を過ごしているような気もする。
獣医の道を諦めること、研究分野を変えること、研究者をやめること、など深く悩みながら3度決断した。当時はその選択にその後の人生の全てがかかっていると思いこみ悩んだが、今は選択の結果だけで将来が決まるものではない、と言える。選択の後に、自分に恥じない行動を重ねられれば、満足できる今をつくることができる。それはどの道に進んでも同じことだ。
目の前で図書館の机に向かっている中高生に伝えたい。受験の結果はどうあれ、そこから開ける自分の未来を信じきってほしい。その先で努力を続ければ、必ず道は開ける。だから今は安心して悩み、考えぬいてほしい。
______________________________________
大岩根 尚(おおいわね ひさし)氏
三島村地球科学研究専門職員。1982年宮崎市生まれ。博士(環境学)。元南極観測隊員。2013年10月、専門職員に採用され、同村の日本ジオパーク認定(15年9月)に尽力した。
______________________________________
転載元:南日本新聞朝刊 11月27日掲載分
私達がしなければならないことは、その努力が報われる社会を守ること。
天皇陛下が象徴としてのお務めについてのお気持ちを表明してから、早数ヶ月が経とうとしています。
陛下の意向を表すのにメディアがよく使う、生前退位という耳慣れない言葉。
「譲位」と「退位」
退位とは、君主が生きている内に、自らの意志でその地位を手放すこと。
(Wikipedia(フリー百科事典)より)
継承者の即位は、君主の死によるものなのか、あるいは、その地位を自ら手放したことによるものなのか。
後の時代に振り返った時に、分かりやすく「こういう理由で生前退位し、しかるべき継承者に譲位した」と歴史書に表記することはあるかもしれません。
さりながら、まだご存命なのに、「生前」という言葉をわざわざ付けるのは不埒なることではないでしょうか。
今現在、「生前退位」以外の表記に統一している報道機関は、朝日新聞の「退位」。それから、産経新聞が遅ればせながらと断りの上で最近決定した「譲位」。このふたつのみと聞き及んでいます。
NHKですら、「生前退位」と連呼するから、胸が痛む。
読者や視聴者の心情に想像が及ばない。手続きを丁寧に重ねようともしていない。
「生前退位のご意向」とセンセーショナルにNHKに独占スクープされたそのままで、陛下がお気持ちを表明された後も変えようとしていない人でなしとしか思えません。
「退位」か「譲位」に絞るなら
陛下のお気持ちに沿い、表明直後は「退位」と、この二文字のみなら適切であったと思います。
「自らその位を退く」のは何のためかと言えば、ひとつは祭祀や国の象徴としての務めが加齢のためおろそかになってしまうのではという懸念を払うため。それからもうひとつは国民や家族の負担を減らすため。
私の為に、長く喪に服すことはないというその御心。
焦点がいかに憲法の庇護の下、退位による譲位を叶えるかという国の課題に移った今、その内容に沿うのは「譲位」となるでしょう。
立憲君主制の国においての譲位はこの国では初めて。そのために、陛下ははっきりとその言葉を口にすることは出来ず、内にある国を守る為という公の心を感じ取って守ることが出来るのは、国民のみ。
国の中心に輝く権威は、失われることはない。権力は摂政を置けば摂政に、院政の時代は上皇にあった。外患を招いたり、争いの種にさせない難しさ。
民主主義からなる現代は、その権力は間接民主制で選ばれた総理が担う。
天皇陛下は自ら抱く権威は、いついかなる時も、国民との信頼関係から成り立つことを知っている。
なるべく影響は小さく、自ら位を退き、皇嗣に譲ることを願っている。
「議論」と「取捨選択」
また、有識者会議は議論する場であるかのような報道に、しばしば違和感を覚えます。
いくつかの主張があって、中には相反するものもあるというのが議論です。これには落とし穴があって、いらない議題や思惑を滑り込ませてしまう危険があります。実際、やいのやいのと、女系天皇(母系に天皇の血を引く男女を含めた継承者)も認める道筋を付けるべきだ、この先血筋が途絶える恐れはないのか、という声が挙がります。
悠仁さまがいらっしゃるし、まだお小さいし、今しなければいけない論議でしょうか。愛子さまや悠仁さまが成人なさるまでに決めればいいこと。
「わたしの葬儀は簡素でいいよ。即位の礼に力を注ぎなさい」というお気持ちに応えるためにしなければいけないのは、考えられる法改正や法整備からの「取捨選択」に知恵を集めることで、「議論」ではない。
一日も早く、御心が安んずることを願っております。
]]>
久々に、地元の新聞に載っている日曜随想リレー「朝の文箱」からの転載です。
______________________________________
薩摩の伝統文化である示現流、薩摩琵琶、天吹(てんぷく)を見せていただいた。たった半日ではあったが、解説や資料から、これらが単なる剣術や音楽にとどまらない人間教育の要素を多分に含んでいることが伝わってきて、深く興味をひかれた。
まずは示現流資料館にて、示現流の歴史や練習法を学んだ。周知のことだが、示現流ではとにかく速く刀を振りぬくことを修練する。その結果、薩摩の武士は、すべての剣術の中で最も速いといわれる攻撃力を得た。
一方で、鍔と鞘とを、紐や針金を使って結び、それを解かなくては抜刀できないようにもしていた。人を殺める最速の剣術を身につけるからこそ、むやみに人を傷つけることのないよう自らを律していく、との考え方を僕は素晴らしいと思った。
次に鹿児島神社にて、琵琶会を開いていただいた。初めて拝聴する薩摩琵琶の調べの中、歌詞の意味に思いを巡らせた。歌詞には自分こそがという矜持があり、自戒やたゆまぬ努力を勧め、敵方であろうとも情けをかけ、「もののあはれ」を解する挿話がそこにはあった。
薩摩の幼子たちは、稽古で繰り返し歌詞を歌う中から、その意味を体に染み込ませ、情緒や命のはかなさを理解していったのだろう。
続いて聴いた天吹は優しい音色で、神社の緑に溶け込むように柔らかいものだった。その音色を奏でる息遣いは示現流の呼吸法にも通じているとのことだが、長息を吐くことに、座禅のような心を鎮める効果もありそうだ。
今回、薩摩の伝統文化に触れる機会を得て、これらの人間教育としての奥深さに感銘を受けた。特に一人の人間に一点集中型の圧倒的な突破力と、相手を思いやる人間性をともに育てていこうとする工夫に、僕はたいへんな魅力を感じた。そして、これは現代にも通用する教育ではないか、と思った。
「テクノロジーだけでは足りない。リベラルアーツや人間性と結びついたテクノロジーこそが、我々の心を震わせるのだ」。スティーブ・ジョブスはそう語ったが、この言葉は「テクノロジー」だけでなく、知識、技術、身体能力、地位、権力、お金など、何にでも置き換えて使われるべきだと僕は思う。
努力を重ねて高いレベルの何かを手にしたときに、それをどう使うのか。使い方を方向づけるのが「人間性」だ。薩摩の先人たちは、示現流、薩摩琵琶、天吹など、独自の文化を通じて、人間性をも高めてきた。だからこそ幕末、多くの偉人を輩出し、強国となれたのではないだろうか。
人間性というのは、学力テストの点数のように、明確な測定基準がない。それゆえに、現代の学校教育では重視されていないが、養成に20年、30年かかる代わりに、国を支える底力となるものだ。
「国家百年の計は教育にあり」という。だが、人間性教育を重視してきた鹿児島にあっても、その文化の伝承が力強いものとは決していえなくなってきている現実に、強い危機感を抱く。薩摩の文化の価値を改めて見直し、日本のために受け継ぐべきだ。よそ者ながら、僕もその一助となりたい。
______________________________________
大岩根 尚(おおいわね ひさし)氏
三島村地球科学研究専門職員。1982年宮崎市生まれ。博士(環境学)。元南極観測隊員。2013年10月、専門職員に採用され、同村の日本ジオパーク認定(15年9月)に尽力した。
______________________________________
転載元:南日本新聞朝刊 9月18日掲載分
故郷のことを改めて文章にして褒められるとこそばゆいですね。
天吹や薩摩琵琶は島津忠良の時代には既に重きを置かれていたそうです。島津忠良は戦国の世に生まれた島津家中興の祖。日新公として今も親しまれています。その日新公が若者のためにと5年余りの歳月をかけて完成させた47首の「日新公いろは歌」と呼ばれる一連の歌があります。
その中の何首かは鹿児島県職員への訓示として受け継がれてきたと聞きました。例えば、「と」。
「科(とが)ありて人を斬るとも軽くすな いかす刀もただ一つなり」
こういう伝統があることは有難いものです。
♪あなたのような人がいるから
生きてることが素晴らしくなる♪
受け継がれる業(わざ)や技術。
それらを丹念に描くテレビ番組のオープニングソングです。
無性に好きで休みの朝によく見ていました。
例えば、凍り豆腐。
しんと晴れた青空の下、雪面にしいた簀の子に豆腐を一枚一枚広げていく。
夜の間に凍らせて。
自然解凍で幾日か、乾燥させて出来上がり。
大豆から、豆乳。豆腐。凍り豆腐と。
どこを取っても体においしい。手間隙かけた美味しさ。
技術と知識と洗練されていく道具。
これらは年月を重ねれば更に深みを増し、改善されていきます。
検証を重ねること。これが大事。
震災後、停止されていた原発の再稼働にあたり、原子力災害防止対策のひとつとしてより重要視されているのが、住民避難計画の充実です。
PAZ内での乳幼児の避難は、他の住民より一歩早く行うこと。
PAZより以遠では、避難の際の集合場所や避難所等において、乳幼児ものめる安定ヨウ素剤調製ができる体制を日頃から整えておく。事態が進み、PAZ外で避難や一時移転に伴う安定ヨウ素剤の服用指示があった時には、それに合わせて配布と服用を行う。
この中の、安定ヨウ素剤の調製を薬剤師などが行うことによるタイムラグの可能性が以前から指摘されていました。
国の要請を受けて、医薬品メーカーの日医工がゼリー状タイプの製造を始めました。この9月にも配布開始となることを目指しています。以下まとめてみました。
内閣府は今秋以後、原発の半径30キロ圏に入る自治体に対し乳幼児が服用できるゼリー状の安定ヨウ素剤を順次配備すると発表した。今年度中に約30万包を各自治体に配備する。対象となる3歳未満の乳幼児は、全国で11万人余りとなる見込みだ。この中には原発5キロ圏(PAZ)内の対象者への事前配布も含まれる。
地方自治体では、北海道や鹿児島など原発の30キロ圏に入る21道府県と、核燃料の加工施設などがある神奈川、大阪、岡山の3府県が対象となる。
これまでは丸薬のみのため乳幼児は服用しづらく、避難が始まってから薬剤師がシロップ剤を調製するのを待たざるを得ない状況だった為、事故対応の課題となっていた。
国からの依頼を受けて日医工(富山市)が製造を始めた。国は自治体が必要量を購入できるよう財政支援する。
30キロ圏外の自治体でも希望があれば、来年度以降に配布を検討する。配布に合わせ、原子力規制委員会も配布と服用のガイドラインを見直す。
ヨウ化カリウム内服ゼリー16.3mg・32.5mg「日医工」
配布が始まるゼリー状タイプの有効期限は3年。
生後1ヶ月までの新生児用と、生後1ヶ月から3歳までを対象にした2種類がある。
国等の指示に従い、1回1包を服用する。
(画像は生後1ヶ月までの新生児用)
イチゴ風味。ミルクやお湯にも溶け、新生児でものめる。
飲み込む力が弱まった高齢者らも服用できる。
〈効能・効果〉
甲状腺の内部被曝の予防と軽減
〈使用上の注意点〉
溶かした後は、2時間以内に服用すること。
効果は服用後24時間。なるべくのむタイミングは被曝直前がよい(推奨:被曝前24〜被曝後3時間以内)
少量のお湯かミルクに混ぜて授乳前にのませるとのみやすい。胃腸への負担も軽くて済む。
水のみで服用する場合は、食事が終わって30分経った頃が勧められる。
(朝日新聞と産経新聞の13日配信の記事を参考及び一部引用させて頂きました)
原発はインフラの一部です。
減価償却を考えれば、現実に沿って耐年年数が過ぎるまで稼働は続けるべきです。
問題となるのは内に「神の火」を抱えているからでしょう。
日本で初めて原発が動き出したのは1963年のことでした。それからもう半世紀。
「原発」と一口で言いましても、その間にどんどん改良は進んでいます。福島は第二世代初期の原発でした。よく言われているようにそれでも事故につながった全電源喪失は、地震の揺れではなく、津波によるものでした。同じく津波に襲われながら無事だった女川原発、福島第2原発の存在もあります。
世界を見渡せば、フランスは今だ「原発大国」であり、その技術提供を受けた中国は2030年までに「原発強国」を作ると今年初めに宣言しています。
日本も負けていません。使用済み核燃料の有害度が天然ウランと同程度まで減衰する期間は現状10万年であるところ、300年程度まで短縮するための開発が着実に進められています。国際的な協力の元、実用化までのロードマップも描かれています。
ベースロード電源のひとつとしての役割はまだ当分課せられるのが現状です。それに見合った対策、政策が求められています。
新鹿児島県知事の、「不安だから原発を一旦止める」という感情論に根ざした主張。
「不安にとらわれた日々」と「技術の停滞」と「危険性の増大」は同じものではないでしょうか。
原子力発電は、稼働中の原子炉を一度止めれば少なくとも3、4年は冷やし続けなければいけません。その間の経済的損失は技術継承の不備も含めれば電力会社そのものを揺るがしかねませんし、安易に停止されれば、再稼働を心待ちに耐えていた住民の生活が再びないがしろとなります。
「決意」は人を元気づけるといいます。楽な生活、ストレスのない生活ではない。
進歩はまた、その国を活気づけ、より安全で豊かな生活を国民にもたらすのではないでしょうか。
進取の気風ってそういうことでなかね。
ランキングにこっそり参加しております。ひとポチをぜひ。
(追記)12/6
資料の修正に合わせ、加筆・添削を行いました。
参考資料:安定ヨウ素剤の配布・服用に当たって(原子力規制庁)
]]>
『再現日録』終戦からの31日間
______________________________________
(3)1945年8月18日 「満州国」皇帝が退位
日本の連合国への降伏に伴い、「満州国」(中国東北部)の溥儀皇帝が18日に退位した。これによって満州国は建国以来約13年半で消滅することになった。
退位の儀式は同日未明、朝鮮との国境に近い大栗子の皇帝の仮住まい先で行われた。皇帝は自ら「退位詔書」を読み上げながら、目頭を押さえて号泣したという。
皇帝は9日のソ連対日参戦後、満州国の首都新京(長春)から大栗子に退避、日本人社宅に移り住んでいた。
日本の関東軍も満州北部からは退却し、新京から通化に司令部を移している。このため満州各地では開拓団など多くの日本人が取り残され、ソ連軍などによる暴行や略奪が横行している。避難中に家族が離散するなどの悲劇も起きている。
一方、日本では18日、内務省が「外国駐屯軍慰安施設等整備要項」で、占領軍兵士のための慰安婦設置を全国に指令した。
◇ ◇
溥儀はこの後、日本への亡命を図ったが、ソ連軍に捕らえられ、50年に中国に身柄を引き渡される。戦犯収容所に入るが59年に特赦で出所した。その生涯は「ラストエンペラー」として映画化された。
______________________________________
転載元:南日本新聞 2015年8月18日掲載分
※大栗子=ターリーズ
過去は振り返らない。
歴史をただ受け継ぎたい。
空白は虚偽を産むからそうならないように、惑わされないように。
次に記す事件は二度と繰り返してはならない。
亡くなった方達に哀悼の意を。
朝鮮と国境を接する満州通化省。
終戦時、通化省の満州国軍や警察は国民党軍に組み入れられていた。中華民国の軍の統治下にあったのだ。
ソ連の参戦に呼応し、八路軍が駐留する。
ここでの八路軍とは、華北からの正規の中国共産党軍と先に駐留していた朝鮮人民義勇軍を合わせた総称である。
満州各地から命からがら南下してきた日本人は通化市に集まっていたものの、ソ連軍の占領下、内地に帰れない。
ソ連が撤退すると、支配を委譲された共産党軍が幅を利かせるようになる。
だんだんと締め付けや暴力、略奪はひどくなった。中国人で処刑をまぬがれた通化省行政の幹部はわずかだった。
中華民国政府の要請を受けた、元関東軍軍人らは共に蜂起しようと計画を立てていたが既に情報は漏れていた。
1946年2月3日。
武器もない中、共産党軍の拠点襲撃や、溥儀の后婉容や嵯峨浩(皇弟妃)らを救出しようと蜂起するも、日本人は孤立して敗れる。
国民党軍は計画を延期しようとしていたのだが連携がとれず伝わらなかった。
16歳以上の日本人男性は関与を問わず連行された。そして数千人の日本人が無惨に殺された。
これも戦後の話。
満州国は、もうひとつのアメリカと言われているんですよね。
日本国が保護国で、満州国は被保護国という位置付けになりますでしょうか。
清の最後の皇帝愛新覚羅溥儀は再び万里の長城以東の土地、わが故郷満州で執政の地位になることを了承した。
それは自らの意志だった。西太后の墓を国民党軍に荒らされ、陵辱されてから。
憤怒し、支那と訣別し、満州の再興を誓った。翌々年には皇帝の座に就き、日本を訪れた際は東京駅で昭和天皇直々の歓迎も受けた。貞明皇后の慈母のごとく温かいもてなしに感激したともいう。
しかし文化の違いは歴然であった。例えば、召使いを片方が死ぬまで喧嘩させて、楽しむわけでもなく、少しの暇つぶしになったかなという程度。日本の統治の仕方と余りに違いすぎる。
日本としては、アメリカが全般的に移民禁止してから、有り余る人口を満州に送り込むことで解消したいという意図は確かにあり、強引さも感じられる。ソ連との国境に送った農業青年開拓団は防衛のための民兵という意味合いがあった。溥儀に任せる訳にもいかず、政治の主導権は関東軍が半分以上は握っていた。
要職の多くは日本内地人が登用されていた(内面指導)反面、台湾人や満州人からの採用もあった。例えば台湾人の謝介石は外交部総長に就任し、のちに満州国籍を取得した。裁判官や検察官などは日本内地人以外の民族から任用された。制度上、立法院はあったが、選挙は一度も行われなかった。
満州がただの領有論ではなく、独立論の上に運営されたのは、石原莞爾らによって現地満州人の政治能力が評価されていたことにもよる。
建国時、東北行政委員会が満州国建国を宣言し、満州国協和党(後日協和会に変更)が結成された。日本人や現地人が構成員となっており、これがただひとつの政党となる。建国の理想を護持し政府を監視すること、近い将来、関東軍がこれに主権を譲り治安維持に専念することが期待されたが、支那事変を期に、次第に関東軍や政治行政と一体化する。
明治維新以来の近代化への情熱と技術を受けて、日本はもとよりアジア一速い特急列車「あじあ号」を走らせ、水洗便所など上下水道の普及、大きなダム建設,大豆の一大生産地樹立、モンゴル系遊牧民族の生活圏である草原の保護など、豊かな国家、夢がつまった国家建設が進められていた。
超特急「あじあ号」
周辺国からの移住者は後を断たず、毎年100〜150万人ずつ、人口は増えていった。
開拓団の総勢は22万人ほど。内地からの日本人の人口比率は2%前後で推移していた。
満州統治にあたり、日本は産業開発5カ年計画を策定し、48億円を投じた。
基本として掲げられた理想は次の3つであった。
建国の精神は、東洋古来の王道主義による民族協和の理想郷を作り上げることであり、軍閥や官吏の腐敗を防ぎ、多くの人が餘慶(よけい)を受けられるようにする。
満州国を承認した国々に対し、門戸開放、機会均等の精神で広く資本を求め、諸国の技術経験を有効に利用する。
自給自足を目指す。
もし、支那事変が起こらず、何代も平和が続いたら、日本の文化のいいところが浸透し、「五族共和」が成っていたのかなと思いもするし、そう願う近頃です。大陸国家と海洋国家は成り立ちが違うから、それは後世から見たら困難な道を選んだものです。
参考Web:Wikipedia(フリー百科事典)・・・・・・・・・
ブログ「かつて日本は美しかった」から「満州史」
国際派日本人養成講座・・・・ ・・・・・・・・
あまり表には出てこないお話ですが。
副総理兼財務大臣、金融担当大臣の麻生さんがこういうことを話されていました。さすがの麻生さん。
16・04・21(木)
為公会の例会挨拶の要旨から
● 熊本を中心に大分など九州地方では地震が続いており、避難先での生活の長期化も懸念されている。いろんな形での支援も行われているが、政府としては引き続ききちんと対応していかねばならない。政治家が現場に足を運んで行うことは、そこで調整のつかない事柄について責任を取り実行することだ。分かったような顔をして余計なことは言わないこと。ぜひその点だけはよろしくお願い申し上げる。
● 一昨日(火)、「為公会と語る夕べ」を開催させていただいた。松本(純)実行委員長を始め大勢の方々にお力添えをいただいた。震災対応の為、河野(太郎)大臣等は欠席となったが、無事終えることができた。(懇談が始まる前に)「熊本がんばろう!」と皆で(唱和)できたことは良かったと思う。また、会場で義援金を募らせていただいたが、お陰様で約55万8000円が集まった。熊本に所縁のある方を含めいろんな方の話も伺うことができ、これも本当に良かったと思う。
『現場で調整のつかない事柄について政治家が責任を取り実行すること』とは。
例会に出席していた大隈和英氏がfacebookに詳細を載せていました。
衆議院議員
為公会所属
おおくま 和英さんのfacebookから
【切所の心得】この木曜日の為公会定例会で、麻生太郎会長が全員に訓示された。「とにかく政治家は現場へ行って自分の目で確かめて来い。福岡では九州財務局が堅牢な建物を被災者に開放した。支援物資の集積場に、移転したばかりの青果市場跡地を転用した。大量に出る被災地のがれきやゴミは、ゴミ収集車を派遣して全部福岡で面倒見ることとした。こんなことは報道されない。そして、必ず現場では「ここは県の管轄、〇〇省の管轄だ」と物事が停滞する。その時に、現場に行った政治家が「全部自分が責任とる。その通り進めてもらって構わない」と現場を前に進める務めを果たせ。わかったような余計なことは一切言うな。それが俺たち政治家の務めだ。」と概ねこのようなことを我々に訓示された。
思わず電気が走り、武者震いをした。危機に際して国会議員の務め、有権者から付託された大きな役割、その真骨頂を叩き込まれる思いです。今、被災地の皆さんは必死に頑張っておられる。我々も頑張らねば。
福岡や広島などで生活ごみ収集を引き受けているというニュースとこのことはきっと関わっているのでしょう。21日の時点で、福岡市に続き、北九州や大分市が処理の一部受け入れを表明し、福岡市、北九州市、広島市、神戸市、京都市の合わせて5つの自治体が清掃職員と収集車を派遣することを決定したそうです。なんて素早い対応。トップが責任を一手に引き受けることはもちろんですが、それぞれの判断と連携なくしては出来ません。
一人一人出来る範囲で踏ん張りましょう。エイエイオー。
現場を前に進める務めを果たせ。
第一次ノモンハン事件で捜索隊(偵察任務のほか攻撃任務も行う)の東中佐ら19名は敵に包囲され、突撃攻撃を試みる。部隊の飯島少尉は戦車に飛び乗り、乗員を刺殺、次の瞬間に胸に弾が貫通し、もはやこれまでと敵戦車上で割腹した。東中佐は日本刀を持って突撃し、榴弾に倒れた(池田軍医中尉の目撃談)。こういった行為は戦後論調ではバカな突撃、精神主義といわれそうだが、これでソ連軍はビビッて200メートルも退却してしまった。これがなければ目撃した池田軍医ほか負傷兵の命運も尽きていたのかもしれない。
日本軍の白兵戦はソ・モ軍にとっては恐怖であったのと、日本兵の銃剣術によってバタバタやられたので、銃剣術の有効性を認識したようだ。ソ連はノモンハン戦後に銃剣術を取り入れ、対ドイツ戦で使い効果をあげている。
東中佐のことは外蒙古軍(モンゴル軍)の間でも知られていて「太陽の先生(ナラン・バクシ)」と言われていた。日本兵捕虜から聞いたのだと思う。当時、モンゴルは日本のことをナラン・オルシス(太陽の国)と呼んでいた。モンゴル人が日本をどう思っていたかを垣間見ることができる。
1990年、ノモンハンの戦場の慰霊に東中佐の三女の方がおり、同行していた言語学者の田中克彦氏がモンゴル国軍の国境哨所長に「あの人がアズマ中佐の娘さんです」と言ったところ、所長は東中佐の娘さんを誘って馬に乗せ、草原を散歩していった。
ブログ「かつて日本は美しかった」の [満州史]より
(いくらか文体を変えています)
.。*゚+.*.。ノモンハン事件(ソ連ではハルハ川事件、モンゴルではハルハ川戦争) ゚+..。*゚+
満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争。数で大きく上回るソ連とモンゴルの連合軍に対し、関東軍(日本陸軍)と満州国軍は互角に戦う。空中戦は日本に軍配が上がる。8月の惨敗。9月に入ってからの攻勢と大規模な反撃の準備。9月15日に停戦が成立した後すぐ、17日にソ連軍がポーランドに侵攻したことを知る。東の憂いがなくなったソ連は西へ力を傾注することができたのだ。「負けたと思ったほうが負け」、諜報戦に敗北した。停戦交渉に関わった陸軍駐在武官・土井昭夫大佐は「こんなことならもう2、3日粘っていれば・・・まんまと騙された感が強い」と話したという。
結局ソ連に押し込まれた形で敗戦、国境線画定となり領土防衛という戦いの目的を達成することはできなかった。第一次ノモンハン事件は、1939年5月11日から31日まで。
針葉樹と桜の調査のため、訪れた。
蒲生や屋久島を中心に。
1月に大噴火したばかりの桜島の貴重な写真も数点あり。
高名な植物学者である牧野宮太郎氏や、旧制加治木中教諭であり、のちに京都大学講師となった植物学者田代善太郎氏と親交を深める。
また、同行した田代さんや屋久島の青年達にウィルソンは屋久島の将来を託す、
「色んな国を旅してきたが、この森ほど素晴らしい森はなかった。この森を守ってほしい」。
その後の田代さんの活動は、屋久島の国立公園としての登録や現在に至る世界自然遺産登録に大きな影響を与えた。
カンヒザクラ(寒緋桜)
「この愛らしさを表現する言葉は思い付かない」
「下向きに咲く様子はまるで釣り鐘のようだ」
中国、台湾、石垣島に自生。
石垣島では、冬を告げる花。早咲きの桜の園芸種の親となる。
ミヤマキリシマの群生地に感嘆する。
「My princess」
ちなみに、私が訪れた日は写真展の最終日だったのですが、展示自体は来週の日曜日(6日)まで続けられて引き続きいつでも観覧することができるそうです。
(展示場所)宝山ホール4階 化石展示室
(開館時間)9:00〜17:00
【答えは解答欄のところにあります】
【問題1】有名な問題ですね
あるクレタ人が、
「全てのクレタ人はうそつきである」と言った。
これはどこかおかしいか否か?どちらも内包するか?
