新たな同盟とヘタリアにみる先の冷戦

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    29日にワシントンの米国両議会に招かれた安倍総理が行った演説は、歴史の転換点のひとつとなったと言ってはばからないでしょう。まだ余韻に浸っています。

     

    東のはしの小さな島国と、西のはしの大きな国に、人は何かを求めて辿り着いた。

    人類の理想の、かたや古来からの道徳や武士道、かたや若々しい正義や希望。

    このふたつが広い海を越えて結び付けば何だってできる。

    今日は「歴史の試練」を乗り越えて、「対等に」付き合うことができるという記念の日。

    新たな同盟。希望の同盟。

    と、日頃、アルフレッド・アメリカがどうしようもなく好きな私としては、大風呂敷を広げたくなる演説でした。

     

    小泉政権下の時、初めて、ああ、日本はアメリカに負けたんだと思ったことを思い出します。それは既に過去のことだと思っていたのに。

    この日の演説では、過去を乗り越えた、同盟の形が示されていました。「アメリカに期待されるのは、過去も今も未来も、希望を作り出すことである。この同盟をこう呼ぼう。希望の同盟と」。「アメリカ」の心をくすぐる最後の言葉。

     

    夢みたいです、安倍政権。

     

     

    そしてこちらはそんなこんなでヘタリア熱が再燃して見つけた動画です。凄いです。

    主に米露の先の大戦から冷戦までを時間軸で追った、えと、MMDという技術が入った動画だそうです。ほんとに凄いです。

     

    自由の国「アメリカ」と、酷寒の大地に広がる国「ロシア」。

    過酷な潮流を切り抜けて来たこの世界。「日本」はこれから、何ができるでしょうか。




    【第12回MMD杯本選遅刻組】 まだ見ぬ明日へ 【APヘタリアMMD-PV合作】

     

     

    他の「国」の補足を少し。

    眉毛が太くてしょうがないなという仕草を垣間見せるのが「イギリス」です。

    そして、気取ってる長髪のお兄さんが「フランス」です。

    彼ら連合軍に追いつめられた二人組は「ドイツ」と「プロイセン」。

    「プロイセン」は、「ドイツ」の兄貴で、少しずつ領土を減らしながらドイツに溶け込み、大戦中は、ナチ党政権下に置かれました。そして終戦後はその一部が東ドイツとなります。

     

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    涙の乾く間もあらば(安倍総理の外交にふれて)

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      日曜の夕方は、くっくりさんの記事を読んでは泣き、夜九時からのドラマ「天皇の料理番」での「どやさ」のシーンを見ては笑い泣きして大変でした。

       

      真心。素敵ですね。

       

      ブログ「ぼやきくっくり」は、ネット巡りのきっかけを作ってくれたひとつです。E・S・モースの著作「日本その日その日」にはまっていたら、自然とお邪魔するようになって、それからです。

       

      硫黄島(いおうとう)のくだりもそうですが、中継で安倍総理の後ろの一段上の議長席の方がハンカチをしきりに取り出していて、あちらの方だから、鼻風邪かなと単純に思っていたら、そうじゃなかったというくだりでもう泣くしかないという感じでした。安倍総理の演説がアメリカの人のハートに確かに届いたと知ったら、こちらの心の琴線にも触れてしまいます。

       

      もうひとつ。

      アメリカ訪問の前に、インドネシアにおいてのアジア=アフリカ会議に出席された安倍総理。合間を縫って、終戦後に起こった蘭英混合軍からの独立戦争をインドネシア人と共に戦った、日本人たちの墓前に献花をなさったそうです。あえてこの戦いのために残った日本人は二千人にのぼると言われています。

       

       

       

      4月22日

      カリバタ英雄墓地

       

























      カリバタ英雄墓地で
      献花を行う安倍総理







       



       

      ジャカルタ−アジア・アフリカ首脳会議の開会式を終えると、日本の安倍晋三首相はその日、カリバタ英雄墓地を訪問した。

       

      「Okezone」の調べによれば、2015年4月22日水曜日午前10時頃、安倍首相はカリバタ英雄墓地に到着し、ジャカルタ管区司令部陸軍地方軍管区参謀長イブヌ准将に迎えられた。

       

      遺族および補佐官が同行した今回のカリバタ英雄墓地訪問で、安倍首相はインドネシア人と共に独立戦争を戦った日本人の墓前に献花を行なった。その日本人の名は衛藤七男という。

       

      カリバタ英雄墓地の管理者によれば、インドネシア独立戦争に参加した日本人28名が同墓地に埋葬されているという。

       

      カリバタ英雄墓地の参拝を終えると、安倍首相は再びアジア・アフリカ首脳会議の行事に出席するために帰路についた。

       

      Okezone, Rabu, 22 April 2015

      PM Jepang Ziarahi Makam Pahlawan Kalibata

       

       

      ★ ★ ★ ★ ★

      ジャカルタ−ジャカルタ・コンベンション・センター(JCC)で開催されたアジア・アフリカ会議開会式への出席を終えると、日本の安倍晋三首相はカリバタ英雄墓地を訪れた。首相は国家英雄に認定された日本兵の墓に献花を行なった。

       

      2015年4月22日水曜日午前10時13分(インドネシア西部時間)カリバタ英雄墓地に到着した。この来訪は献花を予定する日本兵の親類に付き添われたものだった。

       

      安倍首相は献花を行う前に、追悼曲が流れる中、英雄たちの墓前で黙とうを捧げた。黙とうを終えると、黒いスーツに青いネクタイを締めた安倍首相は日本出身の兵士たちが眠る一角へと向かった。

       

      安倍首相は9つの墓に献花を行なった。献花を終えると、首相は厳重な警備の中、記帳場所へと向かった。10時40分、安倍首相はカリバタ英雄墓地を後にした。

       

      献花に付き添ったヘリアントは衛藤七男という名の日本兵の子息のひとりだ。彼は安倍首相による父親の墓の訪問は誇らしいことだと話す。

       

      「首相の訪問と献花は大変光栄なことです」とオレンジを基調としたバティックを着たヘリアントは語った。

       

