「はやぶさ」を創ったもの(転載)

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    地元の新聞で、日曜日に毎週連載される随想リレーがあります。

    郷土文化や宇宙など、各方面の専門家が順繰りに連載しているので、日曜の朝は楽しみにしています。

    日曜随想「朝の文箱」。

    鹿児島以外でも、共同企画として載っているのかもしれません。

    的川さんの随想はいつも軽やかですね。興味深い内容でしたので、共有したいと転載いたしました。

    これからも、ちょっと一緒に読んでほしいな、ということがあったら転載するかもしれません。

    では、どうぞ。

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     地球ができた頃のことが知りたいー1985年、ハレー彗星の探査で忙しい宇宙科学研究所の人々の中に、そうつぶやく連中がいた。太陽系の始まりにはあまり関心のない連中が聞いたーそんな昔のものはもう残っていないんじゃないか。

     いやあるにはあるけど、それを持って帰るのは難しいという。主として火星と木星の間にある小惑星という天体は、小さいので重力もほとんどなく、内部で熱変成が進まないので、四十数億年前にできた頃の物質が体の中に封じ込まれたまま保存されていると。しかし「日本の技術では無理ではないか」と。その一言が、太陽系の始まりに縁のない人々の心を煽った。いつの時代も、人々の心に火をつけるのは「夢と好奇心」である。

     煽られたのは「矜持と冒険心」のグループ。「じゃあ、オレたちがその小惑星からサンプルを採って来る計画を作ってやろうじゃないか」。「はやぶさ」計画が開始された。好奇心で出された課題を一歩前に進める跳躍力・推進力は「冒険心」から生み出される。これもいつの時代にも起きることである。

     紆余曲折10年。できあがった計画が宇宙開発委員会に提案された。この世界初の事業をやるために乗り越えなければならない「世界初」の技術要素の壁は八つー宇宙開発委員会から一笑された。しかし95年と言えば、まだバブルがはじけて間もない頃である。勢いのある人もいて、「試験機としてやるなら、必ずできることばかりやっていてもしょうがないよ。このチャレンジ精神は素晴らしい」と弁護もあって認められた。

     「好奇心」と「冒険心」のタッグが花開いた。しかしこの二つだけでは、物事は進まない。探査機やロケットなどハードウエアを、目に見える形に創り上げる人々の力が不可欠である。好奇心グループと冒険心グループが全国を股にかけて中小企業を巡る行脚が始まった。

     何しろ金がないので、できるところはすべて自分たちの実験室でやり、それより先はメーカーに作ってもらう。大企業に頼りきりでは金が足りない。町工場などを巡ってできるだけ安く仕上げないといけない。このような、職人さんが数人しかいないような工場の「匠の心」が、第三の力として加わった。

     互いに関心の持ち方は別々だが、「小さな遠い天体からサンプルを採って来る」という一つの目的が内在し、「三つの心」のそれぞれが自分たちの人生を輝かせるためにスクラムを組んだ。不思議な姿のチームワーク。内之浦を旅立ってから苦節七年を経て帰還した2010年6月、NHKの「クローズアップ現代」で「はやぶさを成し遂げた原動力を一つの言葉で言い表すと何でしょうか」と問われた著者は「適度の貧乏」と答えた。

     全く貧乏なら「はやぶさ」など思いもつかない。しかし金が豊富にあると、開発が人任せになる。適当な程度に貧乏であることは、高い志を堅持していればという条件付きで、非常に大きな力を生む。全国百数十に及ぶ中小企業を巡ったグループの心を合わせると、システムの隅々までがよく分かり、数々のピンチに陥った時、それを乗り越えるアイデアの引き出しが、知らず知らずのうちに醸成され用意されていたのである。

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    的川 泰宣氏(まとかわ やすのり)

    JAXA(宇宙航空研究開発機構)名誉教授。1942年広島県呉市生まれ。東京大学工学部航空学科宇宙工学コース卒。2003年まで8年間、内之浦宇宙空間観測所長を務める。神奈川県大和市在住。

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    転載元:南日本新聞朝刊 12月21日掲載分


    鹿児島の物語を紡ぐ(転載)

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       香川県北部の瀬戸内海に浮かぶ直島は、建築家の安藤忠雄が手がけた地中美術館やベネッセハウスを核としたアート活動で知られる。人口3千人ほどのこの小さな島に、年間40万人の観光客が訪れる。そこで驚くべき光景に遭遇した。圧倒的に外国人観光客のほうが多い。しかも多国籍だ。島の人々はそれをごく自然に迎え、施設では流暢な英語や中国語で対応する。これが日常なのである。

