国の成り立ち(2)〜東アジアを中心に・近代から終戦にかけて〜

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    文明と文明の衝突は、統治の有り様を変えてきました。近代以降は今までにない形のものも出てきます。

    主権と施政権の関係

    携帯や車に例えると、分かりやすい。
    所有者が「主権を持つ者」で、実際の使用者が「施政権を行使している者」となる。

    第2次大戦終戦時においての東アジア及び東南アジアの状況を見てみますと、日本の勢力図と重なります。

    植民地  …主権なし。施政権も原則なし。

      台湾(日清戦争以後)

    併合   …国の一部となる。

      韓国(日韓併合 (1910年) )

    委任統治 …委任当初は主権、施政権ともなし。

          民族自決の原則。段階的に原住民へ譲渡することが目的となっている。
          独立に向けて政治的社会的訓練を受ける期間。

      北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦(第1次大戦後に連合国としてドイツ領土だったこれらの地域を委任統治することとなった (南洋諸島) )

    被保護国 …部分的な主権保持。外交面の保護を受ける。施政権はある。

      満州国(元首は清の最後の皇帝溥儀 (1932年建国) )

    占領地  …自国の領土が武力により、他国の支配下に置かれること。

          まだ処遇が決まっていない状態。

      タイを除く東南アジア各国(フィリピンは1944年にアメリカが再奪回する)

      中国大陸の一部(例:北京占領 (1937年7月末に日本軍占領。その後、占領下のまま、王克敏、王揖唐等による中華民国臨時政府が誕生する) )

      

    主権は、原則として強者が握る。戦争に勝てば勝者の意志に沿う。

    1945年8月、日本はいくつかの条件を呑んで連合国に降伏した。
     

    参考blog:『世界飛び地領土研究会』委任統治と信託統治領


    国の成り立ち(3)〜日本の主権回復〜

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      占領されれば主権は一旦喪失します。

      日本は終戦後、アメリカを主体とする連合軍に占領されました。

      以下,再び主権を取り戻すまでを辿ってみます。

      主権は施政権よりも先に喪失する

      内政より対外的な面の主導を取り戻しにくい。

      連合軍による直接統治は日本政府の反対により、なんとか断ることができた。

      但し、北緯30度以南の南西諸島及び小笠原諸島は、この時から米軍政下に置かれるようになる。

      本土は、施政つまり内政は、GHQ(極東軍総司令部)の指導の下でそのまま日本政府が行う形の間接占領統治方式で行われた。その一方、主権は殆ど失ったまま時は流れる。

      日本は自衛隊発足まで長らく軍を持たず、対外向けの外交は、GHQを通して行うこととなる。

      1951年9月8日  サンフランシスコ講和条約締結

           アメリカを始めとする連合国諸国と日本との間に結ばれた平和条約

           互いの全権大使が署名することで条約が結ばれたことになる

           この条約を批准した連合国は日本国の主権を承認した

           同日    日米安全保障条約締結

      1952年4月28日 サンフランシスコ講和条約発効・主権回復及び国交回復

                (「昭和27年条約第5号」として公布される)

           調印・批准を行った多くの連合国と日本との間の「戦争状態」は、

           この条約の発効をもって終結した

      沖縄や奄美、小笠原諸島は、条約発効時から正式にアメリカの管理下に置かれることになる。これら島々の施政権はそれまでと同様米国が握る。本土復帰までは、時を待たなければならない。その道は険しいながら、この時、ある布石が打たれていた。

      【補足:講和条約を結ばなかった国々との関係】

      ソ連と幾つかの東欧諸国、中国(中国共産党)と台湾(中華民国)の二国、及びビルマ、インドネシアなどの国々は調印せず、あるいは会議へ招聘されなかったり、批准しなかったりであった。後年、個別に結んだ条約や合意によって戦争状態は終結することとなる。インドは参加こそしなかったものの、条約発効後、自主的に戦争状態の終結を宣言している。

      台湾(中華民国)とは講和条約発効日に合わせて、日華平和条約を結ぶことができた。その後、日中国交回復(1972年)により、日本と台湾は国交断絶となる。


       

      【補足2:「日華平和条約」締結の意義】

      台北駐日経済文化代表処:台湾週報より(総統府 2009年4月28日)

      「馬英九総統が台北賓館で「日華平和条約」締結の意義を語る」


      リンクを貼っておきます。

      何だか感動してしまったので。

      民進党(民主進歩党)が躍進し、蔡英文氏が台湾総統となることが決まりました。これで馬英九率いる中国国民党が敗退した訳です。

      総統に就任した当時の馬英九氏は当初中国寄りではなく、日本寄りでもなく、自分の国を愛し、「日華平和条約」の果たした重要な役割を理解しています。また、そこから今に繋がる台日双方の交流の活発さを喜びとしています。

      しかし、惜しからんや。愛した国とは「台湾」ではなく、あくまで「中華民国」としての国でした。中華民国は、支那大陸統一という理想の下に建てられました。国民党が台湾に来たのは内戦の結果、おちのびてきたようなもの。中国共産党との内戦状態は李登輝総統が一方的に終結を宣言した1991年まで続きました(戒厳令体制解除)。それまでの共産党との長い戦いの歴史を見るに、台湾を守るという視点を欠いています。

      その為、年月が経てばたやすく経済面から中国大陸寄りの政策に傾き、国民の支持を失ったのでしょう。

      国も人も時の流れの一瞬のみに目を向けると、それ以上推し量ることができません。

      対照的に、民進党が掲げているのは「台湾の主権独立」です。

      台湾の統治は、日本政府から中国国民党(外省人主体)、そして戦前からの台湾人(内省人)の元へ還ったことになります。中国共産党の口をはさむ隙はなくなりました。日本が中国へ遠慮する理由も。今だ日本政府として公式に台湾を国家と認めていないのですから。

      今ならば、これを機会に台湾との国交回復が成るのではないかと期待しています。合わせて独立するために必要な、中国以外との経済的な交流や発展の手助けをすることが必要です。
      李登輝総裁はそれまでの建前であった、「中華民国は中国全土を代表する政府」から「現実外交」へシフトしたという側面もあります。
      日本を慕っていてくれることに感謝するだけでは駄目です。