      ヘリアントによれば、日本兵であった父親はインドネシア国軍に加入し、インドネシアの独立を目指して連合軍と戦ったという。この戦いによって、ヘリアントの父親は勲章を受け、英雄墓地に埋葬された。

       

      ヘリアントの他に、ヘンドリ・クロイワも安倍首相が日本兵の墓を訪問したことを嬉しく思うと話す。この出来事は、インドネシアの独立における日本兵の貢献の存在を証明したものだ。

       

      「過去(小学校)に植民地支配者の息子として何度もいじめられてきました。いじめは私たちの父親もインドネシア独立に貢献したのだと同級生たちが気が付くまで続きました。1963年になって、彼ら(現地学校の友人)も分かってくれました」とヘンドリは語った。
       

       

      Detik.com, Rabu, 22/04/2015 11:23 WIB

      Peringatan 60 Tahun KAA: Ditemani Anak Veteran Jepang, PM Shinzo Abe Tabur Bunga di TMP Kalibata

       

       

       

      その他の記事はこちらから。全て、インドネシアの報道機関によるものの翻訳となっています。

       

      インドネシア雑記帳

       http://indonesia-zakkicho.ldblog.jp/archives/28306428.html

       

       

      この記事関連のコメントを抜粋します。安倍総理の心中はいかに。

       

      岸信介(安倍総理の祖父)は昭和32年5月、東南アジア歴訪の旅に出た。

      大戦の結果独立を果たした国々で、たいへん歓迎された。

      「私は総理としてアメリカへ行くことを考えていた。それには東南アジアを先に回って、アメリカと交渉する場合に、孤立した日本ということではなしに、アジアを代表する日本にならなければいけない、という考えで行ったわけです。戦後は勿論誰も首相としてアジア諸国に行っていない。それらの国々の首脳と会って、アジアの将来を考え、アメリカとの関係を緊密にしなきゃならないと考えた。それでアメリカに行く前後に15ヶ国を二つに分けて回りました」

      安倍首相はお祖父さんをお手本にしているとみえる。

      そして硫黄島の栗林中将の孫にあたる新藤さんを連れてアメリカに行った。

        (新藤義孝さんは、前総務大臣・現衆議院議員)
       

       


       

      4月29日

      ワシントンD.C. アメリカ合衆国議会議事堂

       

      演説のタイトルは、「Toward an Alliance of  Hope」。

      訳すると「希望の同盟に向かって」。

       

      「世界がもっと住みやすい良い所になるために、私たち2国は手を結び合おう」と呼び掛けている。

      アメリカと日本が、「対等に」力を合わせれば、この世界はもっと良くなる、と提案している。
       

      Let the two of us, America and Japan, join our hands together and do our best to make the world a better, a much better, place to live.


       

      ここで、演説の背景を見てみます。

      中国は中華思想が続いている。その行いから目をそらすために、日本は今でも歴史を「修正」して「戦後秩序」を引っくり返そうとしているとの嘘の宣伝を展開することによって、「悪いのは日本であって中国ではない」との国際世論を作り上げるのを目的としている。 

      実際そうなのか?そうではない。

      日本は中韓に捏造された歴史は修正し、日本自らが隠した歴史は取り戻して、戦後レジーム(体制)から抜け出そうとしているのだ。

       

      私たちは歴史の流れに埋もれようとしているお互いの国のために戦った英雄達を忘れてはならない。今から世界の秩序を守るため、また、日本が目指して来たアジアの平和と繁栄が適うよう、共に手を結びませんか。でも今までとは違いますよ。あくまで対等に、ですよ。

      アメリカの立場を尊重し、熾烈な歴史を思い、和解を求め、その上での提案。そんな安倍総理の歴史に残るであろう演説でした。

      例えば、ローラバッカー共和党下院議員はこう評価したそうです。

      「レーガン元大統領のスピーチ・ライターだった経験から、Aプラスを与えられる。歴史問題を威厳ある形で語った。第二次大戦に関し、首相はもう卑屈な態度を取る必要はない」

       

       

      くっくりさんの演説に関する元の記事はこちらです。
       

      ぼやきくっくり

      http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1716.html

       

       

       

       

       

       


      近衛家の戦い(近衛文麿・上)〜八百年御側に仕え〜

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        (長文転載)

        ■■ Japan On the Globe(572) 国際派日本人養成講座 ■■■■

              地球史探訪: 近衛文麿の戦い(上)

                          日本を戦争に引きずり込んだ「見えない力」

        戦争を阻止すべく、近衛文麿首相は日米首脳会談実現に全力を上げたが、、、

            

        1.「僕の志は知る人ぞ知る」■

             昭和20(1945)年12月16日朝、青酸カリを飲んですでに冷た

            くなっている近衛の遺体が発見された。近衛は戦争犯罪容疑で米軍

            に呼び出しを受けており、その前夜、次のようなメモを遺していた。

                 僕は支那事変以来、多くの政治上過誤を冒した。之に対し深

                く責任を感じて居るが、所謂(いわゆる)戦争犯罪人として、

                米国の法廷に於(おい)て裁判を受けることは、堪え難いこと

                である。殊に僕は、支那事変に責任を感ずればこそ、この事変

                解決を最大の使命とした。そしてこの解決の唯一の途は、米国

                との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたの

                である。その米国から今、犯罪人として指名を受けることは、

                誠に残念に思う。

                 しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於(お)いてさ

                え、そこに多少の知己(ちき)が存することを確信する。[1,

                p18]

             米国における「知己」の一人が、近衛が首相として日米交渉に全

            力を尽くしていた時の駐日米国大使ジョセフ・グルーである。グル

            ーは近衛が万策尽きて首相を辞任した際に、次のような手紙を送っ

            ている。

                 日本のために貴下が捧げられた、長い難渋な、この上なく卓

                抜な公的奉仕に敬意を表します。[1,p253]

             近衛は昭和18年4月、すでに敗色濃厚となった大戦の最中に、

            支那事変当時を回想して、次のように述懐している。

                 なにもかも自分の考えてゐたことと逆な結果になつてしまつ

                た。ことこゝに至って静かに考へてみると、何者か眼に見えな

                い力にあやつられてゐたような気がする。[2]

