国見の歌

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    言の葉に意志を込めて発すれば、それは言霊となります。

    思い浮かぶのは、舒明天皇の詠まれた国見の歌。のちに万葉集に撰ばれた御製歌です。


     

    天皇 香具山に上りて望国したまふ時の御製歌

    大和には群山あれどとりよろふ

    天の香具山登り立ち 国見をすれば

    国原はけぶり(煙)立ち立つ

    海原はかまめ(鴎)立ち立つ

    美味し国そ 秋津島 大和の国は

    先の天皇、推古天皇が崩御された時、国は全く疲弊していました。繰り返される長雨と旱魃。その遺言は「この頃五穀が実らず、百姓は大いに飢えている。私のために陵を建てて葬ってはならぬ。ただ竹田皇子の陵に葬ればよい」という民心に寄り添うものでした。

    「日本書紀」から 

    626年は1月に桃や李の花が咲いた。かと思えば一転して寒くなり、3月に霜が降り、6月に雪が降った。この極端な冷夏の上に、3月から7月まで長雨が降り、天下は大いに飢えた。627年には4月の10日と11日に続けて桃や李の実ほどもある雹が降った。そして春から夏まで旱魃が続いた。推古天皇が遺言を残し世を去ったのは翌年の4月のことだった。

    参考Web:歴史を変える気候変動「535年の大噴火」

    その推古天皇から皇位を継いだ時、舒明天皇の胸の内に期するものは何だったのでしょうか。

    天皇は祭司でもあります。その天皇が詠む国見の歌。国見とは元々民間にあった、花見や山遊びなど年頭や春に秋の豊穣につながる呪的景物を見てその年の豊作を祝す習慣のことでした。いつしか天皇がこれを取り入れ、しかる場所で国を眺める儀式となります。即位の儀式の一環として、国の繁栄を予祝することもありました。そういう立場である天皇が言祝いだこの時の風景は、目の前に広がる平野のみならず日本の大地そのものへの祈りだったに違いありません。
    大和の国よ、豊かであれと、香具山の上から辺り一帯を遠く眺めながら舒明天皇は祈りを込め詠い上げたのです。

    《原文》

    高市岡本宮御宇天皇代 [息長足日廣額天皇]

    天皇登香具山望國之時御製歌

    山常庭 村山有等  取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者
    國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜A國曽 蜻嶋 八間跡能國者

    (A) 外字:扁[忄(りっしんべん]+旁[
     

    原文に倣うと「あきつしま」は蜻蛉島と記するべきところ、秋津島とさせて頂きました。この歌を初めて目にした時のままで載せたかったゆえです。意味はどちらも大和の国を指します。蜻蛉島はトンボが飛び交う国のこと。トンボは五穀豊穣につながる穀霊の象徴でした。

     


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