      長くなりました。

      この日華平和条約にまつわる話の中で、降伏後に手放した領土を誰に譲渡するかを日本が言わなかった理由を問えば、当時の英国と米国の重要な理念と戦略によるものだったと述べています。複雑ゆえに、同意ある部分のみ講和会議では決めて、その他については、個々二国間条約で処理することとなったのです。

      次回は、その互いの思惑が交叉する国際社会に置かれた日本の選んだ道について述べていきます。


       


      国の成り立ち(4)〜沖縄に託された潜在主権〜

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        潜在主権という概念

        沖縄・奄美・小笠原は先に潜在主権のみ日本の元に回復されていた。

         

        講和条約の調印の場では、日本の主権回復と同時に、既に放棄した領土も含めて日本領の処遇が正式に再定義された。その内の米軍軍政下にあった島々はアメリカが施政を司ることが確認された。

        その範囲は北緯29度以南の南西諸島(沖縄 (琉球諸島) と奄美群島(奄美本島を含めた南側))及び小笠原諸島となる。

         

        日本に施政権はない。固より主権も日本は持つ事はできない。

        それが国際的な常識であるところ、昭和天皇は「潜在主権」という今までない概念をいち早くアメリカに提唱していた。

        そのことが後の本土復帰へと結び付いたと言われる。

         

        ソ連や中国共産党などの脅威に囲まれる中、この時、沖縄の主権を強引に取り戻したとしても、独自の軍を持たない日本は守り切れなかっただろう。

        アメリカがまず、沖縄を手放そうとしなかったのだから、施政権だけ日本へ移そうとしても敵わなかった。

         

        昭和天皇が提唱された潜在主権について詳しく見てみたい。

        もう一度、時間軸に沿って時をさかのぼろう。

         

         

         

        終戦まもない1947年、9月。前年末からシベリア等抑留地からの引き揚げが始まっていた。

        すでに連合軍が占領軍として日本へやって来た時から、沖縄・奄美・小笠原は米軍政下に置かれていた。

         

        世界情勢は依然、予断を許さなかった。

        日米共通の目的は、ソ連や国共内戦を制しつつある中国共産党が日本へ進駐する機会を与えないこと。米軍が撤退すれば過激な右翼左翼どちらかが事件を起こし、それを土台に内政干渉してくることを懸念していた。

         

        昭和天皇は、講和条約は日米の二国間条約で締結することを望まれていた。

        アメリカの沖縄占領は、日本に主権を残し長期租借という形で行うということ。今そこにある危機。戦後復興における日本の安全保障の危機から守るためであった。

         

        米軍部の目指すものは軍事拠点を置く「戦略的な信託統治」。国連の安全保障理事会への毎年の報告と審議を受けることがどうしても必要となる。そうなればソ連が拒否権を発動することが予測される。

        軍部内には、決して沖縄を他国の軍事基地として使わせてはならないという決意があった。

         

        9月19日。

        宮内府御用掛の寺崎英成は、昭和天皇の考えを携えて、GHQ政治顧問兼外交局長のウィリアム・シーボルドを日本橋三井ビルまで訪ねてきた。シーボルドにその意向を直接伝えるためだ。

         

        「沖縄の将来は、日本に主権を保持したままアメリカが25年から50年、あるいはそれ以上の長期租借という擬制によって、軍事占領が行われる必要がある。このことによって、日本国民は米国に沖縄諸島での恒久的な企てが無いことを納得し、他国、特にソビエトや中国による同様の権利の要求を封ずることができるであろう。このような占領は米国の利益となるとともに日本に防衛力を提供することになる」

        また、この会談の中で、寺崎氏は「軍事基地権」の取得手続きは、日本と連合国との平和条約の一部に含めるのではなく、むしろ米国と日本の二国間租借条約によるべきだと感じたという。前者の方式では、押しつけられた講和という色合いが強すぎて、近い将来日本国民の好意的理解を危うくする恐れがあった。

         

        国と国民の安寧を守ることに日夜心を砕いてこられた昭和天皇。

         

        この昭和天皇が提唱された方式を「潜在主権方式」という。日本に主権が潜在的にあることが前提の契約。

        条約締結と同時に主権は日本の元に戻ることで、実質日本から連合国が租借する形となり、その上でアメリカが代表して沖縄を司ることを目標に据える。

         

         

         

         

         

         

        サンフランシスコ講和条約(平和条約) 

        締結日:1951年9月8日

         

        第三条

         日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)孀婦岩(そうふがん)の南の南方諸島(小笠原諸島、西之島及び火山列島を含む)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。

         

         

         

        「潜在主権は日本にあり」という文言は、講和会議の米国及び英国全権大使が9月5日に述べた演説の中に出てくる。この文言は各国間の遣り取りの中で何度も丁寧に確認されているのが見て取れる。

         

        【サンフランシスコ講和条約 ダレス米国全権演説】1951年9月5日

        (3条関連部分を抜粋)

        第三条は、琉球諸島及び日本の南及び南東の諸島を取り扱っています。これらの諸島は、降伏以降合衆国の単独行政権の下にあります。若干の連合国は、合衆国主権のためにこれらの諸島に対する主権を日本が放棄することを本条約の規定とすることを力説しました。他の諸国は、これらの諸島は日本に完全に復帰せしめられるべきであると提議しました。連合国のこの意見の相違にも拘わらず、合衆国は、最善の方法は、合衆国を施政権者とする連合国信託統治制度の下にこれらの諸島を置くことを可能にし、日本に残存主権( residual sovereignty )を許すことであると感じました。

         

        【サンフランシスコ講和条約 ケネス・ヤンガー英国全権演説】1951年9月5日

        (3条関連部分を抜粋)

        琉球及び小笠原諸島に関しては、この条約は、これらの島嶼を日本の主権の外においては居りません。この条約は、北緯二十九度以南の琉球諸島を引き続き米国政府の管轄下に置くこと、即ちこれらの琉球諸島の中、日本に最も近い部分は、日本の下に残して置くばかりではなく、日本の行政権の下に置いているのであります。

         