       統計によれば、昨年は11月までの訪日外国人客数が1200万人を超え、前年比で28%増えた。「観光立国ニッポン」は政府による成長戦略の主軸の一つだ。今後も増加が見込まれる。

      直島では、誰もが国際交流の場に立つ可能性がある。実際、不意に船の行き先を尋ねられ焦った。こうした環境に身を置きながら、あらためて鹿児島の良さとは何か、海外の人に伝えるべき物語は何か考えさせられた。

       私は父の仕事の関係で県内を転々として育った。記憶の中にある鹿児島は、まるでモザイク画のようだ。遠くからは一枚の絵に見えるが、近づいてみると、言葉をはじめ細部に違いがあり、それぞれが独自の色を放つ。

       日本を強く意識するようになったのは20代の頃だ。当時の私は、いわゆる西洋かぶれだった。憧れるままに海外旅行を重ねるうち、言葉の個性の濃度は文化の個性の濃度と比例することに気付いた。以来、固有の言葉と豊かな方言をもつ国内への興味は尽きない。日本は多様だ。

       旅人の驚きや感動はいわば知識や経験との距離感からくる。性質の違う文化を比較のバロメーターにもつ外国の方々は、日本人以上に日本の特徴を鋭敏に感知するのではなかろうか。

       鹿児島の歴史にもその事例を求めることができる。大航海時代の1549年、鹿児島に上陸したザビエルは、この国の人々は今までに発見された者の中で最高である。親しみやすく善良で、富より名誉を重んじる。少量の米や麦と野菜を主食とし、時々魚も食べると記した。

       幕末、航海術の教官だったカッティンディーケは、近代的な工場群を目の当たりにして驚きを隠さなかった。医師のウィリスは、風光明媚な場所であることは認めざるを得ないと記す。西南戦争直前に薩摩焼の里、苗代川を訪れたサトウは、人々の気位の高さに感銘を受ける。そして白薩摩のキリスト像をつくる様子に驚くのである。

       これらは海外の目に留まった鹿児島の魅力である。すなわち、誇りと美徳ある人、日本食、自然、進取の精神に富むものづくりだ。現代の日本にも通じる点は興味深いが、国という枠組みのもつ意味は大きく変わった。

       人もモノも情報もたやすく国境を越える。流行の展開も世界的だ。それを生み出すエネルギーは、むしろ旅先での出会いといった私的交流の比重が大きい。社会がグローバル化するほど、個々が足下にしっかりと根を張り、地域固有の物語を紡ぐことが大切ではなかろうか。そうした人々の国際的で多様なつながりが、鹿児島に新しい展開をもたらすことに期待したい。

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      深港 恭子(ふかみなと きょうこ)氏

      指宿白水館薩摩伝承館学芸員。1969年垂水市生まれ。西南学院大学文学部卒。鹿児島県歴史資料センター黎明館資料調査編集員などを経て、2008年から現職。指宿市在住。

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      南日本新聞朝刊 1月11日掲載分


       

      深港さんが書かれたモザイク画という視点は見えない国境で区切られた世界地図にも通じます。
      鹿児島を離れて世界に目を向けるといつの間にか、世はグローバル時代と牽引されてとまどうことがあります。地球はひとつ。果たしてそうでしょうか。
      世界は国単位の個性が集まってできています。
      国際社会というものがグローバル社会と似ているようで違うのはそこです。globalと、internationalは違う。ここは明確に区別しなければなりません。

      個人が対峙するには、世界は広すぎます。国の支えが必要です。

      育ってきた土地の記憶は己を支える縦糸。
      世界に飛び出す時にはそれぞれの国の歴史を想い、お互いを尊重できる原動力ともなる。

      若い人が世界に目を向けると同時に、自分達のルーツを探るというなら応援したいです。それが結局は自分の可能性を広げる近道にもなりますから。

      「国際派日本人」。国際人とも違う、一見おなじですけどね。でも、ああそうなんだ。そういう人を目指したい、というタイトルのおすすめHPがあります。様々な書籍から丹念によりすぐった記事の数々。きっと自分に合うものが見つかるはずです。
      「おすすめリンク」に加えてみました。ぜひ一度ご覧くださいませ。













       


       


      初春幻想(転載)

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        的川さんの朝の文箱の転載、2回目です。
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         遅ればせながら、あけましておめでとうございます。今年は年賀状がついに500枚を超えた。手書きだった賀状を数年前にコンピューターで印刷するようになって、何だか物足りない。受けとった人もそうに違いない。私の父は書をよくする人で、数百枚の年賀状をことごとく自分で書いた。今にして本当に頭の下がる人だったと思う。