合わせて、その結論が正しいことを順序立てて説明してください。
【問題2】こちらも有名な問題とのこと
あるところに、うそつき村と正直村があります。
あなたは、どちらかの村にたどり着きました。
どちらの村なのかは分かりません。
村人になんと質問すれば、あなたはその村がどちらの村なのかが分かるでしょうか?
ーその他の前提ー
※質問した相手はその村の住民とします。通りすがりの人ではありません。
※彼らはYesかNoでしか回答しません。
例えば「ここは正直村か?」と問えば、どちらの村の住民も「Yes」と答えます。
「ここはうそつき村?」と尋ねると、両者とも「No」となります。
矛盾のない答えはいくつかあります
【問題3】
前提を変えてみましょう。
実際の生活では、正直者ばかりが集まる村も、うそつきばかりが集まる村もありません。
また、人間という生き物は、正直でもあるし、嘘を付くこともあるのです。
気まぐれというのとは少し違う。複雑な生き物といいましょうか。
その「人間」に、【解答2】で挙げた問いかけと同じ内容で順番に投げかけたら「正直者」や「うそつき」の受け答えと違いは出てくるのでしょうか?
1:「あなたは正直者であるし、うそつきでもあるのですか?」
2:天気のいい日に「いいお天気ですね」
前提によって、導かれる答えは変わってきました。これでは、【解答2】で導き出された答えは実生活には、活かされません。
この世は、残念ながら正直者ばかりの村は存在しないし、嘘つきばかりの村もありません。複雑故に魅力的なこの世界。
例えば自分の予想どおりに事が運ばないことがあっても、すぐ感情的になって悲観して決めつけないで、慌てず色々な視点を持つようにすれば、そうすればもっと前向きで充実した毎日を送れるのかもしれません。人を見る目が確かになることも期待できます。
ちなみに私が好きな言葉は「さて」ですね。困りきった時に、さて、と呟くと、ちょっと視野が広がります。
「さて、ワトソン君。この煙草の吸い殻は、僕がまとめた論文によれば、何てことなくどの銘柄かは分かるのだよ」
]]>
沖縄は沖縄戦以後そのまま米軍政下に置かれたものの、終戦後27年という短期間で、平和裡に本土復帰を果たしました。
伏線となった昭和天皇の意向が米国の公文書として残されています。「利己心」という記述が度々物議を醸していますが、これは天皇の真意を測り兼ねて、「疑いなく利己心あり」と決めつけてしまったのでしょう。実際は両国の状況を考慮した深い洞察力からくるもので、のちの講和条約米国全権大使ダレスを「以前の国際法には見られない表現だ」と感嘆させました。訳する時も痛感しましたが、我田引水にならないようにするのは、中々に難しいものです。そして、分かり切っていることを説明することも難しい。
1947年9月19日。
宮内府御用掛の寺崎英成が、日本橋三井ビルの3階までシーボルドGHQ政治顧問兼外交局長を訪ねてきた。その目的は、琉球諸島の将来に関する昭和天皇の意向を伝えることにあった。
「天皇メッセージ」と呼ばれるその文書は、使者の訪問を受けたウィリアム・J・シーボルドの国務省への報告書と、付随のマッカーサー宛の会談メモからなる。30日には国務省極東局へと届けられた。
【米国国立公文書館保管報告書】
クリックで原寸大コピーが表示されます(PDF文書)【資料コード:0000017550】
【9月22日にまとめられた国務省への報告】(とその和訳)
UNITED STATES POLITICAL ADVISER
FOR JAPAN
Tokyo, September 22,1947.
Subject: Emperor of Japan’s Opinion Concerning the Future of the Ryukyu Islands.
The Honorable
The Secretary of State,
Washington.
Sir:
I have the honor to enclose copy of a self-explanatory memorandum for General MacArthur, September 20, 1947, containing the gist of a conversation with Mr. Hidenari Terasaki, an adviser to the Emperor, who called at this Office at his own request.
It will be noted that the Emperor of Japan hopes that the United States will continue the military occupation of Okinawa and other islands of the Ryukyus, a hope which undoubtedly is largely based upon self-interest. The Emperor also envisages a continuation of United States military occupation of these islands through the medium of a long-term lease. In his opinion,the Japanese people would thereby be convinced that the United States has no ulterior motives and would welcome United States occupation for military purposes.
Respectfully yours,
W. J. Sebald
Counselor of Mission
1947年9月22日 東京
主題:琉球諸島の未来にかかわる日本の天皇の見解
米国政府国務長官閣下
拝啓
私は、1947年9月20日にマッカーサー元帥に宛ててしたためた、御覧の通りの覚書のコピーを同封することを光栄とするものです、要請の上、当事務所まで訪ねてきた天皇の御用掛の寺崎英成氏との会話の要旨が含まれております。
沖縄及びその他の琉球諸島への軍事占領をアメリカが継続するよう日本の天皇が希望していることが記されており、疑いなく利己心に大きく基づく希望です。天皇はまた米軍が行うそれらの島々の軍事占領は長期の租借という手段を通して継続していくことを思い描いています。天皇の見解では、それによって日本国民は米国には隠れた動機が何もないと納得し、米国の軍事目的による占領を歓迎するだろうとのことです。
敬具
任務参事官 W. J. シーボルド
【同封の9月20日にマッカーサー元帥宛に記した会談覚書のコピー】(とその和訳)
GENERAL HEADQUARTERS
SUPREME COMMANDER FOR THE ALLIED POWERS
Diplomatic Section
20 September 1947
MEMORANDUM FOR : General MacArthur
Mr. Hidenari Terasaki, an adviser to the Emperor, called by appointment for the purpose of conveying to me the Emperor's ideas concerning the future of Okinawa.
Mr. Terasaki stated that the Emperor hopes that the United States will continue the military occupation of Okinawa and other islands of the Ryukyus. In the Emperor's opinion, such occupation would benefit the United States and also provide protection for Japan. The Emperor feels that such a move would meet with widespread approval among the Japanese people who fear not only the menace of Russia, but after the Occupation has ended, the growth of rightist and leftist groups which might give rise to an "incident" which Russia could use as a basis for interfering internally in Japan.
The Emperor further feels that United States military occupation of Okinawa(and such other islands as may be required) should be based upon the fiction of a long-term lease -- 25 to 50 years or more -- with sovereignty retained in Japan. According to the Emperor, this method of occupation would convince the Japanese people that the United States has no permanent designs on the Ryukyu Islands, and other nations, particularly Soviet Russia and China,would thereby be estopped from demanding similar rights.
As to procedure, Mr. Terasaki felt that the acquisition of "military base rights" (of Okinawa and other islands in the Ryukyus) should be by bilateral treaty between the United States and Japan rather than form part of the Allied peace treaty with Japan. The latter method, according to Mr. Terasaki, would savor too much of a dictated peace and might in the future endanger the sympathetic understanding of the Japanese people.
W. J. Sebald
1947年9月20日
マッカーサー元帥宛ての覚書
天皇の御用掛の寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する天皇の意向を伝える為に、約束のうえ訪ねてきました。
寺崎氏は、沖縄とその他の琉球諸島を米国が軍事占領し続けることを天皇は希望していると述べました。天皇の見解では、そのような占領はアメリカへ利益をもたらし、また日本を保護するだろうとのことでした。ロシアの脅威だけでなく、占領が終了した時右翼や左翼の団体の伸張がいかにも「偶発的な事件」を起こして、ロシアがそれを日本への内政干渉の根拠に用いることをも恐れている日本国民から、この動きは広く支持されると天皇は感じています。
天皇は、米国の沖縄(及び必要とされる可能性のある他の諸島)に対する軍事占領は、日本に主権を残して25年から50年又はそれ以上の長期租借という擬制に基づくべきだと大いに感じています。天皇によれば、この占領方式は琉球諸島に対する恒久的な企てをアメリカは持っていないと日本国民に納得させ、それによってソビエトロシアや中国をはじめとする他の諸国が類似の権利を要求することを封じるだろうとのことです。
手順に関して寺崎氏は、沖縄とその他の琉球諸島の「軍事基地権」は日米相互条約によって獲得するべきだ、連合国と日本との平和条約に組み込まれてよりもと感じていました。寺崎氏によれば、後者の方法は押し付けられた講和という感が強いだろうし、将来、日本国民の好意的な理解を危うくする恐れがあるとのことでした。
W.J.シーボルド
2009年に終了したバラエティ番組に、印象深い話があります。
私は一時期、この話にとてもとても支えられました。もちろん、今もです。
以下はその書き起こしと、関連資料とになります。
(バン1台に乗って、世界を旅する恋愛バラエティ番組「あいのり」の一場面。
基本は男性4名、女性3名の若者7人連れ。
今回は台湾へやって来ました。周りを見渡しているとー。)
”こんにちはー”
”こんにちは”(個々答えて)
”日本の方ですか?”
1人のおばあさんが日本語で話しかけてきた。
(偶然会ったおばあさん。小柄で物腰の柔らかい。)
実はこれまでも…
たくさんの日本語をしゃべる台湾の方と出会ってきた。
”日本の方なんですか?”
”いいえ、台湾人です”
”台湾の方で”
”はいはい。
私は李という者で、日本の名前は樺島です。
日本人大好きです。
今でも心の中では、日本人だと思っています”
自分のことを日本人だと思っているというおばあさん。
これは一体どういうことなのか。
(画面転換)
あいのり講座。
日本人大好き台湾の謎。
19世紀末、日本は日清戦争に勝利。
清の領土であった台湾の統治権を得た。
これ以降およそ50年間、台湾は日本の植民地となったのだ。
日本が採ったのは、同化政策。
つまり、台湾を完全に日本化しようとする政策である。
台湾人の名字も日本名に。
教育も日本語で行い、台湾人を日本人にしようとした。
さらに、生活のレベルを日本と同じにするため、様々なインフラを整備した。
台湾の南北を結ぶ縦断鉄道を建設。
広い道路を造り、上下水道を町中に整え、
大きな病院も作った。
それらは当時の日本よりも優れた設備だった。
当時、貧しさと戦っていた台湾の人たちの生活はどんどん改善されていった。
日本の採った同化政策が結果的に台湾を豊かにしたのだ。
「台湾写真帖」(大正5年4月5日 台湾日々新報社)より「阿里山運材列車」
「台湾鉄道旅行案内」(昭和10年10月30日 ジヤパン・ツーリスト・ビユロー台湾支部)より「阿里山駅に着いた列車」
「高雄州要覧」(昭和8年7月5日 高雄州)より「高雄市」
「台北」(昭和15年4月30日 台北市勧業課観光係)より「太平町通」
「台湾写真帖」(大正5年4月5日 台湾日々新報社)より「土木局」
「台北」(昭和15年4月30日 台北市勧業課観光係)より「帝大病院」
「台湾全島写真帖」(大正2年2月15日 平賀商店)より「台湾総督官邸」(現台北賓館)
烏山頭水庫(烏山頭ダム)
(おばあさんの周りにみんなで輪になって椅子に座り話に耳を傾ける。)
”日本のほうはね、台湾に来ていろいろ建設しましたよ。
みんな日本のおかげですよ。
日本の時は、日本の正月、迎えます。
玄関の前にね、門松を立てて”
”あぁ、今も”
”今も、ある?
そしてあの国幟(こくし)も掲げます”
(口々に)”へー”
そんな平和な台湾に、
激動の波が押し寄せる。
1945年、第2次世界大戦に敗れた日本は、再び台湾を今の中国へと返還(注1)。
しかし、当時の中国は2つに割れていた。
毛沢東率いる共産党と、蒋介石率いる国民党。
毛沢東の勢力に負けた蒋介石は、大陸中国を追われ、台湾を統治。
独立国を宣言して国連に加盟した。
遅れること26年、1971年に。
国連が大陸中国の加盟を承認し、アメリカや日本も賛成(注2)。
これに納得のいかない台湾は、国連から脱退。
この時以来台湾は国際的には中国の一地方として位置づけられてしまった。
しかし、その後台湾は、目覚ましい経済発展を遂げた。
その礎を築いたのは日本だと考えているため、台湾には親日的な人が多いのである。
(引き続き、皆でおばあさんの話に聞き入る。
戸惑ったりうなずいたりしながら。
丁寧な日本語で言葉を継いでいくおばあさん。)
”日本人に対する恨みは何もない?”
”ないです。
みんな日本慕っていますよ。
あの恨んでいないですよ”
”自分は日本人?それとも台湾人?中国人?どの国?”
”みんな今はね、中国人とは思わない、台湾人。
だけど、心の中ではまだ日本人みたいですよ…みたいに思っています。
みんな日本時代はもうとても、教育も受けて、よく教えてくれた。日本精神をね。
みなさん、日本精神わかる?