        【サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説】1951年9月7日

         奄美諸島、琉球諸島、小笠原諸島その他平和条約第3条によって国際連合の信託統治制度の下に置かるることあるべき北緯29度以南の諸島の主権が日本に残されるというアメリカ合衆国全権及び英国全権の前言を、私は国民の名において多大の喜をもって諒承するのであります。私は世界、とくにアジアの平和と安定がすみやかに確立され、これらの諸島が一日も早く日本の行政の下に戻ることを期待するものであります。

         

         

        結果として、今に至るまで国連機構における手続きは行われず、沖縄が国連の信託統治領に置かれることはなかった。

        長く要衝の地として、米軍の管理下に置かれた沖縄。歴代の首相はこの「潜在主権」を切り口に、アメリカへの沖縄返還要求を継続していった。

         

        そして平和裡に、沖縄は日本の元へと帰ってきた。冷戦はまだ続く中、わずか20年で祖国復帰を実現させたことになる。

         

         

        国とは何かという探究と合わせて、昭和天皇は実に優れた感覚を持つ統治者であらせられた。そのことを申し上げたくて、ここまで書かせていただきました。次回からは、その戦勝国側から取り戻すきっかけとなった意向の詳細など、資料の補足をしていけたらと思います。

         

         

         

         

         

        *1946年1月26日、連合軍総司令部との覚書により、日本の小笠原諸島への施政権は停止された

        *1946年2月に北緯30度以南の南西諸島は行政分離されて米軍の統治下に入った(トカラ列島は、講和条約締結に伴って一足早く日本へ復帰した(1952年2月10日))

         

         

        *本土復帰の日*

        施政権の日本への返還

         

        奄美1953年12月25日

        小笠原1968年 6月26日

        沖縄1972年 5月15日 

         

         

         

        参考Web:Wikipedia(フリー百科事典)・・・・・・・・・・・・・

        blog「農と島のありんくりん」・・・・・・・・・・・・

        blog「沖縄対策本部」内記事・・・・・・・・・・・・・

        『沖縄祖国復帰を実現に導いた昭和天皇の「潜在主権方式」のご提案』

        blog「日本史ー今日子センセのワンポイント授業」内記事

        『沖縄とサンフランシスコ平和条約』


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        国の成り立ち(4)補足1ー天皇メッセージー

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          記事「沖縄に託された潜在主権」の補足資料です。
           

          沖縄は沖縄戦以後そのまま米軍政下に置かれたものの、終戦後27年という短期間で、平和裡に本土復帰を果たしました。

          伏線となった昭和天皇の意向が米国の公文書として残されています。「利己心」という記述が度々物議を醸していますが、これは天皇の真意を測り兼ねて、「疑いなく利己心あり」と決めつけてしまったのでしょう。実際は両国の状況を考慮した深い洞察力からくるもので、のちの講和条約米国全権大使ダレスを「以前の国際法には見られない表現だ」と感嘆させました。訳する時も痛感しましたが、我田引水にならないようにするのは、中々に難しいものです。そして、分かり切っていることを説明することも難しい。


           

          1947年9月19日。

          宮内府御用掛の寺崎英成が、日本橋三井ビルの3階までシーボルドGHQ政治顧問兼外交局長を訪ねてきた。その目的は、琉球諸島の将来に関する昭和天皇の意向を伝えることにあった。

          「天皇メッセージ」と呼ばれるその文書は、使者の訪問を受けたウィリアム・J・シーボルドの国務省への報告書と、付随のマッカーサー宛の会談メモからなる。30日には国務省極東局へと届けられた。

          【米国国立公文書館保管報告書】
           クリックで原寸大コピーが表示されます(PDF文書)【資料コード:0000017550】


              


           

          【9月22日にまとめられた国務省への報告】(とその和訳)

           UNITED STATES POLITICAL ADVISER

          FOR JAPAN

          Tokyo, September 22,1947.

          Subject Emperor of Japan’s Opinion Concerning the Future of the Ryukyu Islands.

          The Honorable

                  The Secretary of State,

                           Washington.

          Sir

           I have the honor to enclose copy of a self-explanatory memorandum for General MacArthur, September 20, 1947, containing the gist of a conversation with Mr. Hidenari Terasaki, an adviser to the Emperor, who called at this Office at his own request.

           It will be noted that the Emperor of Japan hopes that the United States will continue the military occupation of Okinawa and other islands of the Ryukyus, a hope which undoubtedly is largely based upon self-interest. The Emperor also envisages a continuation of United States military occupation of these islands through the medium of a long-term lease. In his opinion,the Japanese people would thereby be convinced that the United States has no ulterior motives and would welcome United States occupation for military purposes.

          Respectfully yours,    

                   W. J. Sebald

                   Counselor of Mission

          1947年9月22日 東京 

          主題:琉球諸島の未来にかかわる日本の天皇の見解

           米国政府国務長官閣下

           拝啓

           私は、1947年9月20日にマッカーサー元帥に宛ててしたためた、御覧の通りの覚書のコピーを同封することを光栄とするものです、要請の上、当事務所まで訪ねてきた天皇の御用掛の寺崎英成氏との会話の要旨が含まれております。

           沖縄及びその他の琉球諸島への軍事占領をアメリカが継続するよう日本の天皇が希望していることが記されており、疑いなく利己心に大きく基づく希望です。天皇はまた米軍が行うそれらの島々の軍事占領は長期の租借という手段を通して継続していくことを思い描いています。天皇の見解では、それによって日本国民は米国には隠れた動機が何もないと納得し、米国の軍事目的による占領を歓迎するだろうとのことです。

          敬具

          任務参事官  W. J. シーボルド

          【同封の9月20日にマッカーサー元帥宛に記した会談覚書のコピー】(とその和訳)

           GENERAL HEADQUARTERS

          SUPREME COMMANDER FOR THE ALLIED POWERS

          Diplomatic  Section

          20 September 1947

          MEMORANDUM FOR : General MacArthur

           Mr. Hidenari Terasaki, an adviser to the Emperor, called by appointment for the purpose of conveying to me the Emperor's ideas concerning the future of Okinawa.