         昨年、賀状に「七度目は 春も名のみの 馬の齢」と詠んだら、一回り上の人から「同い年だったんですか」と返信が届いた。この人は生まれた年が最初の午年だったことを失念したらしい。失礼ながら、よぼよぼと歩いていらっしゃる様を想像して苦笑したが、私としては、たぶん8度目の午を迎えることはあるまいと思って書いた感慨が吹き飛び、ありがたかった。

         元旦に窓を開けたら白いものが降っていた。今年は未だったなと連想し、賀状に「羊雪 星も未来へ 育つ春」と入れた。そのココロはー降雪は自然の現象だが、この星が類い稀な立派な生命の宿る星に成長するためには、人間が格別の努力をしなければなるまい。生存競争の過程で自ら作り上げた社会システムに縛られてもがいている今日の姿は、この星の長期の見通しを欠いているとしか見えない。

         若い頃は、マルクスの描いた「大きな物語」があったが、そういった「物語」は、現在見当たらない。カントが晩年に近いときにしたためた『人間の最終的使命について』という小論に、結局は道徳的完成をめざす教育こそが未来をつくるカギだとあったが、いまだに真理である。ゆるやかに舞いながら落ちて来る雪をじっと見つめながら、今年をその希望を何とかして見いだす年にしたいと願った。

         私は一日80本も喫って(すって)いたたばこを40歳の誕生日を期してやめた。「なのになぜ酒がやめられないのか」と問われると、これがよく分からない。しかし窓外の雪を見ているうちに「酒がいけないのではなく、その量がいけないのだ」という単純な真理に思い当たった。さて、そこでどうするか、思考が進む。

         その日の朝ヘルスメーターに乗って、ふと下を見たら、針が動いていない。「アレ?故障かな」と思い、もう一度乗り直して気がついた。針が1周してちょうど100キロで止まっていた。そうか。このヘルスメーターでは100キロ=0キロなのだ。 私はいま無重力の世界にいるのだと、他愛のないおかしさがこみ上げて来て、その瞬間に決心した。「こんなことで笑っている場合ではない、痩せるぞ!」

         何か決心(みたいなもの)をして断固として実行に移すにはタイミングと勢いが必要である。年をとると、そのタイミングを見極めることが難しくなり、心にも勢いがなくなってくる。それが今回は、酒と体重に関して「タイミング」がふと合った。(1行欠落)申のお迎えが来るころには、ヘルスメーターが80キロを指すように気を付けていきたい。

         宇宙は、「大きな物語」を描く舞台としては最高のものを用意してくれる。カントの示唆を追いながら、それを実行する動きを加速したいという思いを眠らせないことが、8度目の午を見られるかどうかの保証かもしれない。今年もよろしく!


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        的川 泰宣氏(まとかわ やすのり)

        JAXA(宇宙航空研究開発機構)名誉教授。1942年広島県呉市生まれ。東京大学工学部航空学科宇宙工学コース卒。2003年まで8年間、内之浦宇宙空間観測所長を務める。神奈川県大和市在住。

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        転載元:南日本新聞 1月18日掲載分


         


        今ふたたび陰翳礼讃(転載)

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          深港さんの朝の文箱の転載、2回目です。まだまだ続いて欲しい。

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           鹿児島の冬がこれまでになく明るい。クリスマスの定番だったはずのイルミネーションの多くが、年を越した。全国的な傾向である。厳かな神社とは対照的な華やかな場が、初詣先として加わった。イルミネーションは現代の冬の風物詩だ。

           最近は白と青がはやりだ。冬に寒色が好まれるのは、背景に快適さがあるからだろう。もはや冬のくらしが寒さを忍ぶものではないことが透けてみえる。

           明かりは空間を照らし、脇役として長く人のくらしを支えてきた。一方、イルミネーションは明かりが主役だ。以前はテーマパークなどの日常と切り離された場所に限られた。それが発光ダイオード(LED)の普及とともに急速に街に拡散した。

           24時間化した日常の中、夜は昼のように煌々と明るい。繁華街には人目を引くための我の強い明かりがひしめく。コンビニでは影すら出ない。暗闇は危険とばかり隅々まで照らされる。

           明るさに満ちた日本は、果たして心地よいのだろうか、照明デザイナーの面出薫氏は、太陽が最大の師だと語っている。光と闇と人との深遠な関係をデザインするのが仕事だという。