日本精神というのは義理堅い、真面目、勤勉であって。
台湾人は日本人よりも、日本精神を守っているそうです(笑)
日本を大事にしてください。私達の好きな日本をね。
そして日本と台湾の架け橋の新しい方になってください。
私はとても期待しています。
やっぱり日本人が好きだから…”
日本人以上に日本を大切にしている台湾の人たち。
日本が承認している世界の国は、
191カ国。
その中に台湾は入っていない…
(写真の転載元サイト)
烏山頭水庫:土木学会委員会サイト
他 :植鉄の旅
GoGoザウルス(台湾旅行案内etc.サイト)にある参考記事です:今も台湾に残る日本統治時代の建物と心
(注1)「返還」では決してない。台湾をめぐる情勢は複雑で、短いVTRにまとめることは難しい。日本降伏時の状況としては、国民党率いる中華民国が連合国の一員として占領統治を担う形を取っている。後年、「日華平和条約」により戦争状態は終結し、日本は台湾を放棄することが正式に確認された。どの国に譲渡するかは今に至るまで、明言されていない。
(注2)正確には、中国代表権を台湾(国民党)から大陸中国(中国共産党)へ移行するという形による国連常任理事国入りと、蒋介石の代表の国連からの追放である(アルバニア決議)。アメリカや日本は国連加盟は賛成するが、台湾の議席追放は反対という立場だった。
潜在主権という概念
沖縄・奄美・小笠原は先に潜在主権のみ日本の元に回復されていた。
講和条約の調印の場では、日本の主権回復と同時に、既に放棄した領土も含めて日本領の処遇が正式に再定義された。その内の米軍軍政下にあった島々はアメリカが施政を司ることが確認された。
その範囲は北緯29度以南の南西諸島(沖縄 (琉球諸島) と奄美群島(奄美本島を含めた南側))及び小笠原諸島となる。
日本に施政権はない。固より主権も日本は持つ事はできない。
それが国際的な常識であるところ、昭和天皇は「潜在主権」という今までない概念をいち早くアメリカに提唱していた。
そのことが後の本土復帰へと結び付いたと言われる。
ソ連や中国共産党などの脅威に囲まれる中、この時、沖縄の主権を強引に取り戻したとしても、独自の軍を持たない日本は守り切れなかっただろう。
アメリカがまず、沖縄を手放そうとしなかったのだから、施政権だけ日本へ移そうとしても敵わなかった。
昭和天皇が提唱された潜在主権について詳しく見てみたい。
もう一度、時間軸に沿って時をさかのぼろう。
終戦まもない1947年、9月。前年末からシベリア等抑留地からの引き揚げが始まっていた。
すでに連合軍が占領軍として日本へやって来た時から、沖縄・奄美・小笠原は米軍政下に置かれていた。
世界情勢は依然、予断を許さなかった。
日米共通の目的は、ソ連や国共内戦を制しつつある中国共産党が日本へ進駐する機会を与えないこと。米軍が撤退すれば過激な右翼左翼どちらかが事件を起こし、それを土台に内政干渉してくることを懸念していた。
昭和天皇は、講和条約は日米の二国間条約で締結することを望まれていた。
アメリカの沖縄占領は、日本に主権を残し長期租借という形で行うということ。今そこにある危機。戦後復興における日本の安全保障の危機から守るためであった。
米軍部の目指すものは軍事拠点を置く「戦略的な信託統治」。国連の安全保障理事会への毎年の報告と審議を受けることがどうしても必要となる。そうなればソ連が拒否権を発動することが予測される。
軍部内には、決して沖縄を他国の軍事基地として使わせてはならないという決意があった。
9月19日。
宮内府御用掛の寺崎英成は、昭和天皇の考えを携えて、GHQ政治顧問兼外交局長のウィリアム・シーボルドを日本橋三井ビルまで訪ねてきた。シーボルドにその意向を直接伝えるためだ。
「沖縄の将来は、日本に主権を保持したままアメリカが25年から50年、あるいはそれ以上の長期租借という擬制によって、軍事占領が行われる必要がある。このことによって、日本国民は米国に沖縄諸島での恒久的な企てが無いことを納得し、他国、特にソビエトや中国による同様の権利の要求を封ずることができるであろう。このような占領は米国の利益となるとともに日本に防衛力を提供することになる」
また、この会談の中で、寺崎氏は「軍事基地権」の取得手続きは、日本と連合国との平和条約の一部に含めるのではなく、むしろ米国と日本の二国間相互条約によるべきだと感じたという。前者の方式では、押しつけられた講和という色合いが強すぎて、近い将来日本国民の好意的理解を危うくする恐れがあった。
国と国民の安寧を守ることに日夜心を砕いてこられた昭和天皇。
この昭和天皇が提唱された方式を「潜在主権方式」という。日本に主権が潜在的にあることが前提の契約。
条約締結と同時に主権は日本の元に戻ることで、実質日本から連合国が租借する形となり、その上でアメリカが代表して沖縄を司ることを目標に据える。
サンフランシスコ講和条約(平和条約)
締結日:1951年9月8日
第三条
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)孀婦岩(そうふがん)の南の南方諸島(小笠原諸島、西之島及び火山列島を含む)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
「潜在主権は日本にあり」という文言は、講和会議の米国及び英国全権大使が9月5日に述べた演説の中に出てくる。この文言は各国間の遣り取りの中で何度も丁寧に確認されているのが見て取れる。
【サンフランシスコ講和条約 ダレス米国全権演説】1951年9月5日
(3条関連部分を抜粋)
第三条は、琉球諸島及び日本の南及び南東の諸島を取り扱っています。これらの諸島は、降伏以降合衆国の単独行政権の下にあります。若干の連合国は、合衆国主権のためにこれらの諸島に対する主権を日本が放棄することを本条約の規定とすることを力説しました。他の諸国は、これらの諸島は日本に完全に復帰せしめられるべきであると提議しました。連合国のこの意見の相違にも拘わらず、合衆国は、最善の方法は、合衆国を施政権者とする連合国信託統治制度の下にこれらの諸島を置くことを可能にし、日本に残存主権( residual sovereignty )を許すことであると感じました。
【サンフランシスコ講和条約 ケネス・ヤンガー英国全権演説】1951年9月5日
(3条関連部分を抜粋)
琉球及び小笠原諸島に関しては、この条約は、これらの島嶼を日本の主権の外においては居りません。この条約は、北緯二十九度以南の琉球諸島を引き続き米国政府の管轄下に置くこと、即ちこれらの琉球諸島の中、日本に最も近い部分は、日本の下に残して置くばかりではなく、日本の行政権の下に置いているのであります。
【サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説】1951年9月7日
奄美諸島、琉球諸島、小笠原諸島その他平和条約第3条によって国際連合の信託統治制度の下に置かるることあるべき北緯29度以南の諸島の主権が日本に残されるというアメリカ合衆国全権及び英国全権の前言を、私は国民の名において多大の喜をもって諒承するのであります。私は世界、とくにアジアの平和と安定がすみやかに確立され、これらの諸島が一日も早く日本の行政の下に戻ることを期待するものであります。
結果として、今に至るまで国連機構における手続きは行われず、沖縄が国連の信託統治領に置かれることはなかった。
長く要衝の地として、米軍の管理下に置かれた沖縄。歴代の首相はこの「潜在主権」を切り口に、アメリカへの沖縄返還要求を継続していった。
そして平和裡に、沖縄は日本の元へと帰ってきた。冷戦はまだ続く中、わずか20年で祖国復帰を実現させたことになる。
国とは何かという探究と合わせて、昭和天皇は実に優れた感覚を持つ統治者であらせられた。そのことを申し上げたくて、ここまで書かせていただきました。次回からは、その戦勝国側から取り戻すきっかけとなった意向の詳細など、資料の補足をしていけたらと思います。
*1946年1月26日、連合軍総司令部との覚書により、日本の小笠原諸島への施政権は停止された
*1946年2月に北緯30度以南の南西諸島は行政分離されて米軍の統治下に入った(トカラ列島は、講和条約締結に伴って一足早く日本へ復帰した(1952年2月10日))
*本土復帰の日*
施政権の日本への返還
奄美1953年12月25日
小笠原1968年 6月26日
沖縄1972年 5月15日
参考Web:Wikipedia(フリー百科事典)・・・・・・・・・・・・・
blog「農と島のありんくりん」・・・・・・・・・・・・
blog「沖縄対策本部」内記事・・・・・・・・・・・・・
『沖縄祖国復帰を実現に導いた昭和天皇の「潜在主権方式」のご提案』
blog「日本史ー今日子センセのワンポイント授業」内記事
『沖縄とサンフランシスコ平和条約』
人気記事5選
日本は終戦後、アメリカを主体とする連合軍に占領されました。
以下,再び主権を取り戻すまでを辿ってみます。
主権は施政権よりも先に喪失する
内政より対外的な面の主導を取り戻しにくい。
連合軍による直接統治は日本政府の反対により、なんとか断ることができた。
但し、北緯30度以南の南西諸島及び小笠原諸島は、この時から米軍政下に置かれるようになる。
本土は、施政つまり内政は、GHQ(極東軍総司令部)の指導の下でそのまま日本政府が行う形の間接占領統治方式で行われた。その一方、主権は殆ど失ったまま時は流れる。
日本は自衛隊発足まで長らく軍を持たず、対外向けの外交は、GHQを通して行うこととなる。
1951年9月8日 サンフランシスコ講和条約締結
アメリカを始めとする連合国諸国と日本との間に結ばれた平和条約
互いの全権大使が署名することで条約が結ばれたことになる
この条約を批准した連合国は日本国の主権を承認した
同日 日米安全保障条約締結
1952年4月28日 サンフランシスコ講和条約発効・主権回復及び国交回復
(「昭和27年条約第5号」として公布される)
調印・批准を行った多くの連合国と日本との間の「戦争状態」は、
この条約の発効をもって終結した
沖縄や奄美、小笠原諸島は、条約発効時から正式にアメリカの管理下に置かれることになる。これら島々の施政権はそれまでと同様米国が握る。本土復帰までは、時を待たなければならない。その道は険しいながら、この時、ある布石が打たれていた。
【補足:講和条約を結ばなかった国々との関係】
ソ連と幾つかの東欧諸国、中国(中国共産党)と台湾(中華民国)の二国、及びビルマ、インドネシアなどの国々は調印せず、あるいは会議へ招聘されなかったり、批准しなかったりであった。後年、個別に結んだ条約や合意によって戦争状態は終結することとなる。インドは参加こそしなかったものの、条約発効後、自主的に戦争状態の終結を宣言している。
台湾(中華民国)とは講和条約発効日に合わせて、日華平和条約を結ぶことができた。その後、日中国交回復(1972年)により、日本と台湾は国交断絶となる。
【補足2:「日華平和条約」締結の意義】
台北駐日経済文化代表処:台湾週報より(総統府 2009年4月28日)
リンクを貼っておきます。
何だか感動してしまったので。
民進党(民主進歩党)が躍進し、蔡英文氏が台湾総統となることが決まりました。これで馬英九率いる中国国民党が敗退した訳です。
総統に就任した当時の馬英九氏は当初中国寄りではなく、日本寄りでもなく、自分の国を愛し、「日華平和条約」の果たした重要な役割を理解しています。また、そこから今に繋がる台日双方の交流の活発さを喜びとしています。
しかし、惜しからんや。愛した国とは「台湾」ではなく、あくまで「中華民国」としての国でした。中華民国は、支那大陸統一という理想の下に建てられました。国民党が台湾に来たのは内戦の結果、おちのびてきたようなもの。中国共産党との内戦状態は李登輝総統が一方的に終結を宣言した1991年まで続きました(戒厳令体制解除)。それまでの共産党との長い戦いの歴史を見るに、台湾を守るという視点を欠いています。
その為、年月が経てばたやすく経済面から中国大陸寄りの政策に傾き、国民の支持を失ったのでしょう。
国も人も時の流れの一瞬のみに目を向けると、それ以上推し量ることができません。
対照的に、民進党が掲げているのは「台湾の主権独立」です。
台湾の統治は、日本政府から中国国民党(外省人主体)、そして戦前からの台湾人(内省人)の元へ還ったことになります。中国共産党の口をはさむ隙はなくなりました。日本が中国へ遠慮する理由も。今だ日本政府として公式に台湾を国家と認めていないのですから。
今ならば、これを機会に台湾との国交回復が成るのではないかと期待しています。合わせて独立するために必要な、中国以外との経済的な交流や発展の手助けをすることが必要です。
李登輝総裁はそれまでの建前であった、「中華民国は中国全土を代表する政府」から「現実外交」へシフトしたという側面もあります。日本を慕っていてくれることに感謝するだけでは駄目です。
長くなりました。
この日華平和条約にまつわる話の中で、降伏後に手放した領土を誰に譲渡するかを日本が言わなかった理由を問えば、当時の英国と米国の重要な理念と戦略によるものだったと述べています。複雑ゆえに、同意ある部分のみ講和会議では決めて、その他については、個々二国間条約で処理することとなったのです。
次回は、その互いの思惑が交叉する国際社会に置かれた日本の選んだ道について述べていきます。
______________________________________
(2)1945年8月17日 東久邇宮内閣が成立
鈴木貫太郎内閣の総辞職を受けて東久邇宮稔彦王を首班とする新内閣が17日に成立、内閣制度が始まって以来初の皇族内閣が誕生した。
新首相は軍の武装解除など終戦にかかわるさまざまな処理と占領軍を迎える役割を担う。外相は重光葵元外相が復任した。
57歳の東久邇宮稔彦王は久邇宮朝彦親王の九男として生まれ、1906年に東久邇宮家を創設した。陸軍大学校卒業後に明治天皇の皇女と結婚。20年から27年までフランスに留学し、帰国後は陸軍航空本部長などを歴任。
皇族の中でも自由主義的な思想を持っているとされ、41年の対米開戦には反対していたとされる。同年の近衛文麿内閣の総辞職後は首相候補にも名前が挙げられた。
しかし、昭和天皇は「軍が絶対的に平和保持の方針で進むというなら」よいが「皇族総理の際、万一(対米)戦争が起きると皇室が開戦の責任をとることとなるので良くない」として反対し、東条英機内閣が誕生した経緯があった。
一方、日本の軍政下にあったインドネシアは17日、独立宣言を出した。
◇ ◇
「昭和天皇独白録」によると、41年10月の時点で対米開戦をめぐる皇族の意見は、高松宮は「戦争論者の一人」、「東久邇宮、梨本宮、賀陽宮は平和論者だった」。
______________________________________
転載元:南日本新聞 2015年8月17日掲載分
※東久邇宮=ひがしくにのみや
稔彦王 =なるひこおう
賀陽宮 =かやのみや
※葵=あおい、まもる
Key word:国の成り立ち
去年は戦後70年ということで歴史を振り返る多くの企画がありました。
こちらはそのひとつ、地元の新聞の連載記事となります。少しずつ転載という形でご紹介していけたらと考えています。
『再現日録』終戦からの31日間
______________________________________
70年前の夏、ポツダム宣言受諾とともに日本政府は占領軍受け入れを進めるが、満州や樺太などで悲劇はなお続いた。虚脱と混乱、そして希望の芽吹きが織りなす8月16日からの31日間を現代の記事スタイルで再現する。
______________________________________
(1)1945年8月16日 ソ連 北海道占領要求
ソ連のスターリン首相(共産党書記長)は16日、日本占領政策をめぐり、トルーマン米大統領に対して「日本軍がソ連軍に降伏すべき地域の中に北海道の北部を加えること」を要求した。これは北海道の北半分をソ連が占領統治する提案で、境界線は「東は釧路、西は留萌に至る線とし、釧路と留萌の両市は北半分に属する」としている。
トルーマン大統領が連合国各国に送った「一般命令第1号」は、日本軍が降伏すべき相手を以下のように定めている。
(1)中国、台湾および北緯16度以北のインドシナは蒋介石(中華民国主席)軍(2)満州、北緯38度以北の朝鮮、樺太はソ連軍(3)北緯16度以南のインドシナ、ビルマからソロモン諸島に至る地域は英軍かオーストラリア軍(4)日本本土、フィリピン、北緯38度以南の朝鮮においてはマッカーサー元帥率いる米軍。
スターリン首相は(2)について同意しつつ、北海道北部と「千島列島全部」を加えるよう求めた。この日、日本では特攻隊の創設者とされる大西滝治郎海軍中将が官舎で自決した。
◇ ◇
スターリン提案をトルーマンが受け入れていれば、北海道北部は戦後,共産圏に組み入れられた可能性もある。しかし、トルーマンは約2週間、スターリンと電文で応酬した末、北海道をめぐる要求を退けた。
______________________________________
転載元:南日本新聞 2015年8月16日掲載分
※留萌=るもい
※サイト内参考記事「歴史探訪〜ヤルタ密約〜」
Key word:国の成り立ち
]]>主権と施政権の関係
携帯や車に例えると、分かりやすい。
所有者が「主権を持つ者」で、実際の使用者が「施政権を行使している者」となる。
第2次大戦終戦時においての東アジア及び東南アジアの状況を見てみますと、日本の勢力図と重なります。
植民地 …主権なし。施政権も原則なし。
台湾(日清戦争以後)
併合 …国の一部となる。
韓国(日韓併合 (1910年) )
委任統治 …委任当初は主権、施政権ともなし。
民族自決の原則。段階的に原住民へ譲渡することが目的となっている。
独立に向けて政治的社会的訓練を受ける期間。
北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦(第1次大戦後に連合国としてドイツ領土だったこれらの地域を委任統治することとなった (南洋諸島) )
被保護国 …部分的な主権保持。外交面の保護を受ける。施政権はある。
満州国(元首は清の最後の皇帝溥儀 (1932年建国) )
占領地 …自国の領土が武力により、他国の支配下に置かれること。
まだ処遇が決まっていない状態。
タイを除く東南アジア各国(フィリピンは1944年にアメリカが再奪回する)
中国大陸の一部(例:北京占領 (1937年7月末に日本軍占領。その後、占領下のまま、王克敏、王揖唐等による中華民国臨時政府が誕生する) )
主権は、原則として強者が握る。戦争に勝てば勝者の意志に沿う。
1945年8月、日本はいくつかの条件を呑んで連合国に降伏した。
参考blog:『世界飛び地領土研究会』委任統治と信託統治領
]]>
国と一言で言いましても、なかなか説明は難しいです。
どうやって国は生まれ、存続するのでしょうか。
「人が信念と共に歩んでいくように、国にも建国の理想というものがある。」
こういう言葉もあります。
ここで、国が国と呼ばれるために必要な要素を整理してみます。
理想を実現するために成立すべきものは。
◯主権
独自の軍(防衛)
外交権
通貨発行権
◯施政権
行政、立法、司法の三権を行使する権限
ここでいう主権とは、民と領土を統治する統治権、及び他国からの干渉に左右されずに独自の意思決定を行う国家主権のこと。
・・・
「シーランド君ですよ」
来ました、シーランド君。
小さな小さな国(ミクロネーション)として数えられる国のひとつです。
どれくらい小さいかというと、大きな二本の柱に支えられた海上の要塞がすべての領土、国民は2006年の時点で計4名、王様と一名の兵士からなる君主制です。ふむふむ、独立までの経緯が知りたいですね。
【The struggle for liberty】
場所はイギリスの東海岸から6海里離れた公海上。
第2次世界大戦中に、イギリス軍が本土上空防衛のため海上に建設したマンセル要塞のひとつが舞台となります。
これら要塞群は戦後は軍の管理を離れ、放置されていました。
娯楽のひとつとして挙げられるラジオ。ヨーロッパでのラジオ放送は国営放送が独占していました。民営には放送免許が認可されなかったのです。これに反発した人々が北海上のあちこちで錨を下ろし、船舶から沿岸諸国に向けて放送を行うようになりました。1960年代に入ってから見られるようになったこの送信形式による放送は、海賊局、海賊放送と呼ばれています。
元イギリス陸軍少佐のパディ・ロイ・ベーツもそのひとり。
漁師をしていましたが、要塞のひとつを不法占拠していた海賊放送のスタッフを追い出し、その後釜に座りました。最終的に移った要塞フォート・ラフス (Fort Roughs/U1) が建国の地となります。海洋放送法の施行でマンセル要塞からのラジオ放送が禁止されたのを機にラフス・タワーの独立を宣言したのです。
君主ベーツ大公が治めるシーランド公国が生まれた瞬間です。1967年9月2日のことでした。
【経済や他国との交流など】
シーランド・ドルという独自通貨があります。米ドルと等価の固定相場制です。
主要産業は、切手やコインの発行と一番耳目を引くのは爵位の販売ですね。カジノを開こうとした時もあったみたいです。
海外との交通手段はモーターボートやヘリコプター。ヘリポートあり。
サッカーがさかんです。シーランド代表チームがなんとありまして、主に非承認国家が参加する国際団体NF-Boardに準会員として参加しています。
【国の標語は「E mare libertas」 (海からの自由)】
現在はロイ・ベーツ公亡きあと、息子のマイケル皇太子が後を引き継いで2代目シーランド公に即位しています。
何か緩急ある時は?
ベーツ公の友人が駆け馳せます。過去にはクーデターも撃退。
「えっへん、イギリスの野郎には負けないのですよ」
そう、あなたは立派な国ですね。敵いません。
シーランド公国公式HP
「赤ん坊まで急に2歳になって、お祝いにあずかるのでございました。」
「武士の娘」(ちくま文庫)より
晴れ渡る空の下、初日の出を拝んで清々しい力をもらいました。
おみくじに付いていた和歌は今年は短く。
鳥を 撃たんとするに 弓はなし
何かに臨もうとする時機をのがすな、準備を怠るな。
そう心得ました。
誰にとりましても幸多き年でありますように。
トルコでのタイトルは、「Ertuğrul 1890」。
この日土合作の物語は、紀伊半島沖で台風に遭遇したオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号から始まる。
映画で描かれたふたつの実話。その前にも、その後にも物語は続く。
こちら日本ではお正月にかけて公開中。トルコでは25日から公開予定。
久しぶりに映画館で鑑賞してきました。
音響の良さとこの風景。
どうしましょう。もう一回見に行きたくて、うずうずしています。
ちょうど去年の今頃にNHKのBSで放送されていた「山賊の娘ローニャ」です。
宮崎駿の息子さんの宮崎吾朗が監督を務めた、スウェーデンの児童文学作品を原作とするアニメです。
毎週、家族で楽しみに見ていて、特に最終回。ローニャの父、マッティスの真っ直ぐさに心打たれました。
DVDのジャケットにあるラフスケッチだけでも素敵です。
(ジャケットイラスト)近藤勝也
このマッティス。後からふと調べてみましたら、人物紹介のところに「直情径行」とありました。これは藤原道長と同じ言われようです。
ブログで時期を同じくして道長とその和歌を追っていた時から、この両者は似ているなと感じていたものですから、無性に嬉しくなりました。
直情径行とは、思ったことをそのまま言うこと。よく泣き、よく怒る。
よく笑ったり。まさにマッティスそのものです。言い得て妙です。
そして、それは道長にも当てはまるということで。
道長の評には、将帥の器あり、というのもありました。
自然と人を惹き付ける人物が中心にいる物語が面白くない訳がありません。
個人的には吾朗さんの作品ではとび抜けて好きです。
嵐の晩に生まれたわんぱく娘ローニャが目一杯森を走り抜け、季節が一回りするたび、すくすく育っていく。
脇を彩るは赤ん坊から知っている山賊達と、森に住まう不思議な住民達。それから、なんの因果か隣同士で生活することになってしまうライバルの山賊一家。
それを見事にアニメーションにしています。大人陣にちょっと手厳しいあらすじも、いろんな世代が楽しめる要素になっていると思います。家族そろって大いに楽しめます。
原作者は他には「長くつ下のピッピ」を書いた人と言えばお分かりでしょうか。
和訳本も発売されています。文字は大きめで読みやすいです。
山賊のむすめローニャ【岩波少年文庫】
アストリッド・リンドグレーン(著)
大塚勇三(翻訳)
イロン・ヴィークランド(イラスト)
再放送の願いも込めてのご紹介でした。
.。*゚+.*.。 追記 ゚+..。*゚+
ニコニコ動画で1話と2話の無料配信中です♪
山賊の娘ローニャ 第1話&第2話「初回拡大スペシャル〜かみなりの夜の子〜」
国民党政府の外交官、高宋武が、蒋介石へは内緒で1938年7月に和平交渉の為に来日した際、「蒋介石は、日本との長期抗戦の構えがある」と断言できたのもこの年表を読めば納得できる。
日本政府としては、蒋介石の下野は和平の条件として譲れないという。それは頑なほどだった。
高宋武は「日本と戦える人物も、日本と講和できる人物も、蒋介石をおいて他にない」と反論する。
日本との和平交渉はいくつものルートが作られながら難渋する。その傍ら、高宋武は長年蒋介石の片腕でありながら、親日政権樹立へと心動かされる汪兆銘に説く、「民族の裏切りものとなるべきではない」。
12月に入り、汪兆銘は蒋介石へ「君は安易な道を行け、我は苦難の道を行く」との書簡を送り、重慶からハノイへ脱出した。以後は、単独で日本政府との交渉を進めた。
南京に親日政権を打ち立てたのは、その翌々年であった。
1937年、娘にこう問いかけた言葉が残されている。
「今、父が計画していることが成功すれば、中国の国民に幸せが訪れる。しかし失敗すれば、家族全体が末代までも人々から批判されるかもしない。お前はそれでもいいか」
この時、彼は蒋介石と袂を分つことを心に決めたに違いない。孫文の大アジア主義を継承する道を選んだ汪兆銘。日中の共存共栄こそ中国国民の幸せに至る道であると確信して。
日中和平の礎として。
高宋武と別ルートで茅野老に和平工作を依頼した、上海派遣軍司令官である松井石根(いわね)大将もその一人であった。彼の若い頃に川上操六陸軍大将の唱えた「日本軍の存在理由は東洋の平和確保にあり」という見識や、孫文の日中韓対等連携を指向する大アジア主義に共鳴して、自身も「大亜細亜主義」という日中が連携し欧米の侵略に対抗して平和裡な中国統一を掲げる考えを提唱していた。蒋介石とも長く親交があった。
1933年には日本国内で「大亜細亜協会」を設立し会長に就任した。この協会へは、組閣前の近衛文麿などが参加している。その根底にある、日本と国民党政府との協力維持という考えは、1937年の冬に総大将として南京に入城した際も何ら変わりはなかった。
翌年の11月には、第一次近衛文麿内閣が反共主義(抗日容共な国民党政府の否定)と汎アジア主義(東洋古来の精神文化と西洋近代の物質文化の融合による「新文化の創造」や東洋独自の道徳仁義による「東亜に於ける国際正義の確立」)を含む、「東亜新秩序建設」という理想を掲げている。
一方、コミンテルンである尾崎秀実(實)の狙う「東亜共同体」とは、日本と蒋介石政権が共倒れして、両国で共産主義革命が実現した後に成立するはずのソ連・日本・中国による「赤い東亜共同体」であった。
「終局的な平和」の為なら、国民を欺くことも日中戦争に駆り立てて共に「人柱」にすることも許されると信じて疑わないコミンテルンの忠実な使徒であった。第1次近衛内閣発足直前に「昭和研究会」の一員となってからは、「中央公論」などへの寄稿を続けた。新聞記者時代に培ったペンの力を知っていた。
一連の流れの中で私達は、共産思想の恐ろしさや狡さや抜け目のなさを知ることになろう。また、いったん撒かれた対立の種は取り除くことが困難なことも。
ともかく、アヘン戦争の一報を聞いた時から日本は欧米の侵略へ対抗する術を絶えず考えていたのだと思う。一番の良策はやはり、日中が連携してアジアの繁栄を守る中にあるはずだ。その術はもう潰えてしまったのか。それとも、今も夢の一部として続いているのだろうか。
何故日華事変は長引いたのか。そこから学ぶことは多い。学んだことを活かして伝えたい。
大陸の風が吹く。私達が恋い願う風は海からの風だ。
蒋介石は後に松井大将の話になった時、「閣下には申し訳ないことをした。南京には大虐殺など無かった」と涙ぐんだそうである。と同時に支那事変当時、党の兵士に過酷な民衆からの略奪や犠牲を許したのも、当時の中国人としては何の自らを呵責することもない判断であった。
松井大将は南京入城の翌年には、役目は終わったと考え制服を脱ぎ帰国した。帰国後は南京と日本の土を混ぜた「興亜観音」を作り、毎日欠かさずお参りしていた。
終戦後には、南京大虐殺というありもしない組織的な事件の首謀者として、B級戦犯として処刑された。
南京占領に厳しい軍紀を持って臨み、入城後に略奪が数十件あったことさえ、日露戦争に比べて変わってしまったと嘆く尾張藩士の息子であった。
松井石根大将の辞世の句は、3句詠まれている。最後の句の「自他」は、日本人と中国人の暗喩であると推測されている。南京入城翌日の慰霊祭の際には、「支那人を馬鹿にせず、英米には強く正しく、支那には軟らかく接し英米依存を放棄させるよう」強い調子で訓示を与えたという。どこまでも、日中の強い連携と東洋の平和を願った人であった。
天地も人もうらみずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く
いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば
世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等に誠の心
参考Web:参考Web:国際派日本人養成講座^^^^^参考Web:国際派日本人養成講座^^^^^国際派日本人養
参考Web:国際派日本人養成講座^^^^^^^
汪兆銘工作はコミンテルンの陰謀か?