            「何者か目に見えない力」が、近衛内閣を支那事変に巻き込み、対米

            戦争に駆り立て、そして今また近衛を戦争犯罪容疑で死に至らしめ

            たのである。近衛の悲劇は、昭和日本の歩みの象徴であった。

            

        2.日本を支那事変に引きずり込んだ内外二つの力■

             支那事変は、昭和12年(1937)年7月、近衛の第一次内閣発足の

            一ヶ月後に勃発したものである。その発端となったのが、北京郊外

            の蘆溝橋での日本軍と国民政府軍の衝突で、中国共産党によって両

            軍を戦わせた陰謀である事を示唆する証拠がいくつか見つかってい

            る。

             近衛は不拡大方針をとり、現地では停戦協定も結ばれたが、日本

            軍は何度も不法射撃を受け、通州では260余名の日本人が虐殺さ

            れた。さらには上海でも中国共産党に通じた国民政府軍の高官が日

            本軍を攻撃して、戦火を広げた。

             一方、近衛内閣の内部にも、共産主義者が忍び込んでいた。近衛

            がブレーンとしていた昭和研究会のメンバー、元朝日新聞記者・尾

            崎秀實は「東亜共同体」建設のために、親日政権の樹立を主張して

            いた。これは裏返せば、蒋介石政権打倒を意味し、日本と国民政府

            を戦わせて、共倒れさせ、日中で「赤い東亜共同体」を建設しよう

            という陰謀であった。

             昭和研究会周辺には共産主義者がいるらしい、との噂が出始めて、

            近衛は第2次、第3次内閣では尾崎を遠ざけた。噂は真実で、後に

            駐日ドイツ大使館顧問のリヒャルト・ゾルゲがソ連のスパイである

            事が発覚した際に、尾崎もその協力者として逮捕され、死刑に処せ

            られている。

             こうして近衛内閣は、内からと外からの共産主義勢力の謀略によ

            り、支那事変に引きずり込まれていったのである。

             昭和14(1939)年1月、支那事変を収拾できないまま、近衛内閣

            は総辞職した。

        3.「多くの政治上過誤を冒した」■

             昭和15(1940)年7月、第2次近衛内閣が発足した。すでに欧州

            大戦でヒトラーの快進撃が始まっており、「バスに乗り遅れるな」

            との声が国内にも上がっていた。ドイツ、イタリアとの三国同盟を、

            前任の米内光政内閣はなんとか抑えこんでいたが、近衛内閣発足後2

            ヶ月で成立させてしまう。

             さらに日本軍の南部仏印進駐を契機に、アメリカの対日石油全面

            禁輸を招き、日米間の緊張が高まった。近衛は、三国同盟を推進し

            てきた松岡洋右を更迭し、第三次内閣を発足させた。

             第1次内閣での支那事変収拾失敗と、第2次での三国同盟成立、

            第3次の日米対立と、近衛の首相在任中にわが国は大きく戦争に近

            づいていくのだが、それを近衛は「僕は支那事変以来、多くの政治上

            過誤を冒した」と振り返っているのである。

             華族筆頭の名家に生まれ、下積みの経験もないまま首相にまでな

            ってしまった近衛の脇の甘さが、こうした過誤の原因だろう。しか

            し、日米戦争の危機を迎えて、近衛は立ち上がった。

        4.「生命のことは考えない」■

             昭和16(1941)年8月4日、開戦の4か月前、近衛はある覚悟を

            陸海両相に打ち明けた。

                 これまでの日米交渉では種々の誤解や感情の行き違いもあり

                このまま進んでしまって戦争となることは陛下にも国民にも

                申し訳がない。今は危機一髪のときであって、野村大使だけを

                通じての交渉では時期を逸するかもしれない。

                 そこで自分はホノルルにおいてルーズベルト大統領と直接会

                談をして帝国の真意を率直に述べたいと思う。・・・この会談

                は急を要する。

             及川海相は即座に賛成し、東條陸相は種々注文をつけながらも異

            存ないと言ってきた。

             さっそく天皇に奏上したところ、「石油の全面禁輸に関し、海軍

            側の情勢もあることだから、大統領との会見は速やかにせよ」と督

            促されて、近衛は決心を固めた。

             その決心とは、ルーズベルト大統領との会談で支那からの撤兵を

            要求されたら、その場で電報で天皇の裁可を仰ぎ、決定調印すると

            いう非常手段をとることだった。

             周囲から「そんなことをしたら殺されるに決まっている」と心配

            する声があがったが、近衛は、生命のことは考えない、と答えた。

        5.近衛の「生涯の喜び」■

             近衛の提案を受けたルーズベルトは、「私の警告と平和的プログ

            ラムに従うなら、近衛と会ってもよい、場所はアラスカのジュノー

            でどうか。期日は十月中旬ということにしよう」と回答した。「警

            告」とは、日本がこれ以上侵略を続ければ、たとえアメリカ自体が

            攻撃されなくとも、その第三国(英国、オランダを含む)を援助す

            る、という内容であった。

             近衛はその「警告」を原則承知する回答を付けて、訓電させた。

            この近衛回答にルーズベルトは納得して頷いたという。近衛はこれ

            を生涯の喜びとして手記『平和への努力』にこう書いている。[1,

            p241]

                 大統領は余のメッセーヂを読み、「非常に立派なもの」と大

                いに賞賛した後、「近衛公とは三日間くらに会談を希望する」

                といひ、期日に関してこそ言質を与へなかったが、大いに乗気の

                色を見せたのである。

                 恐らくこの時が日米の一番近寄った時であったかも知れない。

             しかし、近衛の喜びは長くは続かなかった。9月3日、ルーズベ

            ルトは野村大使を呼んで近衛への返書を渡した。

                 この会談そのものには賛成するが両国の国内事情も多々ある。

                近衛公には同情するがやはり事前の予備交渉で詰める事が必要

                だろう。

             ルーズベルトが態度を翻した裏には、国務長官コーデル・ハルが

            「首脳会談の前に話をまとめておかねば会談を開く意味はない」と

            譲らなかったからである。

        6.「私は3カ月間は日本を赤ん坊扱いできる」■

            