           夜の帳(とばり)が下りれば闇に覆われる。本来、夜は暗い。そして静かだ。その摂理を、私たちは忘れがちだ。

           鹿児島市・高麗本通りのクスノキの並木が好きだ。空を覆うがごとく力強く、新緑はまばゆい。昨年、その一角が消えた。交通渋滞を緩和する善処策である。後には驚くほど大きな空間が現れた。再び植樹していくそうだが、目かくしを剥がされた街は無秩序の固まりに思えた。

           市街地からすべての街路樹が消えたら、思いもよらぬ雑然とした広がりが出現するだろう。夜ともなれば、なおさらである。

           つくづく眺めると木々はあらゆる光を吸収して漆黒である。その闇が街をまろやかに包む。

           日本人は長い間、陰影に満ちたくらしをしてきた。谷崎潤一郎が急激な西洋化のジレンマの中、その姿を随筆「陰翳礼讃」に描いた。本来、文化に寄り添い発展すべき文明の利器が、日本では「西洋は利、東洋は愚」とでもいうように流入した。だが陰影を離れて美はなく、ほの暗さが何者の装飾にも優れると言う。

           目新しい利器に文化を沿わせた過去の上に、私たちの今のくらしがある。明るさはその象徴だ。昭和初期の東京や大阪の夜は、西洋の都市より明るかったという。戦後には、豊かさの指標のように明かりが街にあふれた。そして、陰影は消えた。

           宇宙から地球をみると、日本は世界で一番明るいという。テレビのCMに、都会の夜空に地球がもう一つ浮いている画像が映る。このままのくらしを続けると、2030年には地球二つ分の資源が必要になる。

           衝撃的なメッセージだ。 

           そろそろ1位の座を返上してもいい。陰影のあるくらしを楽しむ価値観に立ち戻ってみるのもいい。私たちのふるまいが問われている。

           谷崎は記している。「まあどう云う工合になるか、試しに電気を消してみることだ」

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          深港 恭子(ふかみなと きょうこ)氏

          指宿白水館薩摩伝承館学芸員。1969年垂水市生まれ。西南学院大学文学部卒。鹿児島県歴史資料センター黎明館資料調査編集員などを経て、2008年から現職。指宿市在住。

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          南日本新聞朝刊 2月8日掲載分

          帰り道、街灯の明かりがついているとほっとします。同時に、月を見上げ星を数える日もあります。

          自由に闇を感じようと思えば選べる生活を送る私たちは恵まれているのかもしれません。

          これだったら始められるというエコは心がけています。そう言いながらも、皿洗いの時についつい温水でじゃぶじゃぶ洗っていたら、ガス代がえらいことになっていました。反省。

          夕暮れ時、夕日の名残色の桜島が、薄墨の景色の中でたたずんでいました。

          春が来れば、薄霞の日も多くなるでしょう。今日は北風が何もかも吹き飛ばし、くっきりとした山肌を見せていました。

          春はもうすぐです。


          欧州版「宇宙往還機」(転載)

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            的川さんの朝の文箱の転載も3回目となりました。

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             冷戦中も冷戦後も、ヨーロッパ各国は常に米ソ(あるいは米ロ)を独自の立場で見つめ、付き合い、政策を展開してきている。宇宙の分野でも、その傾向は如実に表れている。

             そのヨーロッパが、宇宙輸送に新たなページを開いた。スペースシャトルが引退した後、使い捨てタイプばかりを使ってきた世界で、再び宇宙へ行って戻って来る「宇宙往還機」への挑戦を開始した。

             さる2月11日、ヨーロッパ宇宙機関(ESA)が南米クールーのギアナ宇宙センターから打ち上げたヴェガ・ロケットに搭載されたのが、その宇宙往還を果たすための実験機IXV。宇宙へ飛び立ち、これが地球へ戻って若干のメンテナンスの後に再び飛ぶことができれば、打ち上げコストの節約だけでなく、ミッションを遂行する上でもさまざまな可能性が広がる。今回はそのための最初の本格的な実験機だった。

             全長5メートル、重量2トンのIXVは、高度340キロでロケットから分離し、国際宇宙ステーションが飛んでいる400キロより高く上昇、多くの実験を積み重ねて開発した「リフティング・ボディ」という形状から揚力を生みながら、機体後部に装備した2枚の板(フラップ)とガスジェットの噴射で巧みに安定を保ちつつ降下した。その後パラシュートを開いて、大気中を緩降下、目標とする太平洋上に無事着水し、回収された。

             弾道飛行ながら、この実験飛行では、軌道上から戻る時の状況を忠実に再現しているので、今後の開発に向けて大きな成功を収めたと思われる。自分たちの文化が蓄積してきた宇宙への考え方に基づいて、独自の宇宙戦略を進めるヨーロッパの行き方から、私たちの国の今後の宇宙への取り組み方にも大切な教訓を読み取りたいと思う。

             「宇宙飛行の父」ツィオルコフスキーが晩年、「地球は人類の揺り籠である。しかし人類はいつまでもその揺り籠に留まってはいないだろう」と予言したように、20世紀の半ばを過ぎてから人類は勇敢に宇宙へ飛び出し、ついに月面にまで路破の足を延ばした。ただし残念ながら宇宙へ飛び出したのは、人類の代表選手たちだけであり、大量の人間が日常的に宇宙へ出かけているわけではない。

             仏教哲学の山折哲雄さんが、「現在の宇宙飛行はノアの箱舟ですな」とおっしゃったことがある。代表だけが行くという欧米の考え方が一神教と深いところでつながっているのかどうかの議論はおくとしても、かつて人類が東アフリカの地からこの天体の全域を生活の場所にしていったのは、代表選手たちだけの仕業だったわけではない。

             あの「翼よ、あれがパリの灯だ」の頃、たった一人で大西洋を横断した時代から、ジャンボジェットの時代を実現したように、遠からぬ時期に、無数の人々が日常的に宇宙を活動の場とする時代がやって来るだろう。長期に歴史を眺めれば、現在の世界の宇宙活動は、そうした宇宙空間の普遍化の努力の試行錯誤の一環にすぎない。日本も、この国が育んできた情緒・知性・文化に基づいて、宇宙進出の意味を独自に打ち出し、他国のまねに堕しない戦略を策定して世界の歴史に寄与する機運が熟している。

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            的川 泰宣氏(まとかわ やすのり)

            JAXA(宇宙航空研究開発機構)名誉教授。1942年広島県呉市生まれ。東京大学工学部航空学科宇宙工学コース卒。2003年まで8年間、内之浦宇宙空間観測所長を務める。神奈川県大和市在住。
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            転載元:南日本新聞 2月15日掲載分


             

            いつか、月から地球の姿を眺める日も来るのでしょうか。

            こんなきれいな星が宇宙旅行の帰りに迎えてくれるのなら、やはりこの星は私たちの揺り籠と思うでしょう。






             

            JAXA月周回衛星「かぐや」


             




















             


            伝統工芸と現代生活(転載)

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              深港さんの朝の文箱の転載、3回目です。

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               財布は「甲州印伝」に決めている。鹿革に漆で小柄の模様をつけた山梨の伝統工芸品である。人気ブランド、グッチのバッグとしても登場し話題になった。鹿革は平安時代の鎧にも使われているので、丈夫さも折り紙付きだ。使い始めて10年がたった。使い込むほど手になじむので買い替えをいつも逡巡する。

               泰西名画に憧れて学芸員になったが、手わざの詰まった日本の工芸品に強くひかれた。姿も美しいが、その本領は使ってこそ発揮される。以来、よき使い手になりたいと思っている。 

               旅先ではよく焼き物を買う。ていねいな仕事のものを、時間をかけて一つ選ぶ。一息入れるときのコーヒーカップは、厚手で熱が穏やかに伝わる陶器が好みだ。薩摩焼や大分の小鹿田(おんた)焼を愛用している。正直なところ、料理は市販のお惣菜やレトルトに随分お世話になるが、相性のいい器に盛ると抜群においしそうに見える。小さな事だが、心には大きく響く。

               最近、漆器を使いはじめた。扱いにくいと思われがちだが、実はとても堅牢だ。1874(明治7)年にウィーン万博の出品物を積んで帰国した船が伊豆沖で沈没した。1年半後引き揚げてみると、漆器に損傷はほどんどなかったという。

               秋田の川連(かわつら)漆器の椀は手取りのよさと値頃感で選んだ。木地に何層も漆を重ねているので、軽くて口当たりがやさしい。汁が入ると、ほっとするようなぬくもりが手に伝わる。長野の南木曽の挽物皿はどれも木目が違うので、選ぶとき迷いに迷った。それだけに愛着が強い。

               「高いでしょ」と聞かれた時は「外食や食料品に比べたら安い」と答える。うまく付き合えば何十年ももち、豊かな気分と時間をくれる。

               鹿児島にも伝統工芸品は数多い。薩摩刀の歴史は千年、加世田鍛冶や種子鋏も500年におよぶ。薩摩焼、大島紬、川辺仏壇は国指定の伝統的工芸品だ。昔ながらの原料による手作りが基本だが、「伝産法」の条文の最初には「主として日常生活に使われるもの」とある。使い手がいて初めて、伝統の技とモノが受け継がれる。しかし現代は廉価な量産品に押されて、質がよくても値の張るモノはなかなか売れない。多くの産地が今、この課題に直面している。

               以前、福井県陶芸館で行われた薩摩焼展の作品選定をお手伝いしたことがある。福井は中世から知られる産地だが、大胆な釉がけの越前焼を見慣れた人々に、緻密な透かし彫りや絵付けのある白薩摩は新鮮に映ったという。持ち味の違う黒薩摩が同居するのも驚きだったそうだ。

               その土地でしか生まれない味があるように、使うモノも気候風土とそこに暮らす人の文化が融合して生まれる。伝統工芸はアートとは違う。使い手の用に応えるという外発的なものづくりだからだ。いわば、作り手と使い手が両輪となって育ててきた鹿児島の財産である。

               現代の暮らしは、便利に使い捨てる日常の中で上質なモノと時間を遠ざけてはいないだろうか。服を選ぶように、大切にできるモノを選ぶ。少し気持ちを置き換えただけで、伝統工芸と現代生活は相性がいい。そう実感している。

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              深港 恭子(ふかみなと きょうこ)氏

              指宿白水館薩摩伝承館学芸員。1969年垂水市生まれ。西南学院大学文学部卒。鹿児島県歴史資料センター黎明館資料調査編集員などを経て、2008年から現職。指宿市在住。

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              転載元:南日本新聞 3月8日掲載分


              いわゆる実用の美ですね。

              身近な所にきっとあるはず。

              ふすまなどの建具や畳だってそう。
              その分、気持ちが華やいで前向きになれば、価値ある買い物です。

               


              空爆・原爆・チョコレート(転載)

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                的川さんの朝の文箱の転載です。数えて4回目となりました。

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                 熱い、熱い。何もかも燃えている。私をおんぶしている母の背中が揺れているー。

                 私は3歳だった。私がこの世に現れた呉の街には戦艦大和を造っていた港があったから、空襲はすさまじいものだった。この日、空襲警報が鳴り、一家4人で防空壕に避難した。隣には私と同じように、お母さんに抱っこされた子がいた。狭い穴に大勢の人間たち。酸素が少なくなって窒息した。

                 おふくろはそれを見ていきなり立ち上がり、私をおんぶして隣の防空壕へ逃げようとした。外は爆弾が降っていた。兄貴たちは泣きながら母の後を追った。500メートルぐらいの距離を必死に走る母。その背中が、私の生涯最初の記憶である。前に入っていた防空壕は直撃弾を食らって全員即死だったそうである。母の果断が私たちを救った。

                 その後、私は一人ぼっちで広島の田舎に預けられた。やがて呉の街にも「日本は戦争で負けるらしい」といううわさが届き、母は私に会いに来る決心をした。呉から広島まで来て列車を乗り換えるのだが、広島の友人を訪ねるかどうか迷った。「やはり子どもに会う方が先だ」と思い直し列車に乗った。1時間後に原爆が炸裂した。8月6日だったのである。友人が住んでいたのは爆心地から約1キロの所。1家7人全滅だったという。

                 私が幼い頃、母は私を膝に乗せて「あの時はお前がいたから助かった」と繰り返した。私は極めて冷静で「いや、それは違うな」と思っていた。なぜなら、私がいなければ母はその日広島へでかけていなかっただろうから。私は母を救ったのではなく、危ない目に遭わせたのだと感じていた。しかし母の涙が、私にそれを言わせなかった。そして私がその矛盾を告げないうちに、母は逝った。もうあの世で言うしか手はない。

                 戦後になると、進駐軍の記憶もある。呉にはオーストラリア兵がたくさんいた。彼らはジープで走りながら、チューイングガムやチョコレートなどを投げていた。呉の子供たちはそれを腹ばいになって拾い、汚れた土を払って食べた。私の家庭の雰囲気から「そういうことはしてはいけない」とは感じていたが、友だちが食べているのを見て、おいしそうだなと。それで親の目を盗んで時々拾っていた。ある日、食べきれなくて帰ってから陰で食べていたら、親父に見つかった。「お前、何を食っている」と言われ、そっと手を出して「チョコレート」と答えた。すると親父は、チョコレートをバシンとたたき落とした。親父は非常に穏やかな男だったので、本当にびっくりした。