Wikipedia(フリー百科事典)^^^
文隆氏は米国留学経験があり、当時の世界情勢に明るく、祖国への思いも強かった。
ある日、思い切って尋ねた。「戦況悪化は著しいようですが、見通しはどうなのでしょうか」。文隆氏は即答した。「勝負はついた。誰かが止めなければいけないが、陛下以外にはいらっしゃらない」
当時は口にするのもはばかられる話題。18歳だった和田さんの質問に対し、諭すような口調だった。「日本は敵を知らず、防御することもせず、戦争に突入した。米国は日本を相当研究しているぞ」。諜報や情報収集力の重要性を切々と説いたという。
(8月15日の産経ニュースより一部抜粋)
敵を知り己を知れば百戦殆(あや)うからず。
己の中にも敵はいる。
何故、支那事変は長引いたのだろうか。
講和の機会はなかったのだろうか。
日本陸軍にとって、中国の共産化は最も避けたかった事態のひとつであった。ゆえに、平常においても蒙疆(もうきょう、内モンゴル中部)・満州への駐兵に固執した。皮肉にもこれが中国への進出を狙うアメリカとの対立を招いてしまう。その姿勢を変えなかったことは対米開戦のひとつの伏線となる。
満州国建国後の日本は引き続き軍を駐留するかたわら、満州国内での「五族協和」を謳う。
背後にある欧米の思惑と暗躍するコミンテルン。
日本は当初の目的を見失ってはいけない。すなわち支那や満州など中国大陸との共存共栄、あるいはロシア勢の満州以北への追い返し。
支那事変勃発後には、コミンテルンの尾崎秀実(實)(ほつみ)が関わったとされる日中和平分断工作や親日政権樹立の話がある。歴史上の人物が味方か敵か惑わせる。実は危なくこの話を信じるところだった。何といっても何年か前まで、毛沢東と蒋介石の区別もよくつかなかったのだから。
曖昧なところを曖昧なままで結論を急いではいけない。
関係者の人となりを見てみよう。
蒋介石の長年の片腕であった汪兆銘。共に親日派で、孫文の死後、協力して共産党勢力の排除にあたってきた。
思想的に公正な新聞を戦後に立ち上げた松本重治もいる。
一介の評論家である尾崎がその行動まで影響を与えることは適わないと思えてきた。
ネットで探ってみると、こんなまとめが見つかった。
鍵は、仲間割れとされた親日政権樹立ではなく、蒋介石が監禁された西安事件にあった。
簡潔明瞭なまとめなので、そのまま引用させてください(前後省略、年月など一部加筆しています)。
事件直前の状況 |
|
蒋介石 |
国民党指導者の蒋介石は国交内戦9年、ついに毛沢東を僻地延安に追い詰め、支那統一五分前という絶好の位置につけていた。
|
対日戦の利益 |
自分の国民党軍を損耗するので得はない。損するだけ。事実戦後の内戦再開で上海戦24万の損失を嘆いた。 |
日本 |
日本は蒋介石と反ソ反共で一致していたので、軍事顧問を送るなど協力していた。 |
ソ連警戒中。大陸の戦争に利益なし。 |
|
張学良 |
張学良は満洲の軍閥張作霖の継承者である。満洲で日本人を迫害し,協定侵犯を300件以上起こしたので少数の日本軍に反撃され(満洲事変)本土に追い出され、部下を連れて当時国民党蒋介石軍の配下になっていた。蒋介石は張学良に共産軍本拠地の総攻撃を命じていた。しかし張学良は蒋介石に内心反発し自分の軍閥軍を弱めようとしているのではないか、と疑っていたという。このためソ連や中共の工作にのせられた。張学良は元の勢力圏である満洲に帰りたかったので、何らかのソ連からの約束があった可能性がある。 |
日本を滅ぼせば満州を再度支配できると思った。 |
|
毛沢東 |
中共の毛沢東は、1927年の蒋介石の反共攻撃で敗北をつづけ辺境を逃げ回って延安に到着していた。彼はソ連の顧問団とともに飛行機でソ連に逃亡する準備を終えていたという。
|
蒋介石に追い詰められていたので、内戦が止めば息継ぎができる。 |
|
スターリン |
欧州ではヒトラーが台頭し、軍事力を強化していた。これを見たスターリンは、東西挟撃を恐れて、東部国境の反共勢力である日本と蒋介石を無力化することを考えた。それは両者の戦争であった。スターリンは反共の蒋介石を対日戦争に利用することを考えた。それは毛沢東は蒋介石と比べると田舎者であり、欧米の支援を取り付けるのは難しいと見たからである。
|
東部国境の反共の日本と蒋介石が戦えば、安心して西部のヒトラーに対応できる。 |
(写真)ウィルソン株(屋久島町2012年梅村直承撮影)
◇米ハーバード大保管 屋久島の作家の撮影写真を公開
英国人の植物学者、アーネスト・ヘンリー・ウィルソン(1876〜1930年)が来日した際に採取した植物の標本の写真が、採取から1世紀を経て日本で公開されている。鹿児島県・屋久島在住の作家、古居智子さんが、米ハーバード大が保管するウィルソンの資料を紹介する活動の一環で、現地で撮影したもの。サクラの淡いピンク色が確認できるなど、太平洋戦争の戦火や開発にさらされる前の草花をよみがえらせる貴重な資料だ。
ウィルソンは、屋久島で屋久杉の巨大な切り株を調査し、「ウィルソン株」の名前の由来となったことで知られる。珍しい植物を求めて旅するプラントハンターとして中国で調査した後、ハーバード大の依頼を受けて1914年と17年の2回来日した。1914年の来日時には当時整備されたばかりの鉄道網を使い、屋久島からサハリンまで日本を縦断したとされる。
古居さんは4年前からウィルソンの国内の足跡を調べ始め、今年7月にハーバード大の標本館を訪れた際、ウィルソンが日本で収集したとみられる標本157点を確認した。標本には全国各地の地名が記され、コヒガンザクラの花(1914年東京)、オオイタビの葉、タチテンノウメの葉と花(いずれも1917年小笠原)、フクギの葉(同年沖縄)などがあった。
ウィルソンは、日本のものも含め生涯で約1万6000点の標本と約7700枚の植物の写真を残したという。世界各地で進む樹木の伐採を心配していたといい、新聞のインタビューに「もし写真や標本で記録を残さなかったら、100年後にその多くは全て消えてなくなってしまうだろう」と話していた。
古居さんによると、ウィルソンが撮影したり標本にしたりした樹木には、戦中の空襲や戦後の開発で失われたものが多いという。古居さんは「ウィルソンが残した写真や標本から、日本のこれまでの100年、そしてこれからの100年を考えてほしい」と話す。
プラントハンターの歴史に詳しい国際日本文化研究センターの白幡洋三郎名誉教授は「ウィルソンは冒険家として知られていたが、標本からは研究者として植物と真摯(しんし)に向き合う姿勢が伝わってくる」と話す。
これらの標本の写真は、鹿児島市内で開かれている写真展「百年の記憶 ウィルソンの見た鹿児島の自然」で来年2月末まで公開される。【斎藤広子】
◇意義深い資料
国立科学博物館の岩科司・植物研究部長の話 標本の中でも、小笠原で採取された植物に、すでに絶滅したものが含まれていれば非常に貴重な資料になる。100年前の日本で樹木を中心にした写真も恐らくなく、100年間の樹木の成長を知るうえでも意義深い。
転載元:毎日新聞 2015年9月26日 ネット配信分
以下、米ハーバード大学標本館提供
(C) Harvard University
アーネスト・ヘンリー・ウィルソン
(写真補足)
左上:コヒガンザクラの花
(1914年3月に東京で採取)
右上:タチテンノウメ
(1917年4月に小笠原で採取)
左:フクギの葉
(1917年3月に沖縄で採取)
以前ご紹介した、英国学者アーネスト・ヘンリー・ウィルソンの写真展の案内です。
古居智子さんが南日本新聞に連載されていたエッセイにまつわる写真や、大正噴火後の桜島の様子も見られるそうです。植物学者の彼が風景写真を残すのは珍しいとのことでした。
場所は、鹿児島の西郷さんの銅像近くです。来年まで開催中とのことですので、お近くまで来られた際はぜひ訪ねてみてはいかがでしょうか。
(エッセイの何本かを転載させて頂いています。カテゴリーからどうぞ^ ^)ノ )
]]>写真展 「百年の記憶 ウィルソンの見たかごしまの自然」実施要項
1 趣旨
巨大な屋久杉の切株ウィルソン株を発見したウィルソンは桜島大正噴火の年から数度来日し,沖縄・小笠原からサハリンまでの植物を精力的に調査し,全国で約750枚,鹿児島で は約 120 枚(屋久島58枚を含む)の鮮明な写真を残している。ウィルソンの足跡にふれウィルソンの写真と同じ位置で撮った現在の写真を比較すると,鹿児島で起こった 100年間 の自然や人の暮らしの変化が見えてくる。古い写真から今までにおこった出来事を読み解く機会を提供する。
2 期間
平成 27 年9月5日(土)~平成28年2月28日(日)3 主催
鹿児島県立博物館 特別協力 古居智子(作家)4 共催・後援
南日本新聞社,KTS鹿児島テレビ,公益財団法人 カメイ教育振興財団,公益財団法人屋久島環境文化財団,ハーバード大学アーノルド樹木園,姶良市,鹿児島市,霧島市,薩摩川内市,屋久島町および各教育委員会,仙巌園5 場所
宝山ホール4階化石展示室
6 内容
(1) ウィルソンの人物像・経歴、ハーバード大学アーノルド樹木園長からのメッセージ等
(2) 写真撮影地位置図
(3) 写真と解説(撮影にいたる足跡と植物解説)特定された撮影地点 43・ 鹿児島新旧写真 34点×2 城山10、蒲生7,狭野神社2,霧島(1914 年分)3,(1918 年分)2,藤川天神2,新田神社2,桜島4,仙巌園2ほか ・ 屋久島新旧写真 8点×27 関連事業
(1) 屋久島研究講座・博物館講演会(屋久島環境文化財団と共同開催)「ウィルソンの写真が語る人と自然」
古居 智子 (作家)・寺田 仁志 (植物担当学芸主事)
日時・会場 10月17日(土)14:00~ 県立図書館大研修室
(2) 科学教室「殿様が愛した庭園探訪」
9月20日(日)10:00~
島津光久がつくり,ウィルソンも写真を撮った仙厳園の植物・景観について現地で解説する。(3) 科学教室「城山植物ウオッチング」
11月15日(日)10:00~
ウィルソンが歩き撮影した城山周辺の植物・景観について現地で解説する。(4)ミュージアムトーク
14:00~
平成27年9月5日(土),10 月17日(土),11月15日(日),12月26日(土), 平成28年1月9日(土),2月21日(日)(5) ドキュメンタリー映像製作 KTS鹿児島テレビ 展示風景,自然観察会,講演会風景を動画撮影し,会場だけでなく,出生地及び仕事場であったイギリス,米国だけでなく,調査地でもあった中国,香港および鹿児島県内で配信する。
8 その他
・ 観覧料無料
・ 展示写真は期間途中で入れ替える
・ 写真提供 ハーバード大学アーノルド樹木園,川越保光,日下田紀三
ヤルタ会談で密かに結ばれた協定がある。
英米とソ連との間に交わされたいわゆるヤルタ密約である。
ヤルタ協定(密約)
締結日:1945年2月11日
三大国すなわち米英ソは、ドイツが降伏し、且つヨーロッパに於ける戦争が終結したる後2ヶ月又は3ヶ月を経て、ソ連が次の条件により連合国に与して対日戦争に参加すべきことを協定するものとする。
一.外蒙古(蒙古人民共和国)の現状維持
二.日露戦争に依り侵害されたロシア国の旧権利の回復
(甲)樺太の南部と隣接する一切の島嶼のソ連への返還
(乙)大連商港でのソ連の優先的利益の擁護と国際化、又、旅順口の租借権はソ連の海軍基地として回復されること
(丙)東清鉄道及び大連を出口とする南満州鉄道は、中「ソ」合弁会社を設立して共同運営されること。但し、ソ連の優先的利益は保障。中華民国は満州に於ける完全な主権を保有すること
三.千島列島のソ連への引き渡し
三大国の首班は、ソ連のこれらの要求が日本の敗北の後に確実に満足せしめらるべきことを協定する。
ソ連は、中華民国を日本より解放する目的を以て自国の軍を用いて援助する為に、ソ連・中華民国間友好同盟条約を中華民国の政府と締結する用意があることを表明する。
(いくらか文体を変えています)
日ソ中立条約を盾に、参戦するならと譲らないソ連。
この時スターリンはドイツ分割占領方式にならって、日本占領についても日本の東半分、少なくとも北海道の占領を認めてほしいと注文を付ける。ルーズベルトは概ね黙認する。
ドイツは全面降伏する。5月8日にフランスのランスにて降伏文書に調印。続く9日に首都ベルリンにて批准手続きとなる降伏文書調印を行う。
7月16日、アメリカのニューメキシコ州での原爆実験成功。。。
ソ連は広島原爆投下の3日後、日本時間で9日になろうかという時に宣戦布告し、ソ連軍は大挙して満州に侵入する。
領土拡張の本能を抱くロシアは、共産思想を得てもそれは変わらず、ヨーロッパは東南アジアが植民地であった頃の夢覚めやらず、自由の国アメリカにとって、ソ連はいつの間にか倒すべき敵であった。日本はそれでもなお思う。八紘一宇の夢。
そして、8月15日を迎える。日本はポツダム宣言を前日受諾し、これを国民へ知らせるを以て終戦の日とする。
]]>
(長文転載)
■■ Japan On the Globe(297) ■ 国際派日本人養成講座 ■■■■
人物探訪:近衛文隆 〜 ラーゲリに消えたサムライ
ソ連での獄中生活11年余。
スパイになる事を拒否し続けて、ついに屈しなかった青年貴族。
■1.日本首相の息子であるコノエ中尉を捕らえました。■
同志スターリン、朝鮮国境で3日前にスメルシ(赤軍防諜部)が日本首相の息子であるコノエ中尉を捕らえました。
その報告に、スターリンはゆったりと聞き返した。「コノエだと? この夏にヒロヒトが特使として名指したあの人物の息子か?」
「ヒロヒトの特使」とは、日本の降伏も間近の1945(昭和20)年7月に、ソ連に和平工作の仲介を依頼するために元首相・近衛文麿が特使として指名されたことを指す。しかし、その時にはすでにスターリンは日ソ中立条約を破って対日参戦することを決めていたのである。
近衛文麿の長男・文隆が所属する重砲兵第3連隊が停戦命令に従って武装解除に応じ、ソ連軍に投降したのは玉音放送の3日後、1945(昭和20)年8月18日だった。文隆は配下の中隊の部下を集めて、「なあに、川ひとつ越せば朝鮮だ。釈放されたら、さほど手間取らずに内地に帰れる。それまでは一致団結して頑張ろう」と相変わらず元気な檄を飛ばした。
文隆は17歳にして米国プリンストン大学に留学したが、遊び過ぎがたたって中途退学。その後、しばらく父・近衛首相の秘書役を務めた後、上海に渡り、蒋介石政権の高官の娘と恋仲になって、一緒に日中和平工作に乗り出すが、軍部ににらまれて徴兵の対象となり、二等兵として満洲に配属された。今度はよく勉強して瞬く間に中尉まで昇進した。身長1メートル79センチ、体重81キロという堂々たる体躯にふさわしいスケールの大きな人物だった。
■2.すごいスパイになる!■
ソ連国家保安省の防諜担当捜査官ピィレンコフは、保安省次官セリヴァノフスキー将軍のデスクの前に立っていた。将軍はいきり立っていた。
いずれこちらの手に取り込むのだ。それはすごいスパイになる! 日本ではなんとしても工作要員が必要だ。捕虜を何人協力者に仕立て上げても、共産党支部に直行して集団入党が関の山。雑魚の集団だ。おまえの仕事は、一本釣りだ。話がついたら、すぐに帰国させ、国会議員にする。政党をつくり彼を党首にする。
いいか、コノエを落とせば、レーニン勲章だ! 期限は1ヶ月。できなければ、やつと一緒に監禁されることになる。
■3.そんな無分別だと、死刑台に直行だぞ。■
コノエ、もう午前3時だ。17時間もあんたとやりあっている。そろそろ吐かないかね。
そう言う捜査官ピィレンコフも駕籠の鳥であった。尋問は盗聴されている。コノエに向かって怒声を発し、頭がおかしくなるくらい、同じ質問を繰り返さねばならない。文隆はきょう一日何も食べていない。頬はこけ、目は落ちくぼんでいた。
この8日間、捜査官殿、わたしは50時間尋問されました。同じ質問が繰り返されました。何故に報いを受けるのでしょうか? 皇軍将校たるわたしが軍紀を遵守し、陛下に忠誠を誓ったからですか? わたしは死ぬまで忠義をたがえません。わたしをむりやり裏切らせるようなことはあなたにもおできになれない。家族、祖国、天皇陛下、わたしにとって神聖にして犯すべからざるすべてのものを裏切れなんて。
そんな無分別だと、死刑台に直行だぞ。
父もそうだったが、わたしも死をおそれない。その備えは常にできております。
もういい、コノエ。おまえの生殺与奪の件はこちらにある。言われたことをよく考え、分別を示すことだ。おまえはふつうの捕虜ではない。国家保安部の最高首脳が本件に関わっているのだ。ほら、紙だ。監房にもち帰り、自分の罪状を書け。
紙は必要ありません、捜査官殿。書くことがないのです。
翌1946年4月、文隆はモスクワに送られ、ソビエト国家保安機関の本部ビル・ルビャンカに収容された。このビルには銃殺室や拷問室もしつらえてあり、スターリン時代の暴政のシンボルであった。
その中の何十とならぶ地下墳墓のような監房の一つに文隆は入れられた。便桶の強烈な悪臭をかぎながら、酸っぱい黒パンと水のような囚人スープを与えられる。しばしば夕食後に呼び出しを受け、時には翌朝未明までぶっ通しで尋問を受けた。やがて歯は抜け始め、視力も落ちてきた。まだ30代だというのに、老人のようになってきた。
■4.「ソ連侵略の策謀」容疑■
取り調べが長く続き、3年目の1948年4月19日、文隆は獄中で起訴された。スパイにならない以上、今後の対日カードとして罪人に仕立て上げて人質にしておこうとしたのであろう。起訴理由は、資本主義幇助に関わる犯罪行為の疑いであった。
その内容は、父・文麿の秘書官在任中にその意を体して、中国や満洲国の現地部隊を訪問し、ソ連侵略の策謀をなした事、また昭和20年2月14日、文麿が昭和天皇に上奏したいわゆる「近衛上奏文」に荷担して、国際共産主義に対する妨害をなしたという理由であった。
近衛が首相在任中に日ソ中立条約を成立させた事実だけを見ても、「ソ連侵略の策謀」とは荒唐無稽な理由であった。その中立条約を破棄して対日宣戦布告をしたのはソ連の方である。また「近衛上奏文」とは、日本を中国や英米との戦いに引きずり込んだのは国際共産主義の策謀であったと自省した内容で、現実にソ連のスパイ・ゾルゲと彼に操られた元朝日新聞記者・尾崎秀實が逮捕・処刑されている。しかし文隆は上奏文の存在すら初耳であった。
■5.ロシア語の嘆願書■
起訴されてから、文隆はロシア語を身につけようと決心した。英語の通訳を介さずに、直接ロシア語でやりとりできれば、裁判でも言いたいことが言えるようになる。ダメで元々と、看守にロシア語を学びたいので辞書と紙、鉛筆を支給してくれないか、と頼んだところ、意外にもすぐに露英辞典を与えられた。
またロシア語の書物も、要求すれば無条件に差し入れられた。ソ連の文献を読めば共産主義の信奉者となり、スパイに転向するかもしれない、と考えたのかも知れない。
紙と鉛筆は支給されなかったので、10日に一回の入浴の際に、風呂場で掠めた石鹸屑と、マッチの燃えかすを練り合わせ、即席の墨を作った。これをマッチ棒につけて、タバコの空き箱の裏に文字を書きつける。文隆は毎日最低2時間はロシア語の学習にあてる事を自らのノルマとした。
それから2年ほど、ひたすらロシア語の学習に励んだ結果、文隆はロシア語の読み書きと日常会話には困らないようになった。10分間の入浴を終えて、看守詰め所の前を通りかかった時、ラジオの朝鮮戦争勃発のニュースを聞き取ることができた。
文隆が獄中で書いたロシア語の嘆願書が残されている。寒さをしのぐために取り上げられている毛皮の手袋を返して欲しい、とか、監房の通気窓が氷のために閉まらなくなったので、自分のスプーンで氷を割ろうとした所、折れてしまったので、代品の支給をお願いする、などと、監獄での暮らしぶりが窺われる。
後には、同じ監獄で友人となったヨシダ・タケヒコという日本人が肺病で見る見るうちにやせ衰えていったので、その世話ができるように、同じ房に入れてくれ、と嘆願している。
■6.「わたくしが敵なら銃殺しなさい」■
7年目の1952年1月14日、突然、ソ連国家保安省の部長に呼び出され、判決が言い渡された。禁固刑25年である。文隆は起訴されたという以上、法廷に出て検事と弁護士のやりとりが、たとえ形の上だけでもあるだろうと思っていたが、それすらもなかった。「そんな裁判は聞いた事がない」と文隆は抗議したが、「コノエ、世界一民主的なわが裁判ではすべてが可能なのだ。われわれはブルジョワ法の古めかしいドグマは認めない。」
文隆には知るよしもなかったが、ソ連崩壊後に公開された資料では、このような形で有罪とされた者は385万人、うち82万人が極刑に処されたとされている。裁判の形式などに構っている暇はなかったろう。
大佐は今までの何百回もの尋問によって捜査官たちが作成した調書の抜き書きを示し、「きみの罪状は捜査で証明され、きみも認めた。だから署名せよ」と言う。文隆はロシア語で言った。
いいですか、大佐。今短刀を持っていたなら、もう何度も捜査官たちに言ったように、迷わず相手の腹を刺していたことでしょう。このつまらぬ文書を見せられてこわくなったとか、びっくりしたからではありません。破廉恥にもわたくしの名誉を侮辱したことに対する抗議です。いかさま師のようにわたくしを刑に服させようとしている。わたくしが敵なら銃殺しなさい。その方が分相応だ。
■7.「近衛文隆を即刻帰せ」■
1月20日、文隆はモスクワから、貨物列車を改造した囚人護送車に詰め込まれて、バイカル湖の西にあるイルクーツクのアレクサンドロフスク監獄に移された。帝政ロシア時代から3大中央監獄と呼ばれた国内最大の監獄の一つである。
文隆が収容された49号室は、25畳ほどの部屋に20人余りの囚人がいた。ほとんどが日本人で、関東軍将校や満洲国官吏、外務省領事などの任にあった人々だった。日本語をふんだんに話せることがうれしかった。天気が良ければ1時間ほど狭い敷地内を散歩できるが、冬の間は猛吹雪が吹き荒れて閉じこめられてしまう。
そんな時は文隆の独壇場だった。プリンストン大学の学生合唱団で鍛えた喉で、日本の歌を歌うと、房内はしんと静まりかえり、涙を流す者もいた。またアメリカでの数々の武勇伝を面白おかしく語っては大笑いさせた。まるでレコードのように同じ話を繰り返しせがまれた。
1955年6月に日ソ国交正常化交渉が始まった。この時点でもいまだ2千4百人近くもの「戦犯」がソ連国内に抑留されていた。特に文隆はその中心的存在として、東京や京都では釈放を要求する集会が開かれ、何十万人の署名入りの声明書や嘆願書が出されていた。日ソ交渉では鳩山首相が「近衛文隆を即刻帰せ」と要求した。
■8.文隆、死す■
1956年6月14日、文隆はモスクワの西北およそ2百キロのチェンルイ村のイワノヴォ収容所(ラーゲリ)に移された。外国のジャーナリストも見学できる別荘のような建物で、日本軍の将官クラスや外務省の幹部級が抑留されていた。食事もよく、ここに入れられた日本人は急速に健康を回復していった。しかし、文隆だけは不眠に苦しめられ、気分が優れず一人陰鬱な顔をしていた。凄まじい尋問と獄中生活を凌いできた文隆には初めての事だった。
抑留者のうちに日本軍の軍医がおり、心配して文隆に言った。ソ連では政治犯にある種の薬物を使っており、それを何度か注射されると、鬱状態が続き、自殺に追い込まれることがあるという。文隆はいつもの痔の治療の際に、透明な液体の注射を打たれている事を思い出した。
10月19日、鳩山首相が領土問題を棚上げする形で、日ソ共同宣言にこぎつけ、日本人抑留者の帰国も確定した。ラジオのニュースを聞いたイワノヴォ収容所の日本人の間でどっと歓声があがった。文隆も久しぶりにうれしそうな顔をした。
23日、不眠で一夜を明かした朝、ひどい倦怠感と頭痛に襲われた。高熱が数日続き、そのまま29日午前5時、息を引き取った。死因は動脈硬化にもとづく脳出血と急性腎炎とされた。同室で治療を受けていた太田米雄・元陸軍中将は午前4時20分頃、病室を移され、入れ替わりに専属の女医が入って、その後1時間もしないうちに悲報を聞いたという。
■9.「本当のサムライだ」■
1958年1月28日、モスクワ。ソ連共産党中央委幹部会が開かれていた。文隆の未亡人から出されたイワノヴォ収容所への墓参りと遺骨返還の要請にどう答えるか、フルシチョフ以下の最高首脳陣が討議していた。「遺骨を返すしかない、日本なしではやっていけない」という結論が出た後で、国際政治・諜報担当のスースロフが言った。
プリンスの死は、われわれにとり、ここだから言えることですが、ある種の救済でもあったのです。
同志諸君、ご想像下さい。こんな折りに、日本政界にもう一人のコノエが現れたらどうなりましょう。シベリア抑留の苦難を耐え抜いた若く生気に溢れた貴公子。40代の日本人たちは、元軍人であろうとそうでなかろうと、敗戦に不満で占領の恥辱に我慢がならない。ただちにコノエを新しい指導者として迎え入れるでしょう。こう言ってもまちがいはありますまい。3,4年後には、ソ連はその収容所群島の裏表を知り尽くした日本首相と事を構える羽目になる、と。
フルシチョフが「賛成だ」と支持の声をあげた。ブレジネフは文隆が何度も脅されながらも、決してスパイにならなかった事を聞いて「あっぱれだ! 本当のサムライだ。」と感心した。彼は死因を聞いて「マイラノフスキー(スターリンの殺し屋)の手口としか考えられないな」と言った。
「その手口が使われたにしろ、使われなかったにしろ、今じゃ何の意味がある?」とフルシチョフが話を締めくくり、会議を打ち切った。
(文責:伊勢雅臣)
■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. V.A.アルハンゲリスキー、「プリンス近衛殺人事件」★★★、
新潮社、H12
2. 西木正明、「夢顔さんによろしく 上・下」★★★、文春文庫、H14
© 平成15年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.