           Mr. Terasaki stated that  the Emperor hopes that the United States will continue the military occupation of Okinawa and other islands of the Ryukyus. In the Emperor's opinion, such occupation would benefit the United States and also provide protection for Japan.  The Emperor feels that such a move would meet with widespread approval among the Japanese people who fear not only the menace of Russia, but after the Occupation has ended, the growth of rightist and leftist groups which might give rise to an "incident" which Russia could use as a basis for interfering internally in Japan.

           The Emperor further feels that United States military occupation of Okinawa(and such other islands as may be required) should be based upon the fiction of a long-term lease -- 25 to 50 years or more -- with sovereignty retained in Japan.  According to the Emperor, this method of occupation would convince the Japanese people that the United States has no permanent designs on the Ryukyu Islands, and other nations, particularly Soviet Russia and China,would thereby be estopped from demanding similar rights.

           As to procedure, Mr. Terasaki felt that the acquisition of "military base rights" (of Okinawa and other islands in the Ryukyus) should be by bilateral treaty between the United States and Japan rather than form part of the Allied peace treaty with Japan.  The latter method, according to Mr. Terasaki, would savor too much of a dictated peace and might in the future endanger the sympathetic understanding of the Japanese people.

          W. J. Sebald

          1947年9月20日

          マッカーサー元帥宛ての覚書

           天皇の御用掛の寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する天皇の意向を伝える為に、約束のうえ訪ねてきました。

           寺崎氏は、沖縄とその他の琉球諸島を米国が軍事占領し続けることを天皇は希望していると述べました。天皇の見解では、そのような占領はアメリカへ利益をもたらし、また日本を保護するだろうとのことでした。ロシアの脅威だけでなく、占領が終了した時右翼や左翼の団体の伸張がいかにも「偶発的な事件」を起こして、ロシアがそれを日本への内政干渉の根拠に用いることをも恐れている日本国民から、この動きは広く支持されると天皇は感じています。

           

           天皇は、米国の沖縄(及び必要とされる可能性のある他の諸島)に対する軍事占領は、日本に主権を残して25年から50年又はそれ以上の長期租借という擬制に基づくべきだと大いに感じています。天皇によれば、この占領方式は琉球諸島に対する恒久的な企てをアメリカは持っていないと日本国民に納得させ、それによってソビエトロシアや中国をはじめとする他の諸国が類似の権利を要求することを封じるだろうとのことです。

           手順に関して寺崎氏は、沖縄とその他の琉球諸島の「軍事基地権」は日米相互条約によって獲得するべきだ、連合国と日本との平和条約に組み込まれてよりもと感じていました。寺崎氏によれば、後者の方法は押し付けられた講和という感が強いだろうし、将来、日本国民の好意的な理解を危うくする恐れがあるとのことでした。

          W.J.シーボルド

           

           


          国の成り立ち(4)補足2ー奄美復帰ー

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            前回に続いて、「沖縄に託された潜在主権」の補足資料となります。
            私にとって身近な奄美を中心に、南西諸島が米軍政下に置かれてから本土復帰までの流れを辿ってみました。

            本土と行き来するにはパスポートが必要だったそんな時代。施政権を日本が取り戻すまでに必要だったものは、何よりも、日本へ帰りたいという住民の強い意志でした。

            奄美では、奄美共産党や社民党が日本復帰運動の骨組みを作った一面も垣間見えます。革命への引力よりも郷土や国を愛する心が勝り、他の住民と連帯して復帰運動を起こしました。

            大切なのは、元の国へ戻りたいという声を繰り返し挙げる、その姿勢を変えない、そこにあると思います。自分達の行動の目的は何かをよく見極めなければいけません。

            国際社会に翻弄されるこれらの島々は、行方を決めるもうひとつの力、住民の声も内包していました。
             


            東中佐の突撃ー第一次ノモンハン事件ー(転載)

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               第一次ノモンハン事件で捜索隊(偵察任務のほか攻撃任務も行う)の東中佐ら19名は敵に包囲され、突撃攻撃を試みる。部隊の飯島少尉は戦車に飛び乗り、乗員を刺殺、次の瞬間に胸に弾が貫通し、もはやこれまでと敵戦車上で割腹した。東中佐は日本刀を持って突撃し、榴弾に倒れた(池田軍医中尉の目撃談)。こういった行為は戦後論調ではバカな突撃、精神主義といわれそうだが、これでソ連軍はビビッて200メートルも退却してしまった。これがなければ目撃した池田軍医ほか負傷兵の命運も尽きていたのかもしれない。
               日本軍の白兵戦はソ・モ軍にとっては恐怖であったのと、日本兵の銃剣術によってバタバタやられたので、銃剣術の有効性を認識したようだ。ソ連はノモンハン戦後に銃剣術を取り入れ、対ドイツ戦で使い効果をあげている。
               東中佐のことは外蒙古軍(モンゴル軍)の間でも知られていて「太陽の先生(ナラン・バクシ)」と言われていた。日本兵捕虜から聞いたのだと思う。当時、モンゴルは日本のことをナラン・オルシス(太陽の国)と呼んでいた。モンゴル人が日本をどう思っていたかを垣間見ることができる。
               1990年、ノモンハンの戦場の慰霊に東中佐の三女の方がおり、同行していた言語学者の田中克彦氏がモンゴル国軍の国境哨所長に「あの人がアズマ中佐の娘さんです」と言ったところ、所長は東中佐の娘さんを誘って馬に乗せ、草原を散歩していった。

              ブログ「かつて日本は美しかった」の [満州史]より
              (いくらか文体を変えています)

                   

                   

              .。*゚+.*.。ノモンハン事件(ソ連ではハルハ川事件、モンゴルではハルハ川戦争) ゚+..。*゚+

              満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争。数で大きく上回るソ連とモンゴルの連合軍に対し、関東軍(日本陸軍)と満州国軍は互角に戦う。空中戦は日本に軍配が上がる。8月の惨敗。9月に入ってからの攻勢と大規模な反撃の準備。9月15日に停戦が成立した後すぐ、17日にソ連軍がポーランドに侵攻したことを知る。東の憂いがなくなったソ連は西へ力を傾注することができたのだ。「負けたと思ったほうが負け」、諜報戦に敗北した。停戦交渉に関わった陸軍駐在武官・土井昭夫大佐は「こんなことならもう2、3日粘っていれば・・・まんまと騙された感が強い」と話したという。

              結局ソ連に押し込まれた形で敗戦、国境線画定となり領土防衛という戦いの目的を達成することはできなかった。第一次ノモンハン事件は、1939年5月11日から31日まで。

                   

                   


              満州国

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                満州国地図

                 

                満州国は、もうひとつのアメリカと言われているんですよね。

                日本国が保護国で、満州国は被保護国という位置付けになりますでしょうか。

                 

                清の最後の皇帝愛新覚羅溥儀は再び万里の長城以東の土地、わが故郷満州で執政の地位になることを了承した。

                それは自らの意志だった。西太后の墓を国民党軍に荒らされ、陵辱されてから。

                憤怒し、支那と訣別し、満州の再興を誓った。翌々年には皇帝の座に就き、日本を訪れた際は東京駅で昭和天皇直々の歓迎も受けた。貞明皇后の慈母のごとく温かいもてなしに感激したともいう。

                 

                しかし文化の違いは歴然であった。例えば、召使いを片方が死ぬまで喧嘩させて、楽しむわけでもなく、少しの暇つぶしになったかなという程度。日本の統治の仕方と余りに違いすぎる。

                 

                日本としては、アメリカが全般的に移民禁止してから、有り余る人口を満州に送り込むことで解消したいという意図は確かにあり、強引さも感じられる。ソ連との国境に送った農業青年開拓団は防衛のための民兵という意味合いがあった。溥儀に任せる訳にもいかず、政治の主導権は関東軍が半分以上は握っていた。

                要職の多くは日本内地人が登用されていた(内面指導)反面、台湾人や満州人からの採用もあった。例えば台湾人の謝介石は外交部総長に就任し、のちに満州国籍を取得した。裁判官や検察官などは日本内地人以外の民族から任用された。制度上、立法院はあったが、選挙は一度も行われなかった。

                満州がただの領有論ではなく、独立論の上に運営されたのは、石原莞爾らによって現地満州人の政治能力が評価されていたことにもよる。

                建国時、東北行政委員会が満州国建国を宣言し、満州国協和党(後日協和会に変更)が結成された。日本人や現地人が構成員となっており、これがただひとつの政党となる。建国の理想を護持し政府を監視すること、近い将来、関東軍がこれに主権を譲り治安維持に専念することが期待されたが、支那事変を期に、次第に関東軍や政治行政と一体化する。

                 

                明治維新以来の近代化への情熱と技術を受けて、日本はもとよりアジア一速い特急列車「あじあ号」を走らせ、水洗便所など上下水道の普及、大きなダム建設,大豆の一大生産地樹立、モンゴル系遊牧民族の生活圏である草原の保護など、豊かな国家、夢がつまった国家建設が進められていた。

                 

                超特急「あじあ号」
                超特急「あじあ号」
                 

                周辺国からの移住者は後を断たず、毎年100〜150万人ずつ、人口は増えていった。

                開拓団の総勢は22万人ほど。内地からの日本人の人口比率は2%前後で推移していた。

                 

                満州統治にあたり、日本は産業開発5カ年計画を策定し、48億円を投じた。

                基本として掲げられた理想は次の3つであった。

                 

                建国の精神は、東洋古来の王道主義による民族協和の理想郷を作り上げることであり、軍閥や官吏の腐敗を防ぎ、多くの人が餘慶(よけい)を受けられるようにする。

                満州国を承認した国々に対し、門戸開放、機会均等の精神で広く資本を求め、諸国の技術経験を有効に利用する。

                自給自足を目指す。

                 

                もし、支那事変が起こらず、何代も平和が続いたら、日本の文化のいいところが浸透し、「五族共和」が成っていたのかなと思いもするし、そう願う近頃です。大陸国家と海洋国家は成り立ちが違うから、それは後世から見たら困難な道を選んだものです。

                 

                参考Web:Wikipedia(フリー百科事典)・・・・・・・・・

                ブログ「かつて日本は美しかった」から「満州史」

                国際派日本人養成講座・・・・ ・・・・・・・・
                 


                外国人から見た日本と日本人(抜粋)

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                  くっくりさんのブログで昔から続いている「外国人から見た日本と日本人」シリーズの中の、一番最初のエントリー(07/10/16)からの抜粋です。

                   

                   

                  C・P・ツュンベリー=スウェーデン人。医師・植物学者。ケンペル、シーボルトと並んで「出島の三学者」と謳われた。1775年(安永4年)来日。

                  「江戸参府随行記」より

                   

                   地球上の民族のなかで、日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである。・・・その国民性の随所にみられる堅実さ、国民のたゆまざる熱意、そして百を超すその他の事柄に関し、我々は驚嘆せざるを得ない。政府は独裁的でもなく、また情実に傾かないこと、・・・飢餓と飢饉はほとんど知られておらず、あってもごく稀であること、等々、これらすべては信じがたいほどであり、多くの人々にとっては理解にさえ苦しむほどであるが、これはまさしく事実であり、最大の注目をひくに値する。

                   

                  (中略)日本人の親切なことと善良なる気質については、私は色々な例について驚きをもって見ることがしばしばあった。それは日本で商取引をしているヨーロッパ人の汚いやり方やその欺瞞に対して、思いつく限りの侮り、憎悪そして警戒心を抱くのが当然と思われる現在でさえも変わらない。国民は大変に寛容でしかも善良である。

                   

                  (中略)正義は外国人に対しても侵すべからざるものとされている。いったん契約が結ばれれば、ヨーロッパ人自身がその原因を作らない限り、取り消されたり、一字といえども変更されたりすることはない。

                   

                  タウンゼント・ハリス=初代米国総領事。1856年(安政3年)来日。

                  「日本滞在記」より

                   

                   彼ら(日本人)は皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない−これが恐らく人民の本当の幸福というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見出す。

                   

                  バジル・ホール・チェンバレン=イギリス人。1873年(明治6年)〜1905年(明治38年)、日本で教師として活躍。

                  「日本事物誌1」より

                   