             実は、ルーズベルトの周辺にも共産主義者たちが入り込んでいた。

            彼らは日米を戦わせることで、日本の軍事力を米国に向け、ドイツ

            と戦っていたソ連を護ろうとしたのである。 

             後にハルの名を冠した「ハル・ノート」なる要求が日本政府につ

            きつけられた。これは米国議会にも秘密にされており、後にその内

            容を知った共和党下院リーダー、ハミルトン・フィッシュ議員が

            「この最後通牒により、日本を開戦に追込んだ責任がルーズベルト

            にある」と断言したほど、厳しい要求を盛り込んでいた。

            「ハル・ノート」の原案は財務次官ハリー・デクスター・ホワイト

            が作成しており、彼は後にソ連のスパイであったことが明らかにな

            っている。

             こうした共産主義者たちに乗せられていたルーズベルトはすでに

            対日開戦を決心しており、近衛の提案を受け取る直前には、英国首

            相チャーチルと会談して、第二次大戦の指導方針や戦後処理に至る

            まで合意していた。

             その際に、ルーズベルトは「私は3カ月間は日本を赤ん坊扱いで

            きる」とまで言っていた。近衛の回答を賞賛したのも、「赤ん坊扱

            い」の一つだったのだろう。

             近衛は「生命のことは考えない」と言うほど、日米開戦を避ける

            ために必死の思いで奮闘した。しかし、日本を戦争に陥れようとい

            う「見えない力」が米国側にも働いている事に、近衛は気がついて

            いなかった。

            

        7.グルーとの会見■

             9月6日、御前会議が開かれ、陸海軍首脳部がまとめた「帝国国

            策遂行要領」が提示された。それは「10月下旬を目途に対米戦争

            準備を完遂する」「並行して米英との外交交渉を進める」「10月

            上旬に至っても外交交渉の目途がつかない場合は対米開戦を決意す

            る」というものだった。

             昭和天皇は「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさ

            わぐらむ」との明治天皇御製を拝誦され、陸軍の主張する戦争準備

            は進めても、なお「外交を第一とせよ」との思し召しを示された。

             東條はこれに驚愕し、「聖慮は和平を望んでおられる。こうなっ

            たら何としても日米交渉を成功させねばならない」と自分に言い聞

            かせるように言った。天皇の思し召しにより、近衛の進めていた日

            米交渉の重要性を軍部も再認識する所となった。

             この晩、近衛は駐日米国大使グルーと秘かに会い、こう説いた。

                 自分が大統領と直接会談できれば双方の見解対立を必ず解決

                できる。現内閣では陸海軍は一致して交渉の成立を希望してお

                り、こういう機会は生涯のうちにまたとないから、この際一刻も

                早く大統領と会見して根本問題につき意見を交換したい。・・・  

                 自分は身の安全も顧みず、日米関係の再建のために命をかけ

                たいと思っている。もしアメリカへ行くなら一行の船には東京

                の天皇と直接交信できる性能を持ったラジオを装備し、大統領

                と合意に達することがあれば天皇に奏上し、詔勅が発せられ、

                即刻すべての敵対行為を取りやめる命令が下されることになっ

                ている。[1,p246]

             グルーは、早速、近衛との会談を受諾するよう促す電報を本国に

            打った。そして、日本の和平派は未曾有で極めて危険なことだが、

            天皇を介入させてアメリカとの戦争を避け、日本の方向転換実現の

            ためにあらゆる可能な方法を用いる覚悟をしている、と自らの手記

            に遺した。

        8.東條との対立■

             しかし、10月2日にハルから示された回答は、近衛の提案を一

            蹴したものだった。日本が中国の特定地域に不特定期間駐屯しよう

            としていることを非難し、日米首脳会談は両国間になお現存する意

            見不一致のままでは効果を望めない、と突き放したのだった。

             この回答に軍部は「外交交渉に望み無し、もはや開戦やむなし」

            との意見で固まってしまった。それでもなお、近衛はあきらめずに、

            10月5日、東條を私邸に呼んで話し合った。

             近衛はまだ外交交渉の望みを捨てるわけにはいかない、と迫ったが、

            東條は、もはや承伏しがたい、と態度を硬化させたままだった。

                 一番問題になっているのは、三国同盟ではなく支那の駐兵だ

                と思うから、ここは一度引き上げて、わずかな資源保護くらい

                を名目とした兵を残すだけにしてはいかがか。[1,p249]

             東條は「アメリカの態度は強硬で明白だ。駐兵拒否といわれては

            陸軍は譲れない」と突っぱねた。こんな押し問答が何度も続いた。

             東條の説得に失敗した近衛内閣は総辞職し、内大臣・木戸幸一の

            推挙で、東条内閣が登場する。東条は、昭和天皇の意向に従って最

            後の対米交渉を進めたが、その努力もむなしく遂にハル・ノートを

            突きつけられて、開戦を迎えることになる。

            

        9.「日米交渉に全力を尽くした」近衛■

             この経緯を辿れば、近衛が「日米交渉に全力を尽くした」という

            のも誇張ではないことが理解できよう。そしてグルーがそれを「長

            い難渋な、この上なく卓抜な公的奉仕」と称賛したのも単なるお世

            辞ではないことは明らかである。

             米国が真に平和を望んでいるとしたら、グルーが促した通り、日米

            会談を受諾して、和平への一縷の望みを模索したはずである。しか

            し、ルーズベルト大統領はすでに対日開戦を決意しており、近衛の

            必死の提案を一蹴したのである。

             その米国が日本を占領して、近衛を「戦争犯罪人」として検挙し

            ようとは、いかにも理不尽な仕打ちであった。実は、そこにも「見

            えない力」が働いていたのである。

                                           (続く、文責:伊勢雅臣)

        参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)  

        1. 工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず−近衛文磨と天皇』★★、

           日本経済新聞社、H18

        2. 三田村武夫、「大東亜戦争とスターリンの謀略」★★、自由社、

           S62

        © 平成20年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.