]]>
共産勢力の恐ろしさ。何かあれば民主主義を持ち出すところは今に通じます。「共産主義は偽神」とはよく言ったものです。
誰もが分け隔てなく幸せに暮らせる世界。彼らの発するこの思想はぐっときます。特に若い人や純粋な人ほどそうでしょう。
ですが、根本的な欠点があります。
それは労働を忌むべきものとしているところです。
我が国は、神話の時代から、労働は尊い。
君は民を「百姓(おおみたから)」と呼び慈しみ、民は君を慕う。
国中平らかに安らけく。
そこにあるのは互いを信頼し合う心です。
君のおわします豊かな国。自助精神のある国。労働は尊い国。
戦後70年。真摯な反省とともに、これを守り、受け継いでいかなければなりません。
民主主義とは相性がいいようにも思えます。
ちなみに、資本主義は悪魔とのこと。中国は深みにはまっていますね。
偽神?悪魔?そう解説するブログはこちら。卓見です。
↓ ↓ ↓
]]>
(転載つづき)
■■ Japan On the Globe(573)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■
地球史探訪: 近衛文麿の戦い(下)
〜 命も名誉も捨てて近衛が護ったもの
「見えない力」が、近衛を戦争犯罪者として追い詰めていった。
■1.「共産革命にまで引きずらんとする意図」■
昭和20(1945)年2月、近衛は3年ぶりに直接、天皇に言上できる機会を得て、上奏文を読み上げた。
「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存知候」との断言で始め、「最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候」と述べた。
ソ連は東欧諸国において着々と共産主義政権を樹立して、勢力を広げつつあった。東アジアにおいても、モスクワから野坂参三(後に日本共産党名誉議長となったが、ソ連スパイだった事が発覚し、除名処分)が中国共産党に合流して、日本での共産革命の準備を始めていた。
少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存じ候。・・・
これら軍部内一味の者の革新論の狙いは、必ずしも共産革命に非(あら)ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼というも可なり、左翼というも可なり、所謂(いわゆる)右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は、意図的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵しており、無智単純なる軍人、これに踊らされたりと見て大過なしと存候。・・・[1,p353]
本土決戦を叫ぶ軍人たちは、日本を徹底的な壊滅状態に追い込んで革命をもたらそうとする共産主義者の戦略に踊らされている、と近衛は見た。
戦局への前途につき、何らか一縷(いちる)でも打開の望ありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争をこれ以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存じ候。・・・
一刻も早く終戦を実現することが、日本を共産革命から救う道だ、と近衛は上奏したのである。
■2.「身命を賭して参ります」■
天皇からのお召しで、近衛が再び参内したのは7月12日のことだった。髪は乱れ、顔色も青ざめた天皇の姿が、近衛の胸を強く打った。「ソ連に使して貰うかもしれないから、そのつもりに頼む」と天皇は言われた。
共産主義のソ連は信用できない相手であり、和平を講ずるなら米英との直接交渉しかないと主張してきた近衛にとって、ソ連への特使を頼まれることは考えてもいなかった。
しかし、やつれた天皇の姿を前にしては、近衛はこう言わざるを得なかった。「容易なことではないと存じますが陛下のご命令とあらば、身命を賭して参ります」
ここは討ち死にする覚悟でスターリンと会わねばなるまいと近衛は肝に銘じた。周囲の者には「自分一身はどうなっても構わぬから、ただ皇室だけは安泰にしたい」と漏らした。
日本側の特使派遣の打診に対し、モスクワからは回答を引き延ばした挙げ句、終戦の斡旋依頼は具体性を欠くから回答できない、と言ってきた。
スターリンは2月に行われた米大統領ルーズベルト、および英首相チャーチルとのヤルタ会談にて、ドイツ降伏後3ヶ月以内での対日参戦を約束しており、すでにその準備を進めていた。
近衛のルーズベルトへの和平交渉呼びかけも、このスターリンへの和平仲介依頼も、対日戦争を決意していた相手に対して行われたわけである。近衛の虚しき奮闘は、昭和日本の姿そのままであった。
■3.マッカーサーへの建言■
終戦は、鈴木貫太郎首相が昭和天皇の御聖断を引き出して、かろうじて実現できた。替わって登場した東久邇宮内閣では、宮の希望もあって、近衛が副首相格として入閣した。
占領軍を率いてやってきたマッカーサーに、近衛は昭和20(1945)年9月13日、そして10月4日と矢継ぎ早に会談を持った。近衛としては、今後の日本の将来を左右するマッカーサーに正しい認識を持って貰いたい、という一心だったのだろう。二度目の会談で、近衛はこう説いた。[1,p380]
軍閥と極端な国家主義者が、世界の平和を破り、日本を今日の破局に陥れたことには一点の疑いもないが、皇室を中心とする封建的勢力と財閥とが演じた役割とその功罪については、米国に相当観察の誤りがあるのではないかと思う。
彼らは、軍国主義者と結託して今日の事態をもたらしたと見られているようだが、事実はその正反対で、彼らは常に軍閥を抑制するブレーキの役割をつとめたのである。軍閥や国家主義勢力を助長し、その理論的裏付けをなした者は、実にマルキシストである。日本の今日の破局に陥れたものは、軍閥と左翼の結合した勢力であった。しかるに日本では、財閥と封建的勢力を除いて安定勢力はない。・・・
今日直ちに一挙にこの安定勢力を除去すれば、即ち日本がすぐ赤化に走るということを強く指摘したいのである。
■4.マッカーサーの激励■
マッカーサーは近衛の話を聞き終わると、「有益でかつ参考になった」と言い、こう激励した。
公はまだお若い。敢然として指導の陣頭に立たれよ。もし公がその周囲に自由主義分子を糾合して、憲法改正に関する提案を天下に公表せらるるならば、議会もこれについてくることと思う。[1,p380]
支那事変と対米英開戦を阻止できなかったことに深く責任を感じていた近衛は、憲法改正こそ自分の責任を果たす道と奮い立ったであろう。早速、総司令部のアチソン顧問に相談しながら、京大の憲法学者佐々木惣一博士らブレーンを集めて、草案作りに着手した。
マッカーサーとの会見の翌日、東久邇宮内閣は総辞職し、第4次近衛内閣を望む声も強かったが、幣原喜重郎が後継首相となった。
外相として内閣の要をなしていた吉田茂は残念がったが、「この次のために近衛公はとっておいた方がいい。いずれにしても近衛公は日本にとってかけがえのない人だから」と近衛を推した人々を励ました。
■5.運命の暗転■
しかし、それから1ヶ月も経たない11月1日、占領軍総司令部は近衛に対して、手のひらを返したような仕打ちに出た。「憲法改正は東久邇内閣の副首相としての近衛に委嘱したことで、内閣が交替した以上、その委嘱は当然、解消された」というのである。
マッカーサーからの委嘱は10月4日であり、内閣交替はその翌日であった。それ以降も総司令部のアチソン顧問が相談に乗って、新憲法草案を検討してきたのであるから、この声明はいかにも不自然なものであった。
11月9日には米政府から派遣された戦略爆撃調査団によって近衛は駆逐艦「アンコン」に連行され、長時間の取り調べを受けた。
尋問から帰ってきた近衛はこう漏らした。[1,p414]
取り調べはひどいものでしたよ。全く検事が犯罪人の調書をとるようなものだった。私も戦犯で引っ張られますね。
この予想どおり、12月6日には総司令部から戦犯としての出頭命令が出た。その出頭期限日の前日、12月15日晩に近衛は服毒自殺を遂げたのである。
マッカーサーから「敢然として指導の陣頭に立たれよ」と激励された10月4日から1ヶ月も経たないうちに、近衛の運命は暗転した。そこにも「見えない力」が働いていたのである。
■6.「日本史研究者」ハーバート・ノーマン■
10月4日、ちょうど近衛がマッカーサーに励まされていた頃、東京の府中刑務所では総司令部の対敵諜報部課長ハーバート・ノーマンによって解放された徳田球一や志賀義雄ら共産党幹部16名がバンザイを叫んでいた。
ノーマンはカナダ人宣教師の子として軽井沢で生まれた。後にハーバード大学で日本史を研究している間に、日本からの留学生・都留重人と出会い、マルクス主義の同志として親交を結んだ。ノーマンは実兄に向けた手紙で次のように都留のことを紹介している。
ところで、ここにいる、僕と同じような考え方をしている日本人の友人について、あなたに話したでしょうか。彼は僕が今まで会った中で最も進んだ、有能なマルクス主義者の一人で、、、[1,p387]
戦争の最中、1944(昭和19)年に、ノーマンはカナダにて『日本の将来』という報告書を書き上げた。そこにはこんな一節がある。
それにしても、天皇こそ日本帝国主義の全組織にとっての要石なのであるから、彼を温存することは日本の反動勢力の全機構を維持することに他ならない。・・・要するに日本を非武装化しても天皇制が残されている限り、日本は全世界にとって解決されない危険な難題として残ることになるだろう。[1,p401]
こういう「日本史研究者」が、その日本に関する知識と日本語能力を買われて、占領軍総司令部に入り込んでいたのである。当然、その目的は占領軍の権力を使って、日本での共産革命を実現することであった。
■7.ノーマンの近衛誹謗■
しかし、マッカーサーに共産革命の危機を説いた近衛が、新憲法の草案作りに着手した事にノーマンは重大な危機感を抱いたはずである。このままでは共産革命が頓挫してしまう。
そこでノーマンは「戦争責任に関する覚書」を作成して、近衛を戦争犯罪者として弾劾する文書を作成した。
ある人間が流血と戦争と戦争にともなうあらゆる不幸をそそのかしておきながら、あまりに「優雅」で自分の仕出かした結果を見つめたり認めたりできないということは、実に奇妙で不愉快である。・・・
一つ確かなのは、かれらが何らか重要な地位を占めることを許されるかぎり、潜在的に可能な自由主義的、民主主義的運動を阻止し、挫折させてしまうことである。[1,p397]
持って廻った文体に燃え上がるような憎しみを込めて、ノーマンは近衛を戦争犯罪者として弾劾した。
■8.東京裁判の予行演習■
同時期にニューヨーク・タイムズ紙に、次のような投書が載った。
近衛を現在、その地位にとどまらせておくのは、日本の降伏以来、極東で起きているもっとも危険なことであり、われわれが犯した最悪の失敗である。[2,p170]
寄稿者は太平洋問題調査会の機関誌への寄稿メンバーだった。この会にはソ連工作員も暗躍していたことが後年明らかになっており、ノーマンもカナダ代表として参加していた。あきらかにノーマンの近衛追い落とし工作の一環である。
同様の趣旨の社説が同紙に掲載され、それがまた朝日新聞によって国内にも紹介された。
ノーマンの近衛追い落とし工作の極めつけが、戦略爆撃調査団による取り調べだった。ノーマンの同志・都留重人もこの調査団に入っていた。
そこでは、近衛は首相として「中国併合」を狙った中心人物であり、また9月6日の御前会議は、対米交渉を装いながら戦争準備を進めたものとされた。近衛の必死の和平交渉の努力は、正反対に解釈されていた。まさに東京裁判の予行演習であった。
こうしたノーマンの暗躍によって、総司令部は近衛を憲法草案作成の仕事から外し、さらに戦争犯罪者として出頭命令を出したのである。
■9.命も名誉も捨てて■
近衛は戦略爆撃団の尋問を受けて、米国が史実をねじ曲げてでも、すべての戦争責任を日本側に押しつけるつもりだ、という意思を察した。そして、その首謀者として自分を血祭りに上げようとしている陰謀を感じ取った。帰りの車の中で、近衛は「やられた、やられた」と独り言を繰り返した。[2,p21]
しかし、米国が日本を侵略国家に仕立て上げようとしている以上、誰かがその首謀者として犠牲にならなければならない。首相であった自分がすべての罪をひっかぶれば、そこで天皇への追求を遮ることができる。近衛は自決の前日に、「もし陛下に戦争責任の累が及ぶのだったら、臣下として生きている訳にはいかぬ」と二度も繰り返した。[1,p424]
こうして近衛はすべてを黙したまま、服毒自殺を遂げた。朝日新聞社説は「死者に鞭打つ気持ちはないが」と前置きしながら、「近衛公が政治的誤りを犯し、戦争責任者たりしことは一点疑いを容れない」と死者に鞭打った。近衛の狙い通りである。
近衛はノーマンの工作を逆手にとって、戦争犯罪者として罪と汚名を引っ被ったまま、黙ってこの世を去った。そしてその志どおり、皇室は安泰を得た。ノーマンの皇室廃止と日本共産化の野望は、近衛の自決によって頓挫したのである。
800年近くも皇室をお守りしてきた近衛家の当主としての責任を、近衛文麿は自らの命も名誉も捨てて果たしたと言える。
ちなみにノーマンは、1952年にアメリカ上院司法委員会によってソ連のスパイであった可能性を指摘され、カナダの外交官という身分からエジプト大使に転身して追求を逃れたが、1957年カイロで謎めいた投身自殺を遂げた。
(文責:伊勢雅臣)
■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿と天皇』★★、
日本経済新聞社、H18
2. 鳥居民『近衛文麿 「黙」して死す』★★、草思社、H19
© 平成20年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.
(長文転載)
■■ Japan On the Globe(572)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■
地球史探訪: 近衛文麿の戦い(上)
〜 日本を戦争に引きずり込んだ「見えない力」
戦争を阻止すべく、近衛文麿首相は日米首脳会談実現に全力を上げたが、、、
■1.「僕の志は知る人ぞ知る」■
昭和20(1945)年12月16日朝、青酸カリを飲んですでに冷たくなっている近衛の遺体が発見された。近衛は戦争犯罪容疑で米軍に呼び出しを受けており、その前夜、次のようなメモを遺していた。
僕は支那事変以来、多くの政治上過誤を冒した。之に対し深く責任を感じて居るが、所謂(いわゆる)戦争犯罪人として、米国の法廷に於(おい)て裁判を受けることは、堪え難いことである。殊に僕は、支那事変に責任を感ずればこそ、この事変解決を最大の使命とした。そしてこの解決の唯一の途は、米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたのである。その米国から今、犯罪人として指名を受けることは、誠に残念に思う。
しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於(お)いてさえ、そこに多少の知己(ちき)が存することを確信する。[1,p18]
米国における「知己」の一人が、近衛が首相として日米交渉に全力を尽くしていた時の駐日米国大使ジョセフ・グルーである。グルーは近衛が万策尽きて首相を辞任した際に、次のような手紙を送っている。
日本のために貴下が捧げられた、長い難渋な、この上なく卓抜な公的奉仕に敬意を表します。[1,p253]
近衛は昭和18年4月、すでに敗色濃厚となった大戦の最中に、支那事変当時を回想して、次のように述懐している。
なにもかも自分の考えてゐたことと逆な結果になつてしまつた。ことこゝに至って静かに考へてみると、何者か眼に見えない力にあやつられてゐたような気がする。[2]
「何者か目に見えない力」が、近衛内閣を支那事変に巻き込み、対米戦争に駆り立て、そして今また近衛を戦争犯罪容疑で死に至らしめたのである。近衛の悲劇は、昭和日本の歩みの象徴であった。
■2.日本を支那事変に引きずり込んだ内外二つの力■
支那事変は、昭和12年(1937)年7月、近衛の第一次内閣発足の一ヶ月後に勃発したものである。その発端となったのが、北京郊外の蘆溝橋での日本軍と国民政府軍の衝突で、中国共産党によって両軍を戦わせた陰謀である事を示唆する証拠がいくつか見つかっている。
近衛は不拡大方針をとり、現地では停戦協定も結ばれたが、日本軍は何度も不法射撃を受け、通州では260余名の日本人が虐殺された。さらには上海でも中国共産党に通じた国民政府軍の高官が日本軍を攻撃して、戦火を広げた。
一方、近衛内閣の内部にも、共産主義者が忍び込んでいた。近衛がブレーンとしていた昭和研究会のメンバー、元朝日新聞記者・尾崎秀實は「東亜共同体」建設のために、親日政権の樹立を主張していた。これは裏返せば、蒋介石政権打倒を意味し、日本と国民政府を戦わせて、共倒れさせ、日中で「赤い東亜共同体」を建設しようという陰謀であった。 昭和研究会周辺には共産主義者がいるらしい、との噂が出始めて、近衛は第2次、第3次内閣では尾崎を遠ざけた。噂は真実で、後に駐日ドイツ大使館顧問のリヒャルト・ゾルゲがソ連のスパイである事が発覚した際に、尾崎もその協力者として逮捕され、死刑に処せられている。
こうして近衛内閣は、内からと外からの共産主義勢力の謀略により、支那事変に引きずり込まれていったのである。
昭和14(1939)年1月、支那事変を収拾できないまま、近衛内閣は総辞職した。
■3.「多くの政治上過誤を冒した」■
昭和15(1940)年7月、第2次近衛内閣が発足した。すでに欧州大戦でヒトラーの快進撃が始まっており、「バスに乗り遅れるな」との声が国内にも上がっていた。ドイツ、イタリアとの三国同盟を、前任の米内光政内閣はなんとか抑えこんでいたが、近衛内閣発足後2ヶ月で成立させてしまう。
さらに日本軍の南部仏印進駐を契機に、アメリカの対日石油全面禁輸を招き、日米間の緊張が高まった。近衛は、三国同盟を推進してきた松岡洋右を更迭し、第三次内閣を発足させた。
第1次内閣での支那事変収拾失敗と、第2次での三国同盟成立、第3次の日米対立と、近衛の首相在任中にわが国は大きく戦争に近づいていくのだが、それを近衛は「僕は支那事変以来、多くの政治上過誤を冒した」と振り返っているのである。
華族筆頭の名家に生まれ、下積みの経験もないまま首相にまでなってしまった近衛の脇の甘さが、こうした過誤の原因だろう。しかし、日米戦争の危機を迎えて、近衛は立ち上がった。
■4.「生命のことは考えない」■
昭和16(1941)年8月4日、開戦の4か月前、近衛はある覚悟を陸海両相に打ち明けた。
これまでの日米交渉では種々の誤解や感情の行き違いもありこのまま進んでしまって戦争となることは陛下にも国民にも申し訳がない。今は危機一髪のときであって、野村大使だけを通じての交渉では時期を逸するかもしれない。
そこで自分はホノルルにおいてルーズベルト大統領と直接会談をして帝国の真意を率直に述べたいと思う。・・・この会談は急を要する。
及川海相は即座に賛成し、東條陸相は種々注文をつけながらも異存ないと言ってきた。
さっそく天皇に奏上したところ、「石油の全面禁輸に関し、海軍側の情勢もあることだから、大統領との会見は速やかにせよ」と督促されて、近衛は決心を固めた。
その決心とは、ルーズベルト大統領との会談で支那からの撤兵を要求されたら、その場で電報で天皇の裁可を仰ぎ、決定調印するという非常手段をとることだった。周囲から「そんなことをしたら殺されるに決まっている」と心配する声があがったが、近衛は、生命のことは考えない、と答えた。
■5.近衛の「生涯の喜び」■
近衛の提案を受けたルーズベルトは、「私の警告と平和的プログラムに従うなら、近衛と会ってもよい、場所はアラスカのジュノーでどうか。期日は十月中旬ということにしよう」と回答した。「警告」とは、日本がこれ以上侵略を続ければ、たとえアメリカ自体が攻撃されなくとも、その第三国(英国、オランダを含む)を援助する、という内容であった。
近衛はその「警告」を原則承知する回答を付けて、訓電させた。この近衛回答にルーズベルトは納得して頷いたという。近衛はこれを生涯の喜びとして手記『平和への努力』にこう書いている。[1,p241]
大統領は余のメッセーヂを読み、「非常に立派なもの」と大いに賞賛した後、「近衛公とは三日間くらに会談を希望する」といひ、期日に関してこそ言質を与へなかったが、大いに乗気の色を見せたのである。恐らくこの時が日米の一番近寄った時であったかも知れない。
しかし、近衛の喜びは長くは続かなかった。9月3日、ルーズベルトは野村大使を呼んで近衛への返書を渡した。
この会談そのものには賛成するが両国の国内事情も多々ある。近衛公には同情するがやはり事前の予備交渉で詰める事が必要だろう。
ルーズベルトが態度を翻した裏には、国務長官コーデル・ハルが「首脳会談の前に話をまとめておかねば会談を開く意味はない」と譲らなかったからである。
■6.「私は3カ月間は日本を赤ん坊扱いできる」■
実は、ルーズベルトの周辺にも共産主義者たちが入り込んでいた。彼らは日米を戦わせることで、日本の軍事力を米国に向け、ドイツと戦っていたソ連を護ろうとしたのである。
後にハルの名を冠した「ハル・ノート」なる要求が日本政府につきつけられた。これは米国議会にも秘密にされており、後にその内容を知った共和党下院リーダー、ハミルトン・フィッシュ議員が「この最後通牒により、日本を開戦に追込んだ責任がルーズベルトにある」と断言したほど、厳しい要求を盛り込んでいた。
「ハル・ノート」の原案は財務次官ハリー・デクスター・ホワイトが作成しており、彼は後にソ連のスパイであったことが明らかになっている。
こうした共産主義者たちに乗せられていたルーズベルトはすでに対日開戦を決心しており、近衛の提案を受け取る直前には、英国首相チャーチルと会談して、第二次大戦の指導方針や戦後処理に至るまで合意していた。
その際に、ルーズベルトは「私は3カ月間は日本を赤ん坊扱いできる」とまで言っていた。近衛の回答を賞賛したのも、「赤ん坊扱い」の一つだったのだろう。
近衛は「生命のことは考えない」と言うほど、日米開戦を避けるために必死の思いで奮闘した。しかし、日本を戦争に陥れようという「見えない力」が米国側にも働いている事に、近衛は気がついていなかった。
■7.グルーとの会見■
9月6日、御前会議が開かれ、陸海軍首脳部がまとめた「帝国国策遂行要領」が提示された。それは「10月下旬を目途に対米戦争準備を完遂する」「並行して米英との外交交渉を進める」「10月上旬に至っても外交交渉の目途がつかない場合は対米開戦を決意する」というものだった。
昭和天皇は「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」との明治天皇御製を拝誦され、陸軍の主張する戦争準備は進めても、なお「外交を第一とせよ」との思し召しを示された。
東條はこれに驚愕し、「聖慮は和平を望んでおられる。こうなったら何としても日米交渉を成功させねばならない」と自分に言い聞かせるように言った。天皇の思し召しにより、近衛の進めていた日米交渉の重要性を軍部も再認識する所となった。
この晩、近衛は駐日米国大使グルーと秘かに会い、こう説いた。
自分が大統領と直接会談できれば双方の見解対立を必ず解決できる。現内閣では陸海軍は一致して交渉の成立を希望しており、こういう機会は生涯のうちにまたとないから、この際一刻も早く大統領と会見して根本問題につき意見を交換したい。・・・
自分は身の安全も顧みず、日米関係の再建のために命をかけたいと思っている。もしアメリカへ行くなら一行の船には東京の天皇と直接交信できる性能を持ったラジオを装備し、大統領と合意に達することがあれば天皇に奏上し、詔勅が発せられ、即刻すべての敵対行為を取りやめる命令が下されることになっている。[1,p246]
グルーは、早速、近衛との会談を受諾するよう促す電報を本国に打った。そして、日本の和平派は未曾有で極めて危険なことだが、天皇を介入させてアメリカとの戦争を避け、日本の方向転換実現のためにあらゆる可能な方法を用いる覚悟をしている、と自らの手記に遺した。
■8.東條との対立■
しかし、10月2日にハルから示された回答は、近衛の提案を一蹴したものだった。日本が中国の特定地域に不特定期間駐屯しようとしていることを非難し、日米首脳会談は両国間になお現存する意見不一致のままでは効果を望めない、と突き放したのだった。
この回答に軍部は「外交交渉に望み無し、もはや開戦やむなし」との意見で固まってしまった。それでもなお、近衛はあきらめずに、10月5日、東條を私邸に呼んで話し合った。
近衛はまだ外交交渉の望みを捨てるわけにはいかない、と迫ったが、東條は、もはや承伏しがたい、と態度を硬化させたままだった。
一番問題になっているのは、三国同盟ではなく支那の駐兵だと思うから、ここは一度引き上げて、わずかな資源保護くらいを名目とした兵を残すだけにしてはいかがか。[1,p249]
東條は「アメリカの態度は強硬で明白だ。駐兵拒否といわれては陸軍は譲れない」と突っぱねた。こんな押し問答が何度も続いた。
東條の説得に失敗した近衛内閣は総辞職し、内大臣・木戸幸一の推挙で、東条内閣が登場する。東条は、昭和天皇の意向に従って最後の対米交渉を進めたが、その努力もむなしく遂にハル・ノートを突きつけられて、開戦を迎えることになる。
■9.「日米交渉に全力を尽くした」近衛■
この経緯を辿れば、近衛が「日米交渉に全力を尽くした」というのも誇張ではないことが理解できよう。そしてグルーがそれを「長い難渋な、この上なく卓抜な公的奉仕」と称賛したのも単なるお世辞ではないことは明らかである。
米国が真に平和を望んでいるとしたら、グルーが促した通り、日米会談を受諾して、和平への一縷の望みを模索したはずである。しかし、ルーズベルト大統領はすでに対日開戦を決意しており、近衛の必死の提案を一蹴したのである。
その米国が日本を占領して、近衛を「戦争犯罪人」として検挙しようとは、いかにも理不尽な仕打ちであった。実は、そこにも「見えない力」が働いていたのである。
(続く、文責:伊勢雅臣)
■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず−近衛文磨と天皇』★★、
日本経済新聞社、H18
2. 三田村武夫、「大東亜戦争とスターリンの謀略」★★、自由社、
S62
© 平成20年 [伊勢雅臣]. All rights reserved
スペイン在住のデザイナーかんかんさんの考案した作品です。
彼女のツイッターから
扇は末広がりで縁起がいいものとされ、古くから応援するときの道具として使われてきたので、オリンピックのモチーフとして最適&「和」も感じられていいかなと。「多くの人で支えられている日本(日の丸)」を扇の中で表現しています。
そこに在る扇とひるがえる扇
もし、2020年のオリンピックロゴが仕切り直しとなり広く公募の中から選ばれるとしたら、こういうハレの日の気分を盛り立たせてくれるデザインがいいですね。このデザインと同じく、パラリンピックが脇役ではなく、独立しているものなら一層心はずみます。
かんかんさんのあの扇が桜へと代わり…というイメージをアニメーションにしたいというつぶやきに
naxさんが早速応えていました。
先ほど、かんかんさんのツイッターをのぞいたら、匿名者投稿のこんなGif動画もありました。
この切磋琢磨な自由な雰囲気はオリンピック。
広がれオリンピック精神
タイミングを同じくして、MGRつながりのチャロチャロさんのブログでもこの扇ロゴ関連の記事が上がりました。そもそも、エンブレムをデザインするとは?というアプローチは切り口鋭くてめっぽう面白いです。色々理解が深まります。
YUuuuさんのアニメーション作品
九州電力は13日、再稼働した川内原発1号機(薩摩川内市)の発電と送電を14日午前9時ごろ始めると発表した。同日は出力を30%まで上げ、8月下旬ごろからフル出力運転を行う。発送電は定期検査で停止した2011年5月以来、4年3ヶ月ぶり。
九電は、夏場の電力供給が不足する恐れがあるため、中部電力や中国電力からの融通を受けている。1号機がフル出力運転できれば、自前で対応できる見通し。供給余力を示す予備率も、安定供給に最低限必要な3%から5.1%に改善する。
13日午後4時半ごろに発電用のタービンを起動。回転数を発電時と同じ毎分1800回転まで1時間半かけて上昇させた。タービンに異常が発生した場合に、流入する蒸気を遮断する装置が正常に動くか確認する検査なども実施。タービン車軸の振動が正常でバランスを取る作業が不要になり、発送電開始が当初予定の14日午後6時ごろより早まった。
1号機は11日に原子炉が起動して再稼働し、同日夜に核燃料の核分裂が安定する「臨界」に達した。9月上旬の営業運転開始を目指している。
(雪松博明)
南日本新聞 2015日8月14日掲載分
安倍談話の後のNHK出演の中でも、総理から川内原発へ関しての言葉がありました。
今、原発がベースロード電源として選択肢の中にあることの必要性。それから、防災面からこれからも、より充実した避難計画を目指していくということ。
半径10Km圏内の災害時要援護者に関しては、避難手段や経路、必要なバスの確保が獲得できたそうです。
原料のウランは、100%輸入に頼っています。ただ西からではなく主な輸入先はオーストラリアやカナダなので、石油とは違う輸入経路を辿ることからエネルギーの安定確保につながります。
再稼働からの一連の流れに、ひと安心しました。鹿児島県民としてこれからも自分に出来ることを確かめていきたいです。
記録を兼ねてニュースをまとめてみました。
薩摩川内市にて
川内原発半径5Km圏内は安定ヨウ素剤の事前配布の必要あり
→今だ対象者の3割の住民(約1300人)が受けとっていない(5月末時点)
その必要性や副作用などへの懸念からヨウ素剤配布会へ足を運ばない人が多い
8月中旬から10月末にかけて市職員の戸別訪問の予定あり
川内原発1号機は10日から原子炉を再稼働させ、13日前後には発電と送電を開始する見通しです。
安定ヨウ素剤の配布に関してまとめています。→「甲状腺内部被曝予防策」
亡くしたのは妻であるのに。
翌日、徳蔵は再び大宮御所へ赴き、入江大夫に人形を頂いた件で礼を述べます。
それに大夫は歌で応えて。
亡き妻の ゆめもめぐみも きかまほし 世々につたえよ これの人形(ひとがた)
「きかまほし」… 聞きたい。聞いてみたい。
【動詞】「聞く」の未然形の「きか」+【助動詞】「〜まほし」([願望]を表す)
残された子供を大切にせよとの意味が込められた人形と、俊子の心情へ思いを馳せたこの和歌の書かれた色紙は、秋山家の家宝となりました。
秋山徳蔵は「忘れ得ぬ2人の婦人」として、貞明皇后と妻俊子の名前を挙げていたといいます。
.。*゚+.*.。 「めぐみ」 ゚+..。*゚+
元々、「めぐみ」は「恵」とも「恩」とも書いた。
恩は、許慎の「説文解字」によると、後漢時代の中国ではすでに「恵(めぐみ)」という意味であったし、日本でも「日本書紀」や「古語拾遺」などで、「めぐみ」「みうつくしみ」「みいつくしみ」という読み方が為されていた。
言葉の語源にさかのぼれば、「芽ぐみ」となる。春に草木が芽ぐむことから。
春の陽気に誘われて草木は目覚め、生命力がはぐくまれていくのと同じように、他者に命を与えたり、命の成長を助けるということ。
「恵」と書けば人から人へ渡るものでもあるし、「恩」であれば師や親からだけでなく、友人同士で互いに睦み合う中で生まれるものでもある。
防災は、不断の見直しです。整えられた事前準備の大切さ。
遅れているとの指摘があった県内のバス事業者と県との協定も、5月の時点で概要ができました。
乳幼児をはじめとする要援護者をいかに確実に避難させるか。ここがこの避難計画で一番肝心なところです。
原発事故時において、半径30キロ圏内の住民一斉避難は想定していない。
段階的に対応する。
大体、3段階に分けられている。
※=避難手段がない者にはバス事業者による緊急輸送が取られる。
一.警戒事態
施設敷地緊急事態要援護者(災害時要援護者・安定ヨウ素剤の事前配布を受けていない者・安定ヨウ素剤の服用が不適切な者など)の輸送準備(安定ヨウ素剤:参照「甲状腺内部被曝予防策」)
二.施設敷地緊急事態 …放射線が敷地外へ出る恐れが出て来た事態
5キロ圏内(PAZ)の住民の内、施設敷地緊急事態要援護者とその支援者を対象に避難させる(※)。
三.全面緊急事態 …放射線が敷地外へ出る恐れが高まった事態
PAZの一般住民を対象にした避難命令。この場合、避難手段は原則自家用車で30キロ圏外へ避難する(※)。
5〜30キロ圏(UPZ)の住民は、屋内退避。
UPZの住民は、屋内退避後にプラント状況や空間放射線量率等に応じて段階的に避難する。
※(事前準備)
・バスと運転手の確保
・事業者側の安全確保とバックアップ体制
・鹿児島県で事業者へ協力を要請するのは、概要では、積算被曝限度が一般公衆の年間限度の一ミリシーベルトを下回る場合となっている(自然放射線を除く)
(課題)
・万一の補償や除染対応、通信手段、燃料の確保、渋滞対策など
*PAZ(Precautionary Action Zone)=予防的防護措置を準備する地域
予防的な防護措置とは、即時避難を実施する等、放射性物質の環境への放出前の段階からの防護措置のこと
*UPZ(Urgent Protective Action Planning Zone)=緊急時防護措置を準備する地域
緊急時には、事態の規模や時間的な推移に応じて、屋内退避のみならず避難等の防護措置も出来るよう準備を整える必要がある
『仙巌園(鹿児島市)』
1914(大正3)年3月16日。ウィルソンは仙巌園の山手北側で、モウソウ竹(江南竹)の林を観察していた。竹林奥に立つ石碑「仙巌別館江南竹記」によると、1736(元文元)年、島津家21代当主吉貴が琉球国に中国江南地方原産のモウソウ竹を所望し、2株を取り寄せ移植したところ、領内のシラス台地に見事に根付いた。
モウソウ竹の日本伝来については、道元や隠元といった高僧に由来する京都起源説や、近い所では蒲生の旧領主樺山家が伝えたという蒲生起源説など諸説存在する。が、18世紀後半に江戸で大流行した記録があることから、徳川家とパイプを太くしていた島津氏が将軍に献上し、やがて庶民に広まったという仙巌園発祥説は説得力がある。古来日本にあったマダケと比べ柔らかくおいしく、春いちばんに芽を吹くモウソウ竹の筍は初物好きの江戸っ子の心をつかんだ。
季節柄、ウィルソンも新鮮な筍の味覚を楽しんだ可能性はある。日本に先立つ中国探検で目にしたモウソウ竹が、島津公爵の庭に繁茂している。その背景をも咀嚼しながら、カメラを向けた思いを想像してみる。
1609(慶長14)年、財政危機にあった薩摩が琉球国に武力侵攻し、中国への進貢貿易の利権を握った。琉球口と呼ばれるこの間接貿易で得た利益と海外情報が、28代当主斉彬の集成館事業へと集約されていき、仙巌園の南に時代の先端をいく洋式工場が次々に建てられた。2株の竹が全国に拡大したように、薩摩から近代日本の礎となる技術が波及していったのである。
翌日、ガラス乾板に写し取った60枚の写真を梱包し、ウィルソンは鹿児島を後にした。そして3年後に再び日本の地を踏んだ時、真っ先に沖縄に足を運んでいる。仙巌園の竹林が、南の島へと彼の興味を誘(いざな)ったのかもしれない。
日本列島を北上してサハリン(樺太)まで樹を求め、花を探し、100年前の風景を採集して歩いたウィルソンの第一回日本横断旅行は年末まで続いた。
=おわり=
______________________________________
古居 智子著
______________________________________
転載元:南日本新聞 5月23日掲載分
悠久の時の中で、国と国との関係はめまぐるしく変わっていきます。
人と人。モノとモノとの交流も。
共に繁栄するには何ができるのかを想います。
い
いにしへの 道を聞きても 唱へても わが行ひにせずば かひなし
ろ
楼の上も はにふの小屋も 住む人の 心にこそは たかきいやしき
は
はかなくも 明日の命を たのむかな 今日も今日もと 学びをばせで
い
昔からの立派な教えをいくら聞いても、またどれだけ口先で唱えても、自分で実行しなければ何の役にも立たない。
ろ
二階造りの立派な家に住む人も、みすぼらしい小屋に住む人も、その住む所によって人の値打ちは定められるものではない。その人の心にこそ、尊い、いやしい、の区別があるのだ。
は
世の中には、今日は用事がある、今日は気分が悪いなどと言って、大事な学問を勉強せず、あてもなく、明日の日を頼みにしている人がいる。
に
自分と同じくらいの似たものを、友だちとしやすいものであるが(それは必ずしも身のためにならないから)せっかく友として交わるなら、学問や腕前が自分よりすぐれ、しかもおとなしい人を選ぶがよい。
※「交らば」の読み=ましはらは(まじわらば)
※おとなしき人とは、「大人らしき人」となり、人格の練れた人のことを意味する。大人な人。
ほ
仏や神は外におられるのではなく、各人の心の中におられるのだ(悪いことをしたら)世間の人々よりも、まず自分の心に恥ずかしく思うべきである。天地の神はどんなことでもよく知っているぞ。
へ
自分は下手だからといって、けいこ事一つであっても、気をゆるめ、なげだしてはならない。「ちりも積もれば山となる」という言葉もあるではないか。
と
例えば死刑にするような重罪人の場合でも、決して軽々しいさばき(裁判)をしてはならない。人を殺す刀もまたいかす刀も、君主の心一つになるのだ。(念には念を入れ、誤りがないようにせよ)
1914(大正3)年3月16日月曜日。ウィルソンは仙巌園(磯島津邸)を訪れた。桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた見事な借景の庭園は、鹿児島の旅の締めくくりにふさわしい場所であった。
仙巌園は1658(万治元)年、島津家19代当主光久が別邸として創建し、明治以降は本家の別邸となった。名前は中国の景勝地、龍虎(りゅうこ)山の仙岩にちなみ、中国古代の家屋を模した望獄楼など随所に中国の影響が見られる。園内には、国内外から移植された多様な樹木や花が配置され、温室も整備されていた。さながら、植物園のような趣向で、プラントハンターの目を楽しませてくれたに違いない。
ウィルソンが足を止めたのは、御殿東奥の石垣の前に立つ一本の大木だった。
「有名な島津のプリンスの庭で、初めてナギを見た」
後に論文に書いているように、針葉樹でありながら広葉樹のような幅の広い葉を持つナギの木が新鮮に映ったようだ。
この木は現在も変わらぬ佇まいで、清水の流れを見下ろす場所に立っている。そして、その足元で毎年春になると、やはり中国起源の「曲水の宴」と呼ばれる雅な歌会が開かれる。水流に運ばれる杯が詠み手の前を通り過ぎる間に短冊に和歌をしたためる伝統の行事である。21代当主吉貴(よしたか)が始めたとされるが、その後断絶。1959(昭和34)年に火山灰や土砂に埋もれていていた曲水の庭が発掘され、90年に宴が復活した。
幕末、28代当主斉彬はこの庭の池で菜種油を搾る水車を回し、望獄楼に装着したスイッチを入れて地雷を爆発させ、配管を施した石灯籠に日本初のガス燈を点火させた。島津家代々の別邸は文化継承の地であると同時に、先駆的な実験の場でもあった。海を越えて外国と交流してきた土地ならではの進取の気風が、時代を超えて息づいていた。
ナギは、凪に通じるところから、航海の平穏を祈る神木とされてきたという。この木の存在もまた、海洋国家薩摩のひとつの表象であったのかもしれない。
______________________________________
古居 智子 著
______________________________________
転載元:南日本新聞 5月9日掲載分
磯庭園にあるナギという木の話です。
ウィルソンが訪れた100年前に既に、高さ15メートル、周囲1.2メートルはあったそうです。
雄姿を保ち続けているというナギの木を見に行く、また楽しみがひとつ増えました。
ナギ(梛)
マツ目マキ科ナギ属
比較的温暖な場所に自生する。雌雄異株。
熊野神社及び熊野三山系の神社では神木とされ、一般的には雄雌一対が参道に植えられている。また、その名が凪に通じるとして特に船乗りに信仰されて葉を災難よけにお守り袋や鏡の裏などに入れる俗習がある。
神社の中には代用木としてモチノキが植えている場合もある。
(以上 Wikipediaより)
(クリックで拡大)
ー梛の雄花ー み熊野ネットの「梛(ナギ)|梛の木について」より転載
実はイヌマキに似ています♪
日曜の夕方は、くっくりさんの記事を読んでは泣き、夜九時からのドラマ「天皇の料理番」での「どやさ」のシーンを見ては笑い泣きして大変でした。
真心。素敵ですね。
ブログ「ぼやきくっくり」は、ネット巡りのきっかけを作ってくれたひとつです。E・S・モースの著作「日本その日その日」にはまっていたら、自然とお邪魔するようになって、それからです。
硫黄島(いおうとう)のくだりもそうですが、中継で安倍総理の後ろの一段上の議長席の方がハンカチをしきりに取り出していて、あちらの方だから、鼻風邪かなと単純に思っていたら、そうじゃなかったというくだりでもう泣くしかないという感じでした。安倍総理の演説がアメリカの人のハートに確かに届いたと知ったら、こちらの心の琴線にも触れてしまいます。
もうひとつ。
アメリカ訪問の前に、インドネシアにおいてのアジア=アフリカ会議に出席された安倍総理。合間を縫って、終戦後に起こった蘭英混合軍からの独立戦争をインドネシア人と共に戦った、日本人たちの墓前に献花をなさったそうです。あえてこの戦いのために残った日本人は二千人にのぼると言われています。
4月22日
カリバタ英雄墓地
カリバタ英雄墓地で
献花を行う安倍総理
ジャカルタ−アジア・アフリカ首脳会議の開会式を終えると、日本の安倍晋三首相はその日、カリバタ英雄墓地を訪問した。
「Okezone」の調べによれば、2015年4月22日水曜日午前10時頃、安倍首相はカリバタ英雄墓地に到着し、ジャカルタ管区司令部陸軍地方軍管区参謀長イブヌ准将に迎えられた。
遺族および補佐官が同行した今回のカリバタ英雄墓地訪問で、安倍首相はインドネシア人と共に独立戦争を戦った日本人の墓前に献花を行なった。その日本人の名は衛藤七男という。
カリバタ英雄墓地の管理者によれば、インドネシア独立戦争に参加した日本人28名が同墓地に埋葬されているという。
カリバタ英雄墓地の参拝を終えると、安倍首相は再びアジア・アフリカ首脳会議の行事に出席するために帰路についた。
Okezone, Rabu, 22 April 2015
PM Jepang Ziarahi Makam Pahlawan Kalibata
★ ★ ★ ★ ★
ジャカルタ−ジャカルタ・コンベンション・センター(JCC)で開催されたアジア・アフリカ会議開会式への出席を終えると、日本の安倍晋三首相はカリバタ英雄墓地を訪れた。首相は国家英雄に認定された日本兵の墓に献花を行なった。
2015年4月22日水曜日午前10時13分(インドネシア西部時間)カリバタ英雄墓地に到着した。この来訪は献花を予定する日本兵の親類に付き添われたものだった。
安倍首相は献花を行う前に、追悼曲が流れる中、英雄たちの墓前で黙とうを捧げた。黙とうを終えると、黒いスーツに青いネクタイを締めた安倍首相は日本出身の兵士たちが眠る一角へと向かった。
安倍首相は9つの墓に献花を行なった。献花を終えると、首相は厳重な警備の中、記帳場所へと向かった。10時40分、安倍首相はカリバタ英雄墓地を後にした。
献花に付き添ったヘリアントは衛藤七男という名の日本兵の子息のひとりだ。彼は安倍首相による父親の墓の訪問は誇らしいことだと話す。
「首相の訪問と献花は大変光栄なことです」とオレンジを基調としたバティックを着たヘリアントは語った。
ヘリアントによれば、日本兵であった父親はインドネシア国軍に加入し、インドネシアの独立を目指して連合軍と戦ったという。この戦いによって、ヘリアントの父親は勲章を受け、英雄墓地に埋葬された。
ヘリアントの他に、ヘンドリ・クロイワも安倍首相が日本兵の墓を訪問したことを嬉しく思うと話す。この出来事は、インドネシアの独立における日本兵の貢献の存在を証明したものだ。
「過去(小学校)に植民地支配者の息子として何度もいじめられてきました。いじめは私たちの父親もインドネシア独立に貢献したのだと同級生たちが気が付くまで続きました。1963年になって、彼ら(現地学校の友人)も分かってくれました」とヘンドリは語った。
Detik.com, Rabu, 22/04/2015 11:23 WIB
Peringatan 60 Tahun KAA: Ditemani Anak Veteran Jepang, PM Shinzo Abe Tabur Bunga di TMP Kalibata
その他の記事はこちらから。全て、インドネシアの報道機関によるものの翻訳となっています。
インドネシア雑記帳
http://indonesia-zakkicho.ldblog.jp/archives/28306428.html
この記事関連のコメントを抜粋します。安倍総理の心中はいかに。
岸信介(安倍総理の祖父)は昭和32年5月、東南アジア歴訪の旅に出た。
大戦の結果独立を果たした国々で、たいへん歓迎された。
「私は総理としてアメリカへ行くことを考えていた。それには東南アジアを先に回って、アメリカと交渉する場合に、孤立した日本ということではなしに、アジアを代表する日本にならなければいけない、という考えで行ったわけです。戦後は勿論誰も首相としてアジア諸国に行っていない。それらの国々の首脳と会って、アジアの将来を考え、アメリカとの関係を緊密にしなきゃならないと考えた。それでアメリカに行く前後に15ヶ国を二つに分けて回りました」
安倍首相はお祖父さんをお手本にしているとみえる。
そして硫黄島の栗林中将の孫にあたる新藤さんを連れてアメリカに行った。
(新藤義孝さんは、前総務大臣・現衆議院議員)
4月29日
ワシントンD.C. アメリカ合衆国議会議事堂
演説のタイトルは、「Toward an Alliance of Hope」。
訳すると「希望の同盟に向かって」。
「世界がもっと住みやすい良い所になるために、私たち2国は手を結び合おう」と呼び掛けている。
アメリカと日本が、「対等に」力を合わせれば、この世界はもっと良くなる、と提案している。
「Let the two of us, America and Japan, join our hands together and do our best to make the world a better, a much better, place to live.」
ここで、演説の背景を見てみます。
中国は中華思想が続いている。その行いから目をそらすために、日本は今でも歴史を「修正」して「戦後秩序」を引っくり返そうとしているとの嘘の宣伝を展開することによって、「悪いのは日本であって中国ではない」との国際世論を作り上げるのを目的としている。
実際そうなのか?そうではない。
日本は中韓に捏造された歴史は修正し、日本自らが隠した歴史は取り戻して、戦後レジーム(体制)から抜け出そうとしているのだ。
私たちは歴史の流れに埋もれようとしているお互いの国のために戦った英雄達を忘れてはならない。今から世界の秩序を守るため、また、日本が目指して来たアジアの平和と繁栄が適うよう、共に手を結びませんか。でも今までとは違いますよ。あくまで対等に、ですよ。
アメリカの立場を尊重し、熾烈な歴史を思い、和解を求め、その上での提案。そんな安倍総理の歴史に残るであろう演説でした。
例えば、ローラバッカー共和党下院議員はこう評価したそうです。
「レーガン元大統領のスピーチ・ライターだった経験から、Aプラスを与えられる。歴史問題を威厳ある形で語った。第二次大戦に関し、首相はもう卑屈な態度を取る必要はない」
くっくりさんの演説に関する元の記事はこちらです。
ぼやきくっくり
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1716.html
]]>
東のはしの小さな島国と、西のはしの大きな国に、人は何かを求めて辿り着いた。
人類の理想の、かたや古来からの道徳や武士道、かたや若々しい正義や希望。
このふたつが広い海を越えて結び付けば何だってできる。
今日は「歴史の試練」を乗り越えて、「対等に」付き合うことができるという記念の日。
新たな同盟。希望の同盟。
と、日頃、アルフレッド・アメリカがどうしようもなく好きな私としては、大風呂敷を広げたくなる演説でした。
小泉政権下の時、初めて、ああ、日本はアメリカに負けたんだと思ったことを思い出します。それは既に過去のことだと思っていたのに。
この日の演説では、過去を乗り越えた、同盟の形が示されていました。「アメリカに期待されるのは、過去も今も未来も、希望を作り出すことである。この同盟をこう呼ぼう。希望の同盟と」。「アメリカ」の心をくすぐる最後の言葉。
夢みたいです、安倍政権。
そしてこちらはそんなこんなでヘタリア熱が再燃して見つけた動画です。凄いです。
主に米露の先の大戦から冷戦までを時間軸で追った、えと、MMDという技術が入った動画だそうです。ほんとに凄いです。
自由の国「アメリカ」と、酷寒の大地に広がる国「ロシア」。
過酷な潮流を切り抜けて来たこの世界。「日本」はこれから、何ができるでしょうか。
【第12回MMD杯本選遅刻組】 まだ見ぬ明日へ 【APヘタリアMMD-PV合作】
他の「国」の補足を少し。
眉毛が太くてしょうがないなという仕草を垣間見せるのが「イギリス」です。
そして、気取ってる長髪のお兄さんが「フランス」です。
彼ら連合軍に追いつめられた二人組は「ドイツ」と「プロイセン」。
「プロイセン」は、「ドイツ」の兄貴で、少しずつ領土を減らしながらドイツに溶け込み、大戦中は、ナチ党政権下に置かれました。そして終戦後はその一部が東ドイツとなります。
人気記事5選
]]>女性のエンパワーメント
女性を勇気づけ、社会へ貢献し、充実した生活を送るために後押しすること
「男女共同参画社会」
男性と女性と、「責任」を等しく分かち合う社会
女性のエンパワーメントをもう少し詳しく
・自己決定しながら、生きていく力を身に付けること
・自ら考え、選択する
・女性が活躍するために必要なもの
「自分で考え、自分で物事を決める習慣」
「多角的な視点やリテラシーを身に付ける」
「他人とつながる力」
「男女共同参画社会」基本は今までとそう変わらない?
経済面から女性の活躍を期待する社会。社会からのアプローチとしては、仕事中心か、家庭中心か個々に選べる環境を作る。男女を問わず、勤務時間が超過しない手立てが必要。
編集者の後書きから
生活に密着するものは様々である。働くこと。地域との関わり。家族や友人との時間。プライベートな時間。
その中で、女性が自分らしい生き方ができるように。また、男性も生きやすい社会であるように。
実際、自分も編集者と同じところで悩みながら日々を送っているので、思わず膝を打つような特集でした。
仕事が充実していても、誰も家に日中いなければ本末転倒に感じます。家を守るために仕事をしているのだから。主婦でも、わたしは主夫でもいいと思うのですけど、平日にも誰かいないと、近所にも申し訳ない。地域活動もままならない。
それよりは、ここに書かれているようにお互い協力して役割分担しながら、したいこと、やらなければいけないことをちゃんとこなしていく方が、充実したあるべき生き方だと思うのです。
「責任」を分け合うってすごくいい捉え方ですね。性に合っています。
という訳で、今は仕事のほうは一休みして家にいる日が多い中、これからの事を考える日々を送っています。「主婦」という言葉も改めて見ると素敵です。うん素敵。
「時間」(時間軸)を意識できるのは、人間だけだそうです。人生設計は大事。自分にできることがあるならやらなければ。
震災から4年。
九州電力からは、国の電力需給検証小委員会の意見も受け、川内原発が再稼働した場合の試算が初めて発表されました。需要が高まる夏に間に合いそうなのは、厳しい審査をひとつひとつクリアしてきた成果です。
九電からの送電のうち、補強された電源を書き出してみます。
火力は、今だフル回転です。昨年3月のタービン落下から復旧する電源開発の松浦火力発電所2号機(長崎県、100万Kw(キロワット:時間当たり以下同))の存在が心強い。火力によって九電に卸される電力(受電)は、合計46万Kw増の234万Kwの見込みです。
太陽光の供給力は66万Kwと昨年から倍増しています。
それでも、もし原発が再稼働しないとなると猛暑だった場合の需要に対する供給力は、マイナス2.3%と少し足りない。突発的な停電を防ぐためには最低3%の予備率が要求されます。ここ数年続けられて来た中国電力や中部電力からの融通に頼るしかありません。
再稼働すれば、自力で電力確保できます。一基のみで、予備率は5.1%。二基とも間に合えば10.9%と上昇します。
ちなみに同じく原発の再稼働を想定して準備を進めている関西電力は、今年は間に合わず、単独での予備率は0.8%となっています。こうして見ると、他国のような大きな停電が震災後から今までないということは、そうはさせまいという隠された幾多の努力を思わせます。
[九州電力2015年夏]
2013年並みの猛暑下での電力需要予測 1643万Kw(時間当たり)
川内は、原子力規制庁による現地での使用前検査に入っています。早ければ7月上旬に1号機の再稼働である発電が始まり、8月中に国の最終試験を受けて本格的な営業運転に入る予定です。
審査申請から再稼働までのサイクルが長いので、記事を追っていくのもなかなか大変です。言葉が難しいので、この審査や検査はどこの段階か大まかでもいいのかもしれませんが、川内原発が先鞭をつけるなら、流れを整理するのも価値があるのかもしれません。ここで、まとめてみます。あくまで大まかなものです。ご容赦。
〜原子力発電の再稼働手続きの流れ(カッコ内は川内原発関連日付等)〜
「原子力規制委員会による審査」
●審査申請書提出(2013年7月)
●新規制基準に基づく審査
↓適合・合格(2014年9月)
●住民説明会:審査内容の報告(2014年10月〜)
●工事計画の補正書審査(設備や機器の詳細設計)
●保安規定の補正書類審査(運転管理体制)
↓記載内容への要求高く提出難航(2月時点で計6万ページ弱)
「原子力規制庁による使用前検査」
●現地での使用前検査(2015年3月末〜)通常1〜2ヶ月
↓
「再稼働」
日本のエネルギー内での原子力の位置付けについて、私の一考察はこちらまで。
毎日のようにのぞいてくださる方から力をもらい、ここでもう一度取り上げさせてください。
こんな細々ブログに来てくださる、ありがたいです。FUKUSHIMA50を訪問してくださる方も。感謝しています。
新規制基準やその審査結果についてはこちら。薩摩川内市での住民説明会で、要旨が述べられています。
原発については色々な考え方があると思います。訪れた方の考えが深まる一助になれば幸いです。
]]>
言の葉に意志を込めて発すれば、それは言霊となります。
思い浮かぶのは、舒明天皇の詠まれた国見の歌。のちに万葉集に撰ばれた御製歌です。
天皇 香具山に上りて望国したまふ時の御製歌
大和には群山あれどとりよろふ
天の香具山登り立ち 国見をすれば
国原はけぶり(煙)立ち立つ
海原はかまめ(鴎)立ち立つ
美味し国そ 秋津島 大和の国は
先の天皇、推古天皇が崩御された時、国は全く疲弊していました。繰り返される長雨と旱魃。その遺言は「この頃五穀が実らず、百姓は大いに飢えている。私のために陵を建てて葬ってはならぬ。ただ竹田皇子の陵に葬ればよい」という民心に寄り添うものでした。
「日本書紀」から
626年は1月に桃や李の花が咲いた。かと思えば一転して寒くなり、3月に霜が降り、6月に雪が降った。この極端な冷夏の上に、3月から7月まで長雨が降り、天下は大いに飢えた。627年には4月の10日と11日に続けて桃や李の実ほどもある雹が降った。そして春から夏まで旱魃が続いた。推古天皇が遺言を残し世を去ったのは翌年の4月のことだった。
参考Web:歴史を変える気候変動「535年の大噴火」
その推古天皇から皇位を継いだ時、舒明天皇の胸の内に期するものは何だったのでしょうか。
天皇は祭司でもあります。その天皇が詠む国見の歌。国見とは元々民間にあった、花見や山遊びなど年頭や春に秋の豊穣につながる呪的景物を見てその年の豊作を祝す習慣のことでした。いつしか天皇がこれを取り入れ、しかる場所で国を眺める儀式となります。即位の儀式の一環として、国の繁栄を予祝することもありました。そういう立場である天皇が言祝いだこの時の風景は、目の前に広がる平野のみならず日本の大地そのものへの祈りだったに違いありません。
大和の国よ、豊かであれと、香具山の上から辺り一帯を遠く眺めながら舒明天皇は祈りを込め詠い上げたのです。
《原文》
高市岡本宮御宇天皇代 [息長足日廣額天皇]
天皇登香具山望國之時御製歌
山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者
國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜A國曽 蜻嶋 八間跡能國者
(A) 外字:扁[忄(りっしんべん)]+旁[可]
原文に倣うと「あきつしま」は蜻蛉島と記するべきところ、秋津島とさせて頂きました。この歌を初めて目にした時のままで載せたかったゆえです。意味はどちらも大和の国を指します。蜻蛉島はトンボが飛び交う国のこと。トンボは五穀豊穣につながる穀霊の象徴でした。
『新田神社(薩摩川内市)』
1914(大正3)年2月14日午後。川内川に架かる開戸橋を渡ると、前方に亀の形をした森が現れた。標高70メートルの神亀(しんき)山である。西に頭を突き出した亀の左側面から甲羅の上まで、322段の石段が続く。
霧島からこの地に来た瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、千台(うてな・高殿)を築いたのが、川内の地名の謂われとされる。尊の陵(可愛(えの)山陵)の祭祀をつかさどった新田神社の創建は、はるか神代(かみよ)までさかのぼる。もとの社殿が焼失した後に、島津義弘公により陵のある神亀山頂に現社殿が造られた。
中腹まで石段を上りつめた時のことだった。スギ、マツ、クスの大樹が立ち並ぶトンネルの先に旧社殿跡の平地が開け、白く煙る花がすみが目に飛び込んできた。春の陽光を受けて咲き誇るヤマザクラであった。ウィルソンは道の中ほどに三脚を立てると。前後2枚の連続写真を撮った。
600種を超えるサクラの学名は複数の表記が存在するものがあり、分類も諸説に分かれるが、米国農務省見解のヤマザクラの正名にはウィルソンの名前がついている。つまり、命名者はウィルソンとされ、最初にその栄誉に浴したのが新田神社の木ということになる。残念ながら、昭和30年代にこの平地を横切るかたちで車道が整備され、ヤマザクラの木立は失われた。華やかな色に染まるソメイヨシノの横で、老木の株から育った若木が1本、楚々とした風情を見せている。
江戸生まれの園芸品種ソメイヨシノは、接ぎ木で簡単に増やせ成長も早いことから、戦後になって爆発的な勢いで全国に広がった。しかし古来、和歌や俳句で詠われた日本のサクラといえばヤマザクラであった。穀物の神が宿るともいわれ、稲作との関係も深い。赤っぽい若葉とともに春を告げる淡紅色の花弁は、薩摩の田園風景によく似合う。
余談だが、ウィルソンは1916年発表の論文「日本のサクラ」で、ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの交雑種であるという自説を提唱。日本人の手でその仮説の正しさが実証されたのは、47年後のことだった。
______________________________________
古居 智子 著
______________________________________
転載元:南日本新聞 4月11日掲載分
]]>
*.。長徳三年(997)道長数えで32歳
この年の十月一日の孟冬旬の宴の最中、太宰府からの飛駅言上を取り次いだ近衛官人は、高麗の来寇を叫んだ。上下の者は驚愕し、道長をはじめとする三大臣は度を失って紫宸殿の東の階を降り、太宰大弐藤原有国の書状を読んだ。座を立つことなく冷静に対処した実資は、これを冷ややかに見ている。
結局これは奄美海賊の九州乱入に過ぎなかった。
*.。道長と一条天皇のぎくしゃくした関係
病弱でたびたび床に伏せる道長は、その都度、辞表や出家を一条天皇に申し出て困らせた。病脳平癒を期すという意味合いはもちろんある。だが、道長の本心は一条天皇の自分への信任を再確認しているだけというのを、若い天皇は汲み取ることができなかった。「弱気にならずとも。病体は邪気の引き起こすもの。そのままでいてくれ。」「ただその気持ちは受けとろう、出家するなら治癒してからでは如何か」となだめる一条天皇であった。心中複雑な様子の道長。
*.。長保元年(999)
秋、娘の彰子が一条天皇の元に入内するにあたり、道長は調度品の四尺屏風に貼るための和歌を人々に詠ませた。数人の公卿や花山法皇までもが和歌を贈る中、実資は「大臣の命を受けて、屏風に歌をつくるなぞ、未だに前聞なし」と断り続け、「きっと道長は不快であろうか」と気にしつつも「これは追従しているようなもの。一家の風は、どうしてこのようなものであろうか。嗟乎(ああ)、痛いことよ」と嘆いている。
*.。寛弘三年(1006)
大和守、源頼親の配下の当麻(たいまの)為頼と、興福寺の僧蓮聖との間の田をめぐる紛争に対し、大和国が蓮聖を提訴した。それに対して道長が下した判断は、蓮聖の公請(くじょう)の停止であった(僧が朝廷にて行う法会や講義からの閉め出し)。
これを一方的な措置とする興福寺の大衆(だいしゅ:僧兵)が沸騰する。七月七日に提出した愁状が返却されたのを承けて、十二日に三千人が大挙して上京してきた。
同日、興福寺別当の定澄が道長に脅しをかけたが、道長は全く屈しない。深夜には、僧達は京近くの木幡山に二千人を集めていることを知らせてきた。
翌十三日、実資を初めとする十人の公卿が道長の住まいを訪れ、口々に不安を口にするが、道長は「大した事はない。陣の定め(通常の評議)が開かれることになっている。内裏に参られよ」と語り皆と同行して内裏に参った。
通常の政務が終わるとその後に、朝堂院に参集している大衆を検非違使(けびいし)を遣わして追い立てるという宣旨を下した。告げられたものは次のとおり。「僧達が参上しているというのは道理が無い。早く奈良にまかり還った後、愁訴したいことあれば、僧綱が訴えるように。もしこのような事が有ったのならば不都合ではないか」。
十四日には、大衆はすべて退去した。十五日に別当以下の高僧が道長の住まいを訪れ、道長が彼らの申文四箇条を一々裁定したところ、僧達は道長の裁定が事毎に道理であると称して還り去った。
中世の僧兵や、それに対する朝廷の対応と比べると、隔世の感がある。
*.。長和元年(1012)
三条天皇の世になって早々、明けて正月三日、女御となっていた次女の妍子を中宮にせよとの宣旨が天皇から道長のもとへもたらされた。二月十四日に、妍子は立后の日を迎える。
三月に入ると、今度は天皇の寵愛深き女御娍子を皇后とすることを決断する。すでに第一皇子を初め、六人の皇子女を儲けていたとはいえ、大臣の後ろ盾のない者を皇后にすることは平安時代にはまれなことであった(他には一例しかない)。天皇の方から「一帝二后」を提案するとは何としたことだろう。
道長は対抗する。娍子の立后の日に、妍子の初の内裏へ参入する入内の日をぶつけてきた。入内前後の響宴に公卿達は集まり、出席を促しに来た使者へ酒の上とはいえ、瓦礫を投げつける参議もいる始末。
実資はこの日は病身の身であったが、「天に二日なし、土に両主なし。なんの巨害(道長)を怖るることあらん」と床を抜け出し参入した。
結局、娍子立后の為に内裏に集まった公卿は実資の他、藤原隆家・懐平・通任(娍子の異母弟)の四人のみとなり、寂しい儀式となった。
*.。道長の病脳
同年五月末から道長は重く病脳した。
六月四日には、内覧と左大臣の辞表を奏上した。一条天皇とのやりとりに慣れきっていた道長にとって、二度目の上表を三条天皇が受けとったまま返却しないことは衝撃だった。「命を惜しむものではないが、一条を失った娘、彰子のことだけが気掛かりである」と涙ながらに実資に語っている。
六月末には、道長の病脳を喜悦している公卿が五人いるとの噂が広がっていた。先の四人に加え、道長の兄の道綱までがということであった。道長は「道綱と実資に限ってそういうことはない」と述べて、噂を立てられた以上運を天に任せるしかないと嘆息していた実資を安堵させている。
*.。道長の三条天皇への思い
一本気な三条天皇と道長は譲位が成立するその時まで対立が止むことはなかった。三条天皇は何とか親政に戻したいとの意志を持ち続けていた。そうでなければ愚頑であると。そのために命を長らえたいと娍子の立后の儀式の後に実資に語っている。
寛仁元年(1017)の五月九日深夜、流行り病に罹っていた三条院は崩御された。
道長は臨終に際して御側に仕えることなく、「ただいま無力にあらせられます」と聞くや地面に降り立った。そして崩御の後に退出している。
十二日に行われた葬送では、道長はきわめて手際よく準備を整えたものの供奉しなかった。記すところには「志がなかったわけではない。身に任せなかったのである」と。なお、翌年の三条院の周忌法要の際には、「私は病脳していたので自らは参らなかった。嘆き思うことは少なくなかった」と「御堂関白記」に記している。
*.。刀伊の入寇
ここに藤原隆家あり。若い頃から天下の「さがな者」(荒くれ者)であった。叔父であり、政敵でもある道長から「こころたましい」(気概)は見上げたものと認められ、世間一般からも道長の権力に屈せず娍子の立后の儀式に参加した気骨者とされた。
眼病の治療と道長の圧迫から逃れるため、遠地での任務に心ひかれ、実資の勧めや同じく眼病に悩む三条天皇のいたわりにより、長和三年(1014)に太宰府の実質の長官である、大宰権帥に任じられた。
寛仁三年(1019)に刀伊の入寇が起こる。女真族(満州民族)の一派とみられる海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前へ侵入した事件である。これを隆家は見事、撃退する。
その後、部下への恩賞を懇請した隆家の申し出に対し、朝廷にて諸国申請雑事定が行われた。道長へのおもねりに加え、各地の在庁官人や豪族が日増しに武力を増す現状に危機感を覚える大納言公任や中納言行成は、追討の勅符の到着を待たずに戦った隆家の行いに対して文官統治の観点から、「私闘である」と異議を唱える。これに対し、実資は問題があったことは認めつつも「今回の事件は、外敵が警固所に肉薄し、各島人が千人余りも誘拐され、数百人が殺された。壱岐の守藤原理忠も戦死した。しかし、太宰府は直ちに軍を動かしてこれを撃攘せしめた。何故に賞さないことがあろうか。もし賞さなければ、今後進んで事に当たる勇士はいなくなってしまうであろう」と弁じ立てる。
これに公卿達は次々に同意した。ついに皆意見を同じくし褒賞が決議された。当時既に出家し、摂政を息子の頼通に譲っていた道長もこれを是としている。
実資はこの時、右大臣に任じられるかどうかの大切な時期であったが、付和雷同することなく、ものごとの道理を滔々と述べている。
道長の取った道は全て褒められたものとは言えないかもしれません。ただ、そう、ここで私が何か言うことは蛇足になりましょう。
道長の和歌にまつわるエントリーはひとまずこれにて。
参考書籍:倉本一宏「藤原道長の権力と欲望」文春新書
参考Web:Wikipedia(フリー百科事典)
人気記事5選
]]>この世をば わが世とぞおもふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
祝いの宴にて。
「道長公、威子殿まで中宮となられるとはめでたさこの上なし」
「さかし、朝廷を支えこの世を謳歌した我が身の上は…」
盃にうつる月を見ることしばし。
「実資殿よ、あの月を見よ」
「ほんに、今宵の月は見事な満月で。いい月夜ですな」
「いや、思うていたのはそうではなく…明日からは細るばかりと知らぬは月ばかり」
「道長公?」
「まろに似てると思うてな。ふむ、一首できたぞ」短冊に筆を走らせる。
・・・
「どうだ、実資殿。歌で和してみよ」
「道長公、勘弁くだされ。かかるこまやかなる歌には応へらるまじ」
「わはは、すまぬ。今後とも何とぞ頼む。いい歌ができた。皆で誦してくれい」
にっこり笑うと道長は袂を払った。
「これもわが人生。今宵の景色はこの目に焼き付けておこうぞ。ささ、酒をついでおくれ」
千年の時を超えて、この歌を詠んだ時の道長の気持ちを捉えることはなかなか容易ではありません。
織物の横と縦の糸に例えてみます。
横の糸はおのれの家や家族です。藤原冬嗣(ふゆつぐ)が藤原氏による摂関政治を確立してから100年、生まれてきた時からその環境に置かれた道長にとって、摂政や関白を目指すのはごく自然のことでした。そこでは兄弟や甥でさえ、政敵でした。
縦の糸は守るべき国体です。藤原氏の祖である中臣鎌足から受け継がれてきた精神です。国体とは天皇そのものでもありますし、天皇が守ってきたものとも言えます。
織り上げていくものは何でしょう。
ひとつは、はとこの藤原実資の存在です。傍流の九条流生まれの道長に比べて藤原北家嫡流の小野宮流家領を継いだ実資はより朝廷内の作法や法令などの故実に明るく、それだけに事あるたびに道長に子うるさく批難する人でした。その視点は道長がどれほど力を持とうがいつも公明正大を求めるものでした。
主に実資の日記「小右記」に書かれている道長への批判から窺い知ることができるもので、当時の公家の日記は、実際の作法や儀式を後世へ伝える公式的な面がありましたから(※)、実資の日記も広く読まれていました。道長も目にしていたに違いありません。それなのに仲違いがなかったのは、道長の面前でもその姿勢は変えていなかったからでしょう。
むしろ、当時から道長の批判者として知られながらも、日常生活ではお互いに一目置き、きわめて親密な関係を築いていました。
もうひとつは道長自身の矜持です。それは時に甥である三条天皇へさえ向けられるものでした。道長が「一家三后」と呼ばれる地位にのぼりつめることで、余計な政敵同士の争いを避けることもできます。宮廷社会の安定は周りの公卿達も望むものでした。ある時から、その安定の中心に道長がいることが求められました。そのことは知らず自覚していたでしょう。
若い時から、気前よく自らの衣を脱いでは下賜したり、官人の夜食を調達したり、豪放磊落な面は人を惹き付けました。その都度、実資の批難の元になりましたのはご想像のとおり。並ぶものなしとなってもよく泣き、よく怒る。機転もよい。魅力的な人であったことが窺い知れます。
そして道長は権力の大半は手にしたかもしれませんが、天皇の権威を奪うことはぎりぎり避けることができました。それゆえの文化が華開いた穏やかな治世がそこにありました。
祝宴の夜、実資へ話しかけた時にあった。
中臣鎌足から受け継がれる精神を守り、国体を守れたことへの安堵感。
そこには暴走しないように小言を続けてきた変わらぬ実資への感謝も込められていた。
時のあはれ。
実資への感謝。
力を尽くすことができた安堵。
胸に去来する様々な思い。昂然と湧き上がる。
月としてこれ以上ない最高の輝きを得た。
いつの間にか人生の極みに来たようだ。されど、後悔はなし。
※道長の「御堂関白記」は当時の日記の中では珍しく、私的な日記として知られています。
]]>道長の和歌の現代語訳を再掲します。
(訳)この世を我が世と思う満月は、欠けていることもまたないと思うので
定子や三条天皇に対する態度など、ひどい行いが多々ある道長ですが、それでものし上がった経緯を見ると、策略とかではなく、周りに好かれて中心に登っていった様子が伺えます。
器量も知性もある人が、体調の悪さを自覚して尚、自分を省みることなく横柄な歌を詠むのか、あるいは文学を愛する人が、まるで話し言葉そのままのような和歌を自慢げに詠むのか。どうしても、この和歌の一般的な解釈への違和感があるのです。そこを起点に考察してきました。
私の提唱する解釈はこうなります。
この歌は満月のふたつの面を詠った歌で、そこに道長自身を重ね合わせた。
満月は、夜をあまねく照らす存在。と同時に欠けているところがないということを取り立てて指すことで、翌日からは細くなっていく定めを強調している。
(意訳)この世を我が世とばかりに煌煌と照らすあの満月は、まるで今の私のようだ。と同時に、欠けていることもなく極めた状態と思うので、明日からは細くなるばかりの運命をおのずと重ねるのだ。
そこにあったのは嘆きでしょうか。誇りでしょうか。
「小右記」には当初の引用より、もう少し長い祝宴の日の道長と実資のやりとりが書かれています。
今回は、原文のまま記載してみます。
今日、女御藤原威子を以て、皇后に立つるの日なり。(中略)太閤、下官を招き呼びて云はく、「和歌を読まんと欲す。必ず和すべし」てへり。答へて云はく、「何ぞ和し奉らざらんや」と。又云はく、「誇りたる歌になむ有る。但し宿構に非ず」てへり。
此の世をば我が世とぞ思ふ望月の虧(かけ)たる事も無しと思へば
余申して云ふ、「御歌優美なり。酬答するに方なし。満座只だ此の御歌を誦すべし」。
【語釈】◇女御藤原威子 道長の娘で、後一条天皇の女御。◇太閤 道長。◇下官 著者実資を指す。◇宿構 前以て詩文を用意すること。「宿構に非ず」とは、この歌が即興であるということ。◇酬答するに方なし (御歌が優美過ぎて)私には報和するすべもありません、の意。
【補記】原文は和歌以外は漢語(日本風の変体漢文)。なお当歌は『袋草紙』『続古事談』などにも道長の作として見える。
引用元サイト:「やまとうた」の 千人万首ーよよのうたびとー
何も知らず光り輝くまん丸の月を眺めながら、道長は誇らしげでした。
何故に。
考察はもう少し続きそうです。
明治の初めに「月」にまつわる大きな改革がこの国でありました。
太陽暦の採用。生活に密着する「暦」の根本的な変更です。
それまでの暦は、太陰太陽暦でした。
特に長く日本で使われてきたのは、宣明暦という太陰太陽歴です。
この暦は、9世紀半ばの862年から江戸時代の1685年まで使われてきました。
その頃の暮らしに関わる月の役割は現代とは大きく異なっていました。
太陰太陽暦は、新月から次の新月までの大体29日から30日をひと月とする暦です。1年は12月からなります。季節の巡りと合わせるよう、年によってはうるう月がありました。
太陽暦の元で暮らす私たちにとっては、月は時に明るく夜を照らしてくれる美しき天体です。
ただ暦とは関係なく、いつの間にか欠け、いつの間にか満ちていきます。
月を愛でる感性は受け継がれ、十五夜は今も特別。しかし、暦とは関係はありません。
一方、月の満ち欠けを暦と結びつけていた時代、人は月を暦として見ることで、より身近な存在としていました。
十六夜なのか、満月なのか、目を凝らさなければなかなか区別がつきません。
満月だと見分けた時、同時に明日からまた欠けていくことをどこかで意識していたはずです。
戦国の世の月がそうなのなら、平安の世の人々にとってもまた同じ存在だったに違いありません。
平安時代の暦に関しては、mshibataさんのブログに詳しく書かれています。
「年の内に春は来にけり」はどういうことなのか、など、分かり易くて、とても面白いので、ご興味のある方はぜひ。
.。*゚+.*.。 月にまつわる和歌の中から ゚+..。*゚+
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 安倍仲麿
『古今集』羈旅の部に「唐土にて月を見て詠める」という題でこの歌がのせられている。日本に帰ろうと明州から船出をする時、海上の月を見て詠んだ歌。
安倍仲麿は16歳で遣唐使の中の留学生として唐に渡ったのち、ひとり唐に残り、玄宗皇帝に仕えた。
32年後に、吉備真備らとともに遣唐使に交じり帰朝しようといとまを請い、明州から船出をしたが、藤原清河とともに暴風雨に遭い遠く流され、故郷へ帰ろうという望みは叶わなかった。
唐へ帰ると、皆船が沈んで死んだものと思って、李白なども「日本晁卿辞帝都、片帆百里繞蓬壺、明月不帰沈碧海、白雲秋色満蒼梧」という詩を作って嘆いていたところだったので、無事に帰った姿を見て皆喜んでかれらを迎えた(蓬壺=蓬莱山 蒼梧は湘南省にある山)。
のちはかくて玄宗に再び仕え、今のベトナムの総督などを歴任し、その息子とともについに日本に帰らなかった。
(参考:「百人一首物語」 吉井 勇著)
]]>
現代で暮らす我々にとっても、月は満ち欠けしていく存在です。
と同時に満月は、十五夜に代表されるように愛でるものでもあります。
いくらか遡って、戦国時代の人々にとってはどうでしょうか。
鹿児島には、戦国時代に生きた日新公という武士が残したいろは歌があります。
日新公は、島津家中興の祖。あの島津四兄弟の祖父となる人です。
このいろは歌集は、47句からなり、特に若者への戒めのために書かれました。
その末句はこういう句です。
少しきを足れりとも知れ 満ちぬれば 月もほどなき 十六夜のそら
(まだ少し足りなくても満足するがよい。月も満月になれば翌日からは、十六夜の月となって欠け始める)
戦国時代初期に生きる日新公にとって、満月はじきに欠けていく存在だった。
満月を見る時、その美しさを愛でると同時に、はかない存在であると感じていたのです。
.。*゚+.*.。 小話 ゚+..。*゚+
月の呼び名は細かくつけられています。
「十六夜(いざよい)」は、十五夜(満月)の次の日に昇る月のこと。「いざよう」、つまり前の晩より少し遅れてためらいがちに昇ることからこの名が付けられています。
順々に、「立待月(たちまちづき)」、「居待月(いまちづき)」、「寝待月(ねまちづき)」と続きます。寝待月は、おおまか旧暦19日目の月のこと。待ちくたびれて横になる頃にやっと昇るから、こういう風に名付けられたのですね。
その次の日の月は、「更待月(ふけまちづき)」。そして、22〜23日に半月の「下弦の月」となり、ちょうど日の出の頃に南の空にかかります。
]]>
古文は平安初期の口語と言われています。だから、紐解けばそんなに難解なものではないはず。
とはいっても現代語と重なる部分もあるだけに、訳すまでは神経を使います。
では、いざ。
この世をば 我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることも なしと思へば
「〜をば」 【格助詞】「を」+【係助詞】「は」の濁音化した形。
「ば」で取り立てて強調する
「〜ぞ」 【係助詞】
《接続》文中にある場合の意味は[強意]
「望月」(もちづき)
【名詞】満月
「〜たる」 「〜たり」の連体形
「〜たり」 【助動詞】
[完了(〜た・〜してしまった)][存続][並列]を表す(ラ変形)
cf.)体言(名詞など)+「〜たり」(タリ活用形)→[断定]を表す
「〜も」 【係助詞】
《接続》体言(名詞など)や種々の語に付く
[列挙・並列][添加(〜もまた)][類推(〜さえ)]などを表す
「思へば」 【動詞】「思ふ」の已然形の「思へ」+【接続助詞】「〜ば」
→[確定条件]を表す(〜なので)
cf.)未然形「思は」+「〜ば」→[仮定]を表す(もし〜ならば)
強調のための助詞がふたつも入っていますね。特に「〜ぞ」は字余りになるのにあえて挿んでいるのが興味深いところです。
直訳すると、大体こうでしょうか。
(訳)この世を我が世と思う満月は、欠けていることもまたないと思うので
即興の歌らしく、飾り気がなくすっきりしています。
何となく、月を冷静に観察している、そういう風にも感じられます。
この訳文を基に次回からもう一度、その時の道長の思いを重ねて読んでいきます。
前回は、背景の中でも、道長個人の経歴や知己との関係に焦点を当ててみました。次回は、この時代の文化や習慣に思いを馳せたいと思います。平安の人々にとって、「月」とはどういう存在だったのでしょうか。
(追記)
字余りについて、mshibataさんからご指摘頂きました。
古今集にある和歌など、平安時代の和歌には、「◯◯◯とぞおもふ」という歌がよくあるそうです。そして、当時の詠い方の流儀では音のうえでは他の七音句と同じ調子で詠まれていたと推測されるので、字余りという意識は当時の人にとってはなかったのではないか。そうならば、これは作歌上の意図的な「破格」とは見ないほうが賢明ですよ、とのことでした。
]]>
______________________________________
熱い、熱い。何もかも燃えている。私をおんぶしている母の背中が揺れているー。
私は3歳だった。私がこの世に現れた呉の街には戦艦大和を造っていた港があったから、空襲はすさまじいものだった。この日、空襲警報が鳴り、一家4人で防空壕に避難した。隣には私と同じように、お母さんに抱っこされた子がいた。狭い穴に大勢の人間たち。酸素が少なくなって窒息した。
おふくろはそれを見ていきなり立ち上がり、私をおんぶして隣の防空壕へ逃げようとした。外は爆弾が降っていた。兄貴たちは泣きながら母の後を追った。500メートルぐらいの距離を必死に走る母。その背中が、私の生涯最初の記憶である。前に入っていた防空壕は直撃弾を食らって全員即死だったそうである。母の果断が私たちを救った。
その後、私は一人ぼっちで広島の田舎に預けられた。やがて呉の街にも「日本は戦争で負けるらしい」といううわさが届き、母は私に会いに来る決心をした。呉から広島まで来て列車を乗り換えるのだが、広島の友人を訪ねるかどうか迷った。「やはり子どもに会う方が先だ」と思い直し列車に乗った。1時間後に原爆が炸裂した。8月6日だったのである。友人が住んでいたのは爆心地から約1キロの所。1家7人全滅だったという。
私が幼い頃、母は私を膝に乗せて「あの時はお前がいたから助かった」と繰り返した。私は極めて冷静で「いや、それは違うな」と思っていた。なぜなら、私がいなければ母はその日広島へでかけていなかっただろうから。私は母を救ったのではなく、危ない目に遭わせたのだと感じていた。しかし母の涙が、私にそれを言わせなかった。そして私がその矛盾を告げないうちに、母は逝った。もうあの世で言うしか手はない。
戦後になると、進駐軍の記憶もある。呉にはオーストラリア兵がたくさんいた。彼らはジープで走りながら、チューイングガムやチョコレートなどを投げていた。呉の子供たちはそれを腹ばいになって拾い、汚れた土を払って食べた。私の家庭の雰囲気から「そういうことはしてはいけない」とは感じていたが、友だちが食べているのを見て、おいしそうだなと。それで親の目を盗んで時々拾っていた。ある日、食べきれなくて帰ってから陰で食べていたら、親父に見つかった。「お前、何を食っている」と言われ、そっと手を出して「チョコレート」と答えた。すると親父は、チョコレートをバシンとたたき落とした。親父は非常に穏やかな男だったので、本当にびっくりした。
それで「どうして食べちゃいけないのか」と思って父に尋ねたら、「それは、日本人の矜持である」と。小学校低学年の私には「矜持」という言葉の意味が分からない。怖い顔の父を避けて、母に聞いたところ、「ひらがなは読めるでしょ?これで調べなさい」と言って、国語辞典を私に手渡した。すごく時間がかかった記憶があるが、いくつかある「きょうじ」の中で、これかなと思えたのは、プライドとか誇りという意味。空爆の時の出来事や原爆の姿、チョコレートの味は自分の心の中に深く刻みつけられ、生きていくプロセスでも、大きな役割を果たす思い出となった。
______________________________________
的川 泰宣氏(まとかわ やすのり)
JAXA(宇宙航空研究開発機構)名誉教授。1942年広島県呉市生まれ。東京大学工学部航空学科宇宙工学コース卒。2003年まで8年間、内之浦宇宙空間観測所長を務める。神奈川県大和市在住。
______________________________________
転載元:南日本新聞 3月15日掲載分
]]>