                   日本人の間に長く住み、日本語に親しむことによって、この論文の後半において簡単に述べた最近の戦争や、その他の変化の間における国民のあらゆる階級の態度を見ることができたが、これらの外国人すべてに深い印象を与えた事実が一つある。それは、日本人の国民性格の根本的な逞しさと健康的なことである。極東の諸国民は――少なくともこの国民は――ヨーロッパ人と比較して知的に劣っているという考えは、間違っていることが立証された。同様にまた、異教徒の諸国民は――少なくともこの国民は――キリスト教徒と比較して道徳的に劣っているという考えは、誤りであることが証明された。

                   

                   過去半世紀間、この国のいろいろな出来事を充分に知ってきたものは誰でも、ヨーロッパの総てのキリスト教国の中に、日本ほど前非を認めるのが早く、あらゆる文明の技術において教えやすく、外交においては日本ほど率直で穏健であり、戦争に際してはこれほど騎士道的で人道的な国があろうとは、とうてい主張できないのである。もし少しでも「黄禍」があるとするならば、ヨーロッパ自身の良き性質にもまさるさらに高度の良き性質を、その新しい競争相手が所有しているからにほかならない。このように驚くべき成果が生じたのは、日本人が苦境に立たされていることを自覚し、断乎として事態を改善しようと決意し、全国民が二代にわたって熱心に働いてきたからにほかならない。

                   

                  (引用者注:「黄禍」=19世紀半ばから20世紀前半にかけて、アメリカ・ドイツ・カナダ・オーストラリアなど白人国家において、アジア人を蔑視し差別する「黄禍論」が現れた)

                   

                  エドワード・シルベスタ・モース=アメリカ人。明治10年代に計3回日本に滞在。東京大学で生物学を講じた。大森貝塚を発見。

                  「日本その日その日1」より

                   

                   外国人は日本に数カ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於いて道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生まれながらに持っているらしいことである。

                   

                   衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正さ、他人の感情についての思いやり・・・・これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。

                   

                   こう感じるのが私一人でない証拠として、我国社交界の最上級に属する人の言葉をかりよう。我々は数ヶ日の間ある田舎の宿屋に泊まっていた。下女の一人が、我々のやった間違いを丁寧に譲り合ったのを見て、この米国人は「これ等の人々の態度と典雅とは、我国最良の社交界の人々にくらべて、よしんば優れてはいないにしても、決して劣りはしない」というのであった。

                   

                  アリス・ベーコン=アメリカ人。1881年(明治14年)来日。華族女学校(後の学習院女学校)の英語教師として活躍。

                  「明治日本の女たち」より

                   

                   平民階級を語る上で忘れてならないのは、その多くを占める職人である。

                   日本が芸術や造形、色彩の美しさを大切にする心がいまだにある国として欧米で知られているのは、彼等の功績である。

                   

                   職人はこつこつと忍耐強く仕事をしながら、芸術家のような技術と創造力で、個性豊かな品々を作り上げる。買い手がつくから、賃金がもらえるから、という理由で、見本を真似して同じ形のものや納得できないものを作ることはけっしてない。日本人は、貧しい人が使う安物でさえも、上品で美しく仕上げてしまう。一方、アメリカの工場で労働者によって作り出されるあらゆる装飾は、例外なくうんざりするほど下品である。

                   

                  (中略)もちろん、日本の高価な芸術品は職人の才能と丁寧な仕事をよく体現している。しかし、私が感心したのはそのような高級品ではなく、どこにでもある、安い日用品であった。貴族から人夫にいたるまで、誰もが自然のなかにも、人が作り出したものにも美を見出し、大切にしている。

                   

                  レジナルド・カーニー=アメリカ人。歴史学者。黒人学専攻。ハンプトン大学助教授。

                  「20世紀の日本人−アメリカ黒人の日本人観 1900〜1945」(1995年発行)より

                   

                   第一次大戦が終わると、ヨーロッパの戦勝国は世界の秩序をもとに戻そうとパリで講和会議を開いた。それぞれの国にはそれぞれの思惑があったが、一致していたのは、日本とアメリカからの申し入れには耳を傾けよう、という姿勢だった。

                   

                   ウィルソン大統領は、世界秩序回復のための十四カ条を手に、パリに乗り込んだ。彼がまず唱えたのは、国際法と国際秩序の確立であった。日本の代表団は、ウィルソンが出せなかった十五番目の提案を持って講和会議に出席した。「わが大日本帝国は、国際連盟の盟約として、人種平等の原則が固守されるべきことを、ここに提案する」。これこそが、いわゆる十五番目の提案であった。……人類平等の実現をめざしていた日本と、そうでなかったウィルソン、その差がここに出たといってもよいだろう。

                   

                   もし日本のこの十五番目の提案が実現されていれば、アメリカ黒人にとって、おもしろいパラドックスが生じていたかもしれない。……アメリカ黒人がほかの連盟国の人間と同じように、民主的に扱われるためには、アメリカ以外の外国に住まねばならなかったはずである。そんなパラドックスが生じていたかもしれないのだ。……「おそらく世界で最も有望な、有色人種の期待の星」、それが日本であるという確信。日本はすべての有色人種に利益をもたらすという確信があったのだ。それは、たとえ一つでも、有色人種の国家が列強の仲間入りをすれば、あらゆる有色人種の扱いが根本的に変わるだろうという、強い信念によるものだった。……全米黒人新聞協会は、次のようなコメントを発表した。「われわれ黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を闘わせている日本に、最大の敬意を払うものである」「全米千二百万の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」。

                   

                  (引用者注:日本が提出したこの「人種差別撤廃法案」の投票結果は賛成17、反対11であったが、委員長を務めていたウィルソンが、かような重要案件は全会一致でなければいけないとして、不採択を宣言した)

                   

                  フランク・ロス・マッコイ陸軍少将=リットン調査団のアメリカ代表。

                  「朝鮮新話」(鎌田沢一郎)(昭和25年発行)より

                   1932年(昭和7年)に宇垣一成・朝鮮総督に語った言葉

                   

                   自分は昨夜来東洋における一つの驚異を発見した。それは、今回の長い旅行における大きい収穫であつた。同時に、自分の今日までの研究不足をしみじみと愧(は)ぢている。何であるかといへば、朝鮮に対する全般的な認識の相違である。