        近衛家の戦い(近衛文麿・下)〜八百年御側に仕え〜

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          (転載つづき)

          ■■ Japan On the Globe(573) 国際派日本人養成講座 ■■■■

                地球史探訪: 近衛文麿の戦い(下)

                             命も名誉も捨てて近衛が護ったもの

              

          「見えない力」が、近衛を戦争犯罪者として追い詰めていった。

          1.「共産革命にまで引きずらんとする意図」■

               昭和20(1945)年2月、近衛は3年ぶりに直接、天皇に言上でき

              る機会を得て、上奏文を読み上げた。

              「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存知候」との断言で始め、「最

              も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革

              命に候」と述べた。

               ソ連は東欧諸国において着々と共産主義政権を樹立して、勢力を

              広げつつあった。東アジアにおいても、モスクワから野坂参三(後

              に日本共産党名誉議長となったが、ソ連スパイだった事が発覚し、

              除名処分)が中国共産党に合流して、日本での共産革命の準備を始

              めていた。

                   少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと

                  信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存

                  じ候。・・・

                   これら軍部内一味の者の革新論の狙いは、必ずしも共産革命

                  に非(あら)ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志

                  (之を右翼というも可なり、左翼というも可なり、所謂(いわゆ

                  る)右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は、意図的に

                  共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵しており、無智単

                  純なる軍人、これに踊らされたりと見て大過なしと存候。・・・

                  [1,p353]

               本土決戦を叫ぶ軍人たちは、日本を徹底的な壊滅状態に追い込ん

              で革命をもたらそうとする共産主義者の戦略に踊らされている、と

              近衛は見た。

                   戦局への前途につき、何らか一縷(いちる)でも打開の望あ

                  りというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、

                  勝利の見込みなき戦争をこれ以上継続するは、全く共産党の手

                  に乗るものと存じ候。・・・

               一刻も早く終戦を実現することが、日本を共産革命から救う道だ、

              と近衛は上奏したのである。

          2.「身命を賭して参ります」■

               天皇からのお召しで、近衛が再び参内したのは7月12日のこと

              だった。髪は乱れ、顔色も青ざめた天皇の姿が、近衛の胸を強く打

              った。「ソ連に使して貰うかもしれないから、そのつもりに頼む」

              と天皇は言われた。

               共産主義のソ連は信用できない相手であり、和平を講ずるなら米

              英との直接交渉しかないと主張してきた近衛にとって、ソ連への特

              使を頼まれることは考えてもいなかった。

               しかし、やつれた天皇の姿を前にしては、近衛はこう言わざるを

              得なかった。「容易なことではないと存じますが陛下のご命令とあ

              らば、身命を賭して参ります」

               ここは討ち死にする覚悟でスターリンと会わねばなるまいと近衛

              は肝に銘じた。周囲の者には「自分一身はどうなっても構わぬから、

              ただ皇室だけは安泰にしたい」と漏らした。

               日本側の特使派遣の打診に対し、モスクワからは回答を引き延ば

              した挙げ句、終戦の斡旋依頼は具体性を欠くから回答できない、と

              言ってきた。

               スターリンは2月に行われた米大統領ルーズベルト、および英首

              相チャーチルとのヤルタ会談にて、ドイツ降伏後3ヶ月以内での対

              日参戦を約束しており、すでにその準備を進めていた。

               近衛のルーズベルトへの和平交渉呼びかけも、このスターリンへ

              の和平仲介依頼も、対日戦争を決意していた相手に対して行われた

              わけである。近衛の虚しき奮闘は、昭和日本の姿そのままであった。

          3.マッカーサーへの建言■

               終戦は、鈴木貫太郎首相が昭和天皇の御聖断を引き出して、かろ

              うじて実現できた。替わって登場した東久邇宮内閣では、宮の希望

              もあって、近衛が副首相格として入閣した。

               占領軍を率いてやってきたマッカーサーに、近衛は昭和20(1945)

              年9月13日、そして10月4日と矢継ぎ早に会談を持った。近衛

              しては、今後の日本の将来を左右するマッカーサーに正しい認識を

              持って貰いたい、という一心だったのだろう。二度目の会談で、近

              衛はこう説いた。[1,p380]

                   軍閥と極端な国家主義者が、世界の平和を破り、日本を今日

                  の破局に陥れたことには一点の疑いもないが、皇室を中心とす

                  る封建的勢力と財閥とが演じた役割とその功罪については、米

                  国に相当観察の誤りがあるのではないかと思う。

                   彼らは、軍国主義者と結託して今日の事態をもたらしたと見

                  られているようだが、事実はその正反対で、彼らは常に軍閥を

                  抑制するブレーキの役割をつとめたのである。軍閥や国家主義

                  勢力を助長し、その理論的裏付けをなした者は、実にマルキシ

                  ストである。日本の今日の破局に陥れたものは、軍閥と左翼の

                  結合した勢力であった。しかるに日本では、財閥と封建的勢力

                  除いて安定勢力はない。・・・

                   今日直ちに一挙にこの安定勢力を除去すれば、即ち日本がす

                  ぐ赤化に走るということを強く指摘したいのである。

          4.マッカーサーの激励■

               マッカーサーは近衛の話を聞き終わると、「有益でかつ参考にな

              った」と言い、こう激励した。

                   公はまだお若い。敢然として指導の陣頭に立たれよ。もし公

                  がその周囲に自由主義分子を糾合して、憲法改正に関する提案

                  を天下に公表せらるるならば、議会もこれについてくることと

                  思う。[1,p380]

               支那事変と対米英開戦を阻止できなかったことに深く責任を感じ

              ていた近衛は、憲法改正こそ自分の責任を果たす道と奮い立ったで

              あろう。早速、総司令部のアチソン顧問に相談しながら、京大の憲

              法学者佐々木惣一博士らブレーンを集めて、草案作りに着手した。

               マッカーサーとの会見の翌日、東久邇宮内閣は総辞職し、第4次

              近衛内閣を望む声も強かったが、幣原喜重郎が後継首相となった。

              外相として内閣の要をなしていた吉田茂は残念がったが、「この次

              のために近衛公はとっておいた方がいい。いずれにしても近衛公は

              日本にとってかけがえのない人だから」と近衛を推した人々を励ま

              した。

          5.運命の暗転■

               しかし、それから1ヶ月も経たない11月1日、占領軍総司令部

              は近衛に対して、手のひらを返したような仕打ちに出た。「憲法改

              正は東久邇内閣の副首相としての近衛に委嘱したことで、内閣が交

              替した以上、その委嘱は当然、解消された」というのである。

               マッカーサーからの委嘱は10月4日であり、内閣交替はその翌

              日であった。それ以降も総司令部のアチソン顧問が相談に乗って、

              新憲法草案を検討してきたのであるから、この声明はいかにも不自

              然なものであった。

               11月9日には米政府から派遣された戦略爆撃調査団によって近

              衛は駆逐艦「アンコン」に連行され、長時間の取り調べを受けた。

              尋問から帰ってきた近衛はこう漏らした。[1,p414]