                 それで「どうして食べちゃいけないのか」と思って父に尋ねたら、「それは、日本人の矜持である」と。小学校低学年の私には「矜持」という言葉の意味が分からない。怖い顔の父を避けて、母に聞いたところ、「ひらがなは読めるでしょ?これで調べなさい」と言って、国語辞典を私に手渡した。すごく時間がかかった記憶があるが、いくつかある「きょうじ」の中で、これかなと思えたのは、プライドとか誇りという意味。空爆の時の出来事や原爆の姿、チョコレートの味は自分の心の中に深く刻みつけられ、生きていくプロセスでも、大きな役割を果たす思い出となった。

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                的川 泰宣氏(まとかわ やすのり)

                JAXA(宇宙航空研究開発機構)名誉教授。1942年広島県呉市生まれ。東京大学工学部航空学科宇宙工学コース卒。2003年まで8年間、内之浦宇宙空間観測所長を務める。神奈川県大和市在住。

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                転載元:南日本新聞 3月15日掲載分


                薩摩の文化(転載)

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                  久々に、地元の新聞に載っている日曜随想リレー「朝の文箱」からの転載です。

                   

                   

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                   薩摩の伝統文化である示現流、薩摩琵琶、天吹(てんぷく)を見せていただいた。たった半日ではあったが、解説や資料から、これらが単なる剣術や音楽にとどまらない人間教育の要素を多分に含んでいることが伝わってきて、深く興味をひかれた。

                   まずは示現流資料館にて、示現流の歴史や練習法を学んだ。周知のことだが、示現流ではとにかく速く刀を振りぬくことを修練する。その結果、薩摩の武士は、すべての剣術の中で最も速いといわれる攻撃力を得た。

                   一方で、鍔と鞘とを、紐や針金を使って結び、それを解かなくては抜刀できないようにもしていた。人を殺める最速の剣術を身につけるからこそ、むやみに人を傷つけることのないよう自らを律していく、との考え方を僕は素晴らしいと思った。

                   次に鹿児島神社にて、琵琶会を開いていただいた。初めて拝聴する薩摩琵琶の調べの中、歌詞の意味に思いを巡らせた。歌詞には自分こそがという矜持があり、自戒やたゆまぬ努力を勧め、敵方であろうとも情けをかけ、「もののあはれ」を解する挿話がそこにはあった。

                   薩摩の幼子たちは、稽古で繰り返し歌詞を歌う中から、その意味を体に染み込ませ、情緒や命のはかなさを理解していったのだろう。

                   続いて聴いた天吹は優しい音色で、神社の緑に溶け込むように柔らかいものだった。その音色を奏でる息遣いは示現流の呼吸法にも通じているとのことだが、長息を吐くことに、座禅のような心を鎮める効果もありそうだ。

                   今回、薩摩の伝統文化に触れる機会を得て、これらの人間教育としての奥深さに感銘を受けた。特に一人の人間に一点集中型の圧倒的な突破力と、相手を思いやる人間性をともに育てていこうとする工夫に、僕はたいへんな魅力を感じた。そして、これは現代にも通用する教育ではないか、と思った。

                   「テクノロジーだけでは足りない。リベラルアーツや人間性と結びついたテクノロジーこそが、我々の心を震わせるのだ」。スティーブ・ジョブスはそう語ったが、この言葉は「テクノロジー」だけでなく、知識、技術、身体能力、地位、権力、お金など、何にでも置き換えて使われるべきだと僕は思う。

                   努力を重ねて高いレベルの何かを手にしたときに、それをどう使うのか。使い方を方向づけるのが「人間性」だ。薩摩の先人たちは、示現流、薩摩琵琶、天吹など、独自の文化を通じて、人間性をも高めてきた。だからこそ幕末、多くの偉人を輩出し、強国となれたのではないだろうか。

                   人間性というのは、学力テストの点数のように、明確な測定基準がない。それゆえに、現代の学校教育では重視されていないが、養成に20年、30年かかる代わりに、国を支える底力となるものだ。

                   「国家百年の計は教育にあり」という。だが、人間性教育を重視してきた鹿児島にあっても、その文化の伝承が力強いものとは決していえなくなってきている現実に、強い危機感を抱く。薩摩の文化の価値を改めて見直し、日本のために受け継ぐべきだ。よそ者ながら、僕もその一助となりたい。

                   

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                  大岩根 尚(おおいわね ひさし)氏