                   

                   吾々は、朝鮮といふ所は、地理的には大体満州の延長であるから、相変らず匪賊(盗賊)が横行し、産業も振るはず、赭土(あかつち)色の禿山の下で、民衆は懶惰(らんだ)の生活を送つてゐるものとばかり思つてゐた。然るに列車が一度鴨緑江の鉄橋を越ゆるや車窓に隠見する事々物々、皆吾々の予想に反し、見渡す山河は青々として繁茂し、農民は水田に出て、孜々(しし)として耕作に従事し平壌その他工業地帯の煙突は活発に煙を吐き、駅頭に散見する民衆は皆さつぽりした衣服を纏(まと)い、治安はよく維持せられていて何ら不安はなく、民衆は極めて秩序正しく行動し、且つその顔に憂色がなく、満州に比べて実に隔世の観がしたのである。

                   

                   これはとりもなほさず、貴国の植民政策が妥当であつて、歴代の総督が熱心に徳政を施された結果であることを卒直にお歓びすると同時に、今後における吾々の朝鮮観を根本より改めるであらう。

                   

                  ククリット・プラモード=タイ国元首相。

                  現地紙「サイアム・ラット紙」1945年12月8日付より

                   

                   日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。

                   

                   十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。

                   

                  氏名不詳(英軍中尉)

                  「アーロン収容所」(会田雄次=歴史学者。1943年に応召しビルマ戦線に歩兵一等兵として従軍、イギリス軍の捕虜となった)より

                   

                   私たちの将校は「日本が戦争をおこしたのは申しわけないことであった。これからは仲よくしたい」という意味のことを言った。

                  (中略)英軍中尉は非常にきっとした態度をとって答えた。

                   

                   「君はスレイブ(奴隷)か。スレイブだったのか。(中略)われわれはわれわれの祖国の行動が正しいと思って戦った。君たちも自分の国を正しいと思って戦ったのだろう。負けたらすぐ悪かったと本当に思うほどその信念はたよりなかったのか。それともただ主人の命令だったから悪いと知りつつ戦ったのか。負けたらすぐ勝者のご機嫌をとるのか。そういう人は奴隷であってサムライではない。われわれは多くの戦友をこのビルマ戦線で失った。私はかれらが奴隷と戦って死んだとは思いたくない。私たちは日本のサムライたちと戦って勝ったことを誇りとしているのだ。そういう情けないことは言ってくれるな」

                   

                  ヘレン・ミアーズ=アメリカ人。東洋学者。戦前、戦後に来日。連合国占領軍最高司令部の諮問機関のメンバー。

                  「アメリカの鏡・日本」(昭和23年出版。出版当時、マッカーサーにより邦訳出版が禁止された)より

                   

                   つい五年ほど前、米英両国の軍隊と砲艦が自国民の生命財産を守るために中国の「盗賊」を攻撃したとき、両国の世論は中国人を野蛮人と呼んで非難した。イギリスとアメリカの国民は忘れているようだが、日本人はよく覚えている。ところが、日本が同じように中国の「盗賊」を攻撃すると、同じ国民が日本人を野蛮人と呼ぶのである。

                   

                  ダグラス・マッカーサー=アメリカ人。日本占領連合軍最高司令官。

                  1951年(昭和26年)5月3日、アメリカ合衆国議会上院の軍事外交合同委員会で行われた証言

                   

                   日本は八千万に近い膨大な人口を抱え、それが四つの島の中にひしめいているのだということを理解していただかなくてはなりません。その半分が農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。

                   

                   潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまでに接したいずれにも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの地点においてか、日本の労働者は、人間は怠けている時よりも、働き、生産している時の方がより幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでもよいようなものを発見していたのです。

                   

                   これほど巨大な労働能力を持つているということは、彼らには何か働くための材料が必要だということを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。

                   しかし彼らは手を加えるべき原料を得ることができませんでした。

                   

                   日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫(すず)が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。

                   

                   もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。

                   

                  ラダビノード・パール=極東国際軍事裁判のインド代表判事。

                  1952年(昭和27年)11月、広島高裁での歓迎レセプションにおける発言

                   

                   わたしは1928年から45年までの18年間(東京裁判の審議期間)の歴史を2年8カ月かかって調べた。各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中にはおそらく日本人の知らなかった問題もある。それをわたくしは判決文の中に綴った。 

                   

                   このわたくしの歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。 そして自分らの子弟に『日本は国際犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。

                   

                   満州事変から大東亜戦争勃発にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って卑屈・退廃に流されてゆくのを、私は見過ごして平然たるわけにはゆかない。彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤られた歴史は書き換えられねばならない。

                   

                  ラダビノード・パール=極東国際軍事裁判のインド代表判事。

                  1952年(昭和27年)11月、東京弁護士会での講演における発言

                   

                   日本人はこの裁判の正体を正しく批判し、彼らの戦時謀略にごまかされてはならぬ。日本が過去の戦争において国際法上の罪を犯したという錯覚におちいることは、民族自尊の精神を失うものである。自尊心と自国の名誉と誇りを失った民族は、強大国に迎合する卑屈なる植民地民族に転落する。

                   日本よ!日本人は連合国から与えられた《戦犯》の観念を頭から一掃せよ。

                   

                  朴鉄柱=韓国人。大東亜戦争下に日本の皇典講究所を卒業。住吉神社に奉職。終戦後、韓国に帰国。李承晩大統領の反日政権下にあり、辛酸を嘗めさせられた。1954年(昭和29年)韓日文化研究所を設立。1990年逝去。

                  「日韓共鳴二千年史」(名越二荒之助編著)より

                   1967年(昭和42年)に訪韓した名越二荒之助に語った言葉

                   

                   現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。“事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし”というのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。

                   

                   日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。日露戦争と大東亜戦争――この二つの捨身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。

                   

                  (中略)大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。日本は戦争に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、聖なる戦争であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。

                   

                  ラジャー・ダト・ノンチック=マレーシア人。南方特別留学生として日本で学び、戦後独立運動に参加。元上院・下院議員。1994年逝去。

                  「日本人よありがとう マレーシアはこうして独立した ラジャー・ダト・ノンチックの半生記」(土生良樹)より

                   