                   取り調べはひどいものでしたよ。全く検事が犯罪人の調書を

                  とるようなものだった。私も戦犯で引っ張られますね。

               この予想どおり、12月6日には総司令部から戦犯としての出頭

              命令が出た。その出頭期限日の前日、12月15日晩に近衛は服毒

              自殺を遂げたのである。

               マッカーサーから「敢然として指導の陣頭に立たれよ」と激励さ

              れた10月4日から1ヶ月も経たないうちに、近衛の運命は暗転し

              た。そこにも「見えない力」が働いていたのである。

          6.「日本史研究者」ハーバート・ノーマン■

               10月4日、ちょうど近衛がマッカーサーに励まされていた頃、

              東京の府中刑務所では総司令部の対敵諜報部課長ハーバート・ノー

              マンによって解放された徳田球一や志賀義雄ら共産党幹部16名が

              バンザイを叫んでいた。

               ノーマンはカナダ人宣教師の子として軽井沢で生まれた。後にハ

              ーバード大学で日本史を研究している間に、日本からの留学生・都

              留重人と出会い、マルクス主義の同志として親交を結んだ。ノーマ

              ンは実兄に向けた手紙で次のように都留のことを紹介している。

                   ところで、ここにいる、僕と同じような考え方をしている日

                  本人の友人について、あなたに話したでしょうか。彼は僕が今

                  まで会った中で最も進んだ、有能なマルクス主義者の一人で、

                  、、[1,p387]

               戦争の最中、1944(昭和19)年に、ノーマンはカナダにて『日

              本の将来』という報告書を書き上げた。そこにはこんな一節がある。

                   それにしても、天皇こそ日本帝国主義の全組織にとっての要

                  石なのであるから、彼を温存することは日本の反動勢力の全機

                  構を維持することに他ならない。・・・要するに日本を非武装

                  化しても天皇制が残されている限り、日本は全世界にとって解

                  決されない危険な難題として残ることになるだろう。[1,p401]

               こういう「日本史研究者」が、その日本に関する知識と日本語能

              力を買われて、占領軍総司令部に入り込んでいたのである。当然、そ

              の目的は占領軍の権力を使って、日本での共産革命を実現すること

              であった。

          7.ノーマンの近衛誹謗■

               しかし、マッカーサーに共産革命の危機を説いた近衛が、新憲法

              の草案作りに着手した事にノーマンは重大な危機感を抱いたはずで

              ある。このままでは共産革命が頓挫してしまう。

               そこでノーマンは「戦争責任に関する覚書」を作成して、近衛を

              戦争犯罪者として弾劾する文書を作成した。

                   ある人間が流血と戦争と戦争にともなうあらゆる不幸をそそ

                  のかしておきながら、あまりに「優雅」で自分の仕出かした結

                  果を見つめたり認めたりできないということは、実に奇妙で不

                  愉快である。・・・

                   一つ確かなのは、かれらが何らか重要な地位を占めることを

                  許されるかぎり、潜在的に可能な自由主義的、民主主義的運動

                  を阻止し、挫折させてしまうことである。[1,p397]

               持って廻った文体に燃え上がるような憎しみを込めて、ノーマン

              は近衛を戦争犯罪者として弾劾した。

          8.東京裁判の予行演習■

               同時期にニューヨーク・タイムズ紙に、次のような投書が載った。

                   近衛を現在、その地位にとどまらせておくのは、日本の降伏

                  以来、極東で起きているもっとも危険なことであり、われわれ

                  が犯した最悪の失敗である。[2,p170]

               寄稿者は太平洋問題調査会の機関誌への寄稿メンバーだった。この

              会にはソ連工作員も暗躍していたことが後年明らかになっており、

              ノーマンもカナダ代表として参加していた。あきらかにノーマンの

              近衛追い落とし工作の一環である。

               同様の趣旨の社説が同紙に掲載され、それがまた朝日新聞によっ

              て国内にも紹介された。

               ノーマンの近衛追い落とし工作の極めつけが、戦略爆撃調査団に

              よる取り調べだった。ノーマンの同志・都留重人もこの調査団に入

              っていた。

               そこでは、近衛は首相として「中国併合」を狙った中心人物であ

              り、また9月6日の御前会議は、対米交渉を装いながら戦争準備を

              進めたものとされた。近衛の必死の和平交渉の努力は、正反対に解釈

              されていた。まさに東京裁判の予行演習であった。

               こうしたノーマンの暗躍によって、総司令部は近衛を憲法草案作

              成の仕事から外し、さらに戦争犯罪者として出頭命令を出したので

              ある。

          9.命も名誉も捨てて■

               近衛は戦略爆撃団の尋問を受けて、米国が史実をねじ曲げてでも、

              すべての戦争責任を日本側に押しつけるつもりだ、という意思を察

              した。そして、その首謀者として自分を血祭りに上げようとしてい

              る陰謀を感じ取った。帰りの車の中で、近衛は「やられた、やられ

              た」と独り言を繰り返した。[2,p21]

               しかし、米国が日本を侵略国家に仕立て上げようとしている以上、

              誰かがその首謀者として犠牲にならなければならない。首相であ

              った自分がすべての罪をひっかぶれば、そこで天皇への追求を遮る

              ことができる。近衛は自決の前日に、「もし陛下に戦争責任の累が

              及ぶのだったら、臣下として生きている訳にはいかぬ」と二度も繰

              り返した。[1,p424]

               こうして近衛はすべてを黙したまま、服毒自殺を遂げた。朝日新

              聞社説は「死者に鞭打つ気持ちはないが」と前置きしながら、「近

              衛公が政治的誤りを犯し、戦争責任者たりしことは一点疑いを容れ

              ない」と死者に鞭打った。近衛の狙い通りである。

               近衛はノーマンの工作を逆手にとって、戦争犯罪者として罪と汚

              名を引っ被ったまま、黙ってこの世を去った。そしてその志どおり、

              皇室は安泰を得た。ノーマンの皇室廃止と日本共産化の野望は、近

              衛の自決によって頓挫したのである。

               800年近くも皇室をお守りしてきた近衛家の当主としての責任

              を、近衛文麿は自らの命も名誉も捨てて果たしたと言える。

               ちなみにノーマンは、1952年にアメリカ上院司法委員会によって

              ソ連のスパイであった可能性を指摘され、カナダの外交官という身

              分からエジプト大使に転身して追求を逃れたが、1957年カイロで謎

              めいた投身自殺を遂げた。

                                                   (文責:伊勢雅臣)

          参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)

          1. 工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず近衛文麿と天皇』★★、

             日本経済新聞社、H18

          2. 鳥居民『近衛文麿 「黙」して死す』★★、草思社、H19

          © 平成20年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.
           


          「近衛文麿の戦い」読後感想など

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            近衛文麿の戦い(上)〜日本を戦争に引きずり込んだ「見えない力」
            近衛文麿の戦い(下)〜命も名誉も捨てて近衛が護ったもの

            共産勢力の恐ろしさ。何かあれば民主主義を持ち出すところは今に通じます。「共産主義は偽神」とはよく言ったものです。

            誰もが分け隔てなく幸せに暮らせる世界。彼らの発するこの思想はぐっときます。特に若い人や純粋な人ほどそうでしょう。

            ですが、根本的な欠点があります。

            それは労働を忌むべきものとしているところです。

            我が国は、神話の時代から、労働は尊い。

            君は民を「百姓(おおみたから)」と呼び慈しみ、民は君を慕う。
            国中平らかに安らけく。

            そこにあるのは互いを信頼し合う心です。

            君のおわします豊かな国。自助精神のある国。労働は尊い国。

            戦後70年。真摯な反省とともに、これを守り、受け継いでいかなければなりません。

            民主主義とは相性がいいようにも思えます。

            ちなみに、資本主義は悪魔とのこと。中国は深みにはまっていますね。

            偽神?悪魔?そう解説するブログはこちら。卓見です。

              ↓  ↓  ↓

            第三の道01共産主義の偽神

            第三の道02資本主義の悪魔


             


            近衛家の戦い(近衛文隆)〜ラーゲリに消えたサムライ〜

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              (長文転載)

              ■■ Japan On the Globe(297) ■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

               

              人物探訪:近衛文隆 〜 ラーゲリに消えたサムライ

               

              ソ連での獄中生活11年余。

              スパイになる事を拒否し続けて、ついに屈しなかった青年貴族。

               

               

              ■1.日本首相の息子であるコノエ中尉を捕らえました。■

               

               

               同志スターリン、朝鮮国境で3日前にスメルシ(赤軍防諜部)が日本首相の息子であるコノエ中尉を捕らえました。

               

               その報告に、スターリンはゆったりと聞き返した。「コノエだと? この夏にヒロヒトが特使として名指したあの人物の息子か?」

               「ヒロヒトの特使」とは、日本の降伏も間近の1945(昭和20)年7月に、ソ連に和平工作の仲介を依頼するために元首相・近衛文麿が特使として指名されたことを指す。しかし、その時にはすでにスターリンは日ソ中立条約を破って対日参戦することを決めていたのである。

               近衛文麿の長男・文隆が所属する重砲兵第3連隊が停戦命令に従って武装解除に応じ、ソ連軍に投降したのは玉音放送の3日後、1945(昭和20)年8月18日だった。文隆は配下の中隊の部下を集めて、「なあに、川ひとつ越せば朝鮮だ。釈放されたら、さほど手間取らずに内地に帰れる。それまでは一致団結して頑張ろう」と相変わらず元気な檄を飛ばした。 

               文隆は17歳にして米国プリンストン大学に留学したが、遊び過ぎがたたって中途退学。その後、しばらく父・近衛首相の秘書役を務めた後、上海に渡り、蒋介石政権の高官の娘と恋仲になって、一緒に日中和平工作に乗り出すが、軍部ににらまれて徴兵の対象となり、二等兵として満洲に配属された。今度はよく勉強して瞬く間に中尉まで昇進した。身長1メートル79センチ、体重81キロという堂々たる体躯にふさわしいスケールの大きな人物だった。

               

              ■2.すごいスパイになる!■

               

               ソ連国家保安省の防諜担当捜査官ピィレンコフは、保安省次官セリヴァノフスキー将軍のデスクの前に立っていた。将軍はいきり立っていた。

               

               いずれこちらの手に取り込むのだ。それはすごいスパイになる! 日本ではなんとしても工作要員が必要だ。捕虜を何人協力者に仕立て上げても、共産党支部に直行して集団入党が関の山。雑魚の集団だ。おまえの仕事は、一本釣りだ。話がついたら、すぐに帰国させ、国会議員にする。政党をつくり彼を党首にする。

               いいか、コノエを落とせば、レーニン勲章だ! 期限は1ヶ月。できなければ、やつと一緒に監禁されることになる。

                      

              ■3.そんな無分別だと、死刑台に直行だぞ。■

               

               コノエ、もう午前3時だ。17時間もあんたとやりあっている。そろそろ吐かないかね。

                      

               そう言う捜査官ピィレンコフも駕籠の鳥であった。尋問は盗聴されている。コノエに向かって怒声を発し、頭がおかしくなるくらい、同じ質問を繰り返さねばならない。文隆はきょう一日何も食べていない。頬はこけ、目は落ちくぼんでいた。

               

               この8日間、捜査官殿、わたしは50時間尋問されました。同じ質問が繰り返されました。何故に報いを受けるのでしょうか? 皇軍将校たるわたしが軍紀を遵守し、陛下に忠誠を誓ったからですか? わたしは死ぬまで忠義をたがえません。わたしをむりやり裏切らせるようなことはあなたにもおできになれない。家族、祖国、天皇陛下、わたしにとって神聖にして犯すべからざるすべてのものを裏切れなんて。

                      

               そんな無分別だと、死刑台に直行だぞ。

                      

               父もそうだったが、わたしも死をおそれない。その備えは常にできております。

                      

               もういい、コノエ。おまえの生殺与奪の件はこちらにある。言われたことをよく考え、分別を示すことだ。おまえはふつうの捕虜ではない。国家保安部の最高首脳が本件に関わっているのだ。ほら、紙だ。監房にもち帰り、自分の罪状を書け。

               

               紙は必要ありません、捜査官殿。書くことがないのです。

               

               翌1946年4月、文隆はモスクワに送られ、ソビエト国家保安機関の本部ビル・ルビャンカに収容された。このビルには銃殺室や拷問室もしつらえてあり、スターリン時代の暴政のシンボルであった。

               

               その中の何十とならぶ地下墳墓のような監房の一つに文隆は入れられた。便桶の強烈な悪臭をかぎながら、酸っぱい黒パンと水のような囚人スープを与えられる。しばしば夕食後に呼び出しを受け、時には翌朝未明までぶっ通しで尋問を受けた。やがて歯は抜け始め、視力も落ちてきた。まだ30代だというのに、老人のようになってきた。

               

              ■4.「ソ連侵略の策謀」容疑■

               

               取り調べが長く続き、3年目の1948年4月19日、文隆は獄中で起訴された。スパイにならない以上、今後の対日カードとして罪人に仕立て上げて人質にしておこうとしたのであろう。起訴理由は、資本主義幇助に関わる犯罪行為の疑いであった。

               その内容は、父・文麿の秘書官在任中にその意を体して、中国や満洲国の現地部隊を訪問し、ソ連侵略の策謀をなした事、また昭和20年2月14日、文麿が昭和天皇に上奏したいわゆる「近衛上奏文」に荷担して、国際共産主義に対する妨害をなしたという理由であった。

               近衛が首相在任中に日ソ中立条約を成立させた事実だけを見ても、「ソ連侵略の策謀」とは荒唐無稽な理由であった。その中立条約を破棄して対日宣戦布告をしたのはソ連の方である。また「近衛上奏文」とは、日本を中国や英米との戦いに引きずり込んだのは国際共産主義の策謀であったと自省した内容で、現実にソ連のスパイ・ゾルゲと彼に操られた元朝日新聞記者・尾崎秀實が逮捕・処刑されている。しかし文隆は上奏文の存在すら初耳であった。

               

              ■5.ロシア語の嘆願書■

               

               起訴されてから、文隆はロシア語を身につけようと決心した。英語の通訳を介さずに、直接ロシア語でやりとりできれば、裁判でも言いたいことが言えるようになる。ダメで元々と、看守にロシア語を学びたいので辞書と紙、鉛筆を支給してくれないか、と頼んだところ、意外にもすぐに露英辞典を与えられた。

               またロシア語の書物も、要求すれば無条件に差し入れられた。ソ連の文献を読めば共産主義の信奉者となり、スパイに転向するかもしれない、と考えたのかも知れない。

               紙と鉛筆は支給されなかったので、10日に一回の入浴の際に、風呂場で掠めた石鹸屑と、マッチの燃えかすを練り合わせ、即席の墨を作った。これをマッチ棒につけて、タバコの空き箱の裏に文字を書きつける。文隆は毎日最低2時間はロシア語の学習にあてる事を自らのノルマとした。

               それから2年ほど、ひたすらロシア語の学習に励んだ結果、文隆はロシア語の読み書きと日常会話には困らないようになった。10分間の入浴を終えて、看守詰め所の前を通りかかった時、ラジオの朝鮮戦争勃発のニュースを聞き取ることができた。

               文隆が獄中で書いたロシア語の嘆願書が残されている。寒さをしのぐために取り上げられている毛皮の手袋を返して欲しい、とか、監房の通気窓が氷のために閉まらなくなったので、自分のスプーンで氷を割ろうとした所、折れてしまったので、代品の支給をお願いする、などと、監獄での暮らしぶりが窺われる。

               後には、同じ監獄で友人となったヨシダ・タケヒコという日本人が肺病で見る見るうちにやせ衰えていったので、その世話ができるように、同じ房に入れてくれ、と嘆願している。

               

              ■6.「わたくしが敵なら銃殺しなさい」■

               

               7年目の1952年1月14日、突然、ソ連国家保安省の部長に呼び出され、判決が言い渡された。禁固刑25年である。文隆は起訴されたという以上、法廷に出て検事と弁護士のやりとりが、たとえ形の上だけでもあるだろうと思っていたが、それすらもなかった。「そんな裁判は聞いた事がない」と文隆は抗議したが、「コノエ、世界一民主的なわが裁判ではすべてが可能なのだ。われわれはブルジョワ法の古めかしいドグマは認めない。」

               文隆には知るよしもなかったが、ソ連崩壊後に公開された資料では、このような形で有罪とされた者は385万人、うち82万人が極刑に処されたとされている。裁判の形式などに構っている暇はなかったろう。

               大佐は今までの何百回もの尋問によって捜査官たちが作成した調書の抜き書きを示し、「きみの罪状は捜査で証明され、きみも認めた。だから署名せよ」と言う。文隆はロシア語で言った。

               

               いいですか、大佐。今短刀を持っていたなら、もう何度も捜査官たちに言ったように、迷わず相手の腹を刺していたことでしょう。このつまらぬ文書を見せられてこわくなったとか、びっくりしたからではありません。破廉恥にもわたくしの名誉を侮辱したことに対する抗議です。いかさま師のようにわたくしを刑に服させようとしている。わたくしが敵なら銃殺しなさい。その方が分相応だ。

               

              ■7.「近衛文隆を即刻帰せ」■

               

               1月20日、文隆はモスクワから、貨物列車を改造した囚人護送車に詰め込まれて、バイカル湖の西にあるイルクーツクