歴史探訪〜日華事変(支那事変)は何故長引いたのか (2) 〜

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    (前回からの続き)

    国民党政府の外交官、高宋武が、蒋介石へは内緒で1938年7月に和平交渉の為に来日した際、「蒋介石は、日本との長期抗戦の構えがある」と断言できたのもこの年表を読めば納得できる。

    日本政府としては、蒋介石の下野は和平の条件として譲れないという。それは頑なほどだった。

    高宋武は「日本と戦える人物も、日本と講和できる人物も、蒋介石をおいて他にない」と反論する。

    日本との和平交渉はいくつものルートが作られながら難渋する。その傍ら、高宋武は長年蒋介石の片腕でありながら、親日政権樹立へと心動かされる汪兆銘に説く、「民族の裏切りものとなるべきではない」。

    12月に入り、汪兆銘は蒋介石へ「君は安易な道を行け、我は苦難の道を行く」との書簡を送り、重慶からハノイへ脱出した。以後は、単独で日本政府との交渉を進めた。

    南京に親日政権を打ち立てたのは、その翌々年であった。

    1937年、娘にこう問いかけた言葉が残されている。

    「今、父が計画していることが成功すれば、中国の国民に幸せが訪れる。しかし失敗すれば、家族全体が末代までも人々から批判されるかもしない。お前はそれでもいいか」

    この時、彼は蒋介石と袂を分つことを心に決めたに違いない。孫文の大アジア主義を継承する道を選んだ汪兆銘。日中の共存共栄こそ中国国民の幸せに至る道であると確信して。

    日中和平の礎として。

    高宋武と別ルートで茅野老に和平工作を依頼した、上海派遣軍司令官である松井石根(いわね)大将もその一人であった。彼の若い頃に川上操六陸軍大将の唱えた「日本軍の存在理由は東洋の平和確保にあり」という見識や、孫文の日中韓対等連携を指向する大アジア主義に共鳴して、自身も「大亜細亜主義」という日中が連携し欧米の侵略に対抗して平和裡な中国統一を掲げる考えを提唱していた。蒋介石とも長く親交があった。

    1933年には日本国内で「大亜細亜協会」を設立し会長に就任した。この協会へは、組閣前の近衛文麿などが参加している。その根底にある、日本と国民党政府との協力維持という考えは、1937年の冬に総大将として南京に入城した際も何ら変わりはなかった。

    翌年の11月には、第一次近衛文麿内閣が反共主義(抗日容共な国民党政府の否定)と汎アジア主義(東洋古来の精神文化と西洋近代の物質文化の融合による「新文化の創造」や東洋独自の道徳仁義による「東亜に於ける国際正義の確立」)を含む、「東亜新秩序建設」という理想を掲げている。

    一方、コミンテルンである尾崎秀実(實)の狙う「東亜共同体」とは、日本と蒋介石政権が共倒れして、両国で共産主義革命が実現した後に成立するはずのソ連・日本・中国による「赤い東亜共同体」であった。

    「終局的な平和」の為なら、国民を欺くことも日中戦争に駆り立てて共に「人柱」にすることも許されると信じて疑わないコミンテルンの忠実な使徒であった。第1次近衛内閣発足直前に「昭和研究会」の一員となってからは、「中央公論」などへの寄稿を続けた。新聞記者時代に培ったペンの力を知っていた。

    一連の流れの中で私達は、共産思想の恐ろしさや狡さや抜け目のなさを知ることになろう。また、いったん撒かれた対立の種は取り除くことが困難なことも。


     

    ともかく、アヘン戦争の一報を聞いた時から日本は欧米の侵略へ対抗する術を絶えず考えていたのだと思う。一番の良策はやはり、日中が連携してアジアの繁栄を守る中にあるはずだ。その術はもう潰えてしまったのか。それとも、今も夢の一部として続いているのだろうか。

    何故日華事変は長引いたのか。そこから学ぶことは多い。学んだことを活かして伝えたい。

    大陸の風が吹く。私達が恋い願う風は海からの風だ。

    蒋介石は後に松井大将の話になった時、「閣下には申し訳ないことをした。南京には大虐殺など無かった」と涙ぐんだそうである。と同時に支那事変当時、党の兵士に過酷な民衆からの略奪や犠牲を許したのも、当時の中国人としては何の自らを呵責することもない判断であった。

    松井大将は南京入城の翌年には、役目は終わったと考え制服を脱ぎ帰国した。帰国後は南京と日本の土を混ぜた「興亜観音」を作り、毎日欠かさずお参りしていた。

    終戦後には、南京大虐殺というありもしない組織的な事件の首謀者として、B級戦犯として処刑された。

    南京占領に厳しい軍紀を持って臨み、入城後に略奪が数十件あったことさえ、日露戦争に比べて変わってしまったと嘆く尾張藩士の息子であった。

    松井石根大将の辞世の句は、3句詠まれている。最後の句の「自他」は、日本人と中国人の暗喩であると推測されている。南京入城翌日の慰霊祭の際には、「支那人を馬鹿にせず、英米には強く正しく、支那には軟らかく接し英米依存を放棄させるよう」強い調子で訓示を与えたという。どこまでも、日中の強い連携と東洋の平和を願った人であった。


     

    天地も人もうらみずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く
     

    いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば
     

    世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等に誠の心  

     

    参考Web:参考Web:国際派日本人養成講座^^^^^参考Web:国際派日本人養成講座^^^^^国際派日本人養

    参考Web:国際派日本人養成講座^^^^^^^

    汪兆銘工作はコミンテルンの陰謀か?

    Wikipedia(フリー百科事典)^^^


     


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