                  かつて 日本人は 清らかで美しかった

                  かつて 日本人は 親切でこころ豊かだった

                  アジアのどの国の誰にでも

                  自分のことのように 一生懸命つくしてくれた

                   

                  何千万人もの 人のなかには 少しは 変な人もいたし

                  おこりんぼや わがままな人もいた

                  自分の考えを おしつけて いばってばかりいる人だって

                  いなかったわけじゃない

                   

                  でも その頃の日本人は

                  そんな少しの いやなことや 不愉快さを越えて

                  おおらかで まじめで 希望に満ち明るかった

                   

                  戦後の日本人は 自分たち日本人のことを

                  悪者だと思い込まされた

                  学校でも ジャーナリズムも そうだとしか教えなかったから

                  まじめに 自分たちの父祖や先輩は

                  悪いことばかりした残虐無情な

                  ひどい人たちだったと 思っているようだ

                   

                  だからアジアの国に行ったら ひたすら ペコペコあやまって

                  私たちはそんなことはいたしませんと 言えばよいと思っている

                   

                  そのくせ 経済力がついてきて 技術が向上してくると

                  自分の国や自分までが えらいと思うようになってきて

                  うわべや 口先では 済まなかった悪かったと言いながら

                  ひとりよがりの 自分本位の えらそうな態度をする

                  そんな 今の日本人が 心配だ

                   

                  本当に どうなっちまったんだろう

                  日本人は そんなはずじゃなかったのに

                  本当の日本人を知っているわたしたちは

                  今は いつも 歯がゆくて くやしい思いがする

                   

                  自分のことや 自分の会社の利益ばかり考えて

                  こせこせと 身勝手な行動ばかりしている

                  ヒョロヒョロの日本人は

                  これが本当の日本人なのだろうか

                   

                  自分たちだけで 集まっては

                  自分たちだけの 楽しみや ぜいたくに ふけりながら

                  自分がお世話になって住んでいる

                  自分の会社が仕事をしている

                  その国と 国民のことを さげすんだ眼でみたり バカにする

                   

                  こんな ひとたちと 本当に仲よくしてゆけるだろうか

                  どうして どうして日本人は こんなになってしまったんだ

                   

                  1989年4月 クアラルンプールにて

                   

                  彭榮次=台湾・李登輝前総統の側近。

                  2000年、訪台した小林よしのりに語った言葉

                   

                   台湾は数百年もの間、3つの言葉が入り乱れていた。しかし日本によってやっと1つの言葉を得た。そして日本は台湾に「アイデンティティー」という概念と「戦争」というロマンを持ち込んだ。我々はそんなこと考えたことなかったから熱狂した。我々は夢中になったんだ。けど突然見捨てられたんだ「あなたたちは日本人ではありません」(引用者注:日本の敗戦のこと)。

                   

                   だから、私たちは親から「お寺に行け」と言われた。昔、道教の寺では中国の古典を教えていた。寺子屋のような感じだったから、そこで中国というものを学んだよ。けど実際に入ってきた中国は全く違った。

                   

                   日本は「いさぎよさ」「切腹」の概念を我々台湾人に残していた。中国の価値観は「どんな汚いことをしても生き残る」というものだ。我々台湾人に受け入れられるはずがない。だから、二・二八事件ではその2つの価値観が衝突して負けたんだよ。負けるのは当たり前、だってこっちは「いさぎよく死ぬ」という価値観なんだから。だからみんなバタバタ死んじゃった。

                   

                   日本は今、中国とペタペタしてるようだが、日本と中国が仲良くできるはずがない。そのコンフリクトが台湾だ。日本にはすでに死んでしまった価値観が台湾に残ってる。日本が台湾に置いていった価値観だ。我々の世代は下の世代に「言葉(日本語)」を残すことはできなかった。でも価値観は残せたと思う。

                   

                   台湾語に「あさり」という言葉がある。日本語でいさぎよいことつまり「あっさり」が台湾語として残ったのが「あさり」だ。「あさり」という言葉はそのまま台湾語でホメ言葉になっている。「あさり」は日本が台湾に残した日本精神(リップンチェンシン)なのだ。

                   

                  イビチャ・オシム=旧ユーゴスラビア(ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエボ出身のサッカー選手、指導者。2006年、日本代表監督に就任。

                  日経新聞2007年1月31日付インタビュー記事より

                   

                   千葉の監督になって驚いたことの一つが、負けチームにサポーターがブーイングではなく“次はがんばれ”と励ますことだった。どうもこの国には結果だけにとらわれない文化がある、ということに気づいた。

                   

                   日本には豊かであることを逆にコンプレックスに感じているサッカー関係者がいる。ハングリーでないと。でも、経済的に恵まれ、何でも選べる中からあえてプロを選んだ日本の選手にはサッカーをする喜びがまだある。そこは欧州のカネまみれのサッカーより、ずっといいと私は思う。

                   

                   日本に来てサッカー観が変わった。日本に感化され、同化したという意味ではない。それでは皆さんもつまらないし、私が監督をするメリットもない。ともに働きながら、日本人の面白さに感じ入った、ということです。何というか……日本のアンビバレントなポリバレント性に。民主主義を原則としながら天皇制があるみたいな。みんなを尊重するやり方といいますか。

                   

                   

                   

                  ひとつだけ。

                  「天皇制」というのは、日本で共産思想を広めようとしている者達が作り出した言葉ですから要注意。

                  何かを倒さなければ、「革命」となりませんから。

                  では何と呼ぶか?

                  「すめらぎ(天皇)」という呼び方にある古より連綿と国を統(す)めることを旨としてきた皇統、あるいは、君と知らしめられた民との結び付き。。

                   

                   

                   

                  あまり抜粋になりませんでしたアセアセ

                   

                  ブログ「ぼやきくっくり」

                  ■【一覧】「外国人から見た日本と日本人」

                  こういう人名だけでまとめられた一覧も作られています。長いシリーズですから、じっくり読み進めるのにも、これはというエントリーを選ぶのにも、見やすいものとなっております。

                   


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