                  三島村地球科学研究専門職員。1982年宮崎市生まれ。博士(環境学)。元南極観測隊員。2013年10月、専門職員に採用され、同村の日本ジオパーク認定(15年9月)に尽力した。

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                   転載元:南日本新聞朝刊 9月18日掲載分

                   

                   

                   

                  故郷のことを改めて文章にして褒められるとこそばゆいですね。

                   

                  天吹や薩摩琵琶は島津忠良の時代には既に重きを置かれていたそうです。島津忠良は戦国の世に生まれた島津家中興の祖。日新公として今も親しまれています。その日新公が若者のためにと5年余りの歳月をかけて完成させた47首の「日新公いろは歌」と呼ばれる一連の歌があります。

                  その中の何首かは鹿児島県職員への訓示として受け継がれてきたと聞きました。例えば、「と」。

                  「科(とが)ありて人を斬るとも軽くすな いかす刀もただ一つなり」 

                   

                  こういう伝統があることは有難いものです。

                   

                   

                   

                   


                  ノートの先に広がる未来(転載)

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                     すこし集中して書きものをしたくて、近所の図書館に足をはこんだ。自習室に机が並べられ、中高生が勉強している。彼らと同じように、図書館で勉強しながら将来の不安に駆られていた自分を思い出しつつ、列に加わり書きものを始める。

                     高校生の頃の僕は獣医を志望し、北海道の大学に進学することを夢見ていた。その希望はかなわず福岡に進学することになったが、思いのほか充実した日々となった。テニスやアルバイトに打ち込み、バイクを買って走り回り、3年生では世界一周の船旅にも参加した。地質学の研究のため、甑島をはじめ九州各地の海岸線を歩いた。

                     博士課程で東京に進学すると国内外の調査航海に参加することになった。船酔いや挫折を踏みこえ、なんとか博士号をいただいた後は、研究分野を変えて研究者としての職を得た。海岸調査のためはるか南氷洋上で新年を迎え、南極観測隊の一員として南極内陸部でのキャンプ生活も経験した。

                     研究生活の中で、知識の体系が頭の中で組み立てられてゆく快感を覚える一方で、人類の知識に自分が一つを加えることの重みを知った。同時に先人たちの努力の偉大さと積み重ねの尊さを実感した。

                     そして今、研究者をやめて役場の職員となり、自分の背景を全て生かした学びの場の提供や研究のサポート、野外活動の場づくりなどに携わっている。これから先の展開も、さらに大きく思い描いていることがある。

                     振り返ってみると、受験勉強をしていた頃には思いもつかないほどに卒業後の道は開けていた。当時志していた獣医とは全く違う未来に踏み込んでいるが、僕はこの人生に満足しているし、心から愛している。

                     こうした全ての活動の土台が、図書館に座り英語や数学の問題に向かいあっていたあの頃の自分にある。同じように今、図書館に並んで座っている彼らがノートに刻む一文字一文字の先にも、それぞれの将来が広がっている。

                     大学進学の際に獣医ではない選択をしたのは、実はセンター試験に失敗したからだ。ゆくゆく動物に携われそうな生物学科を受験したがそこにも通らず、第2希望として書いた地球惑星科学科に拾ってもらったことが今の自分につながる。もし希望通りの獣医学科に進学できていたら、僕はどんな心境で今を迎えていただろうか。これほどの意外性やそこからくる面白さはなかったかもしれないが、また別の形で満足した人生を過ごしているような気もする。

                     獣医の道を諦めること、研究分野を変えること、研究者をやめること、など深く悩みながら3度決断した。当時はその選択にその後の人生の全てがかかっていると思いこみ悩んだが、今は選択の結果だけで将来が決まるものではない、と言える。選択の後に、自分に恥じない行動を重ねられれば、満足できる今をつくることができる。それはどの道に進んでも同じことだ。

                     目の前で図書館の机に向かっている中高生に伝えたい。受験の結果はどうあれ、そこから開ける自分の未来を信じきってほしい。その先で努力を続ければ、必ず道は開ける。だから今は安心して悩み、考えぬいてほしい。

                    ______________________________________

                    大岩根 尚(おおいわね ひさし)氏

                    三島村地球科学研究専門職員。1982年宮崎市生まれ。博士(環境学)。元南極観測隊員。2013年10月、専門職員に採用され、同村の日本ジオパーク認定(15年9月)に尽力した。

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                     転載元:南日本新聞朝刊 11月27日掲載分

                     

                     

                     

                    私達がしなければならないことは、その努力が報われる社会を守ること。

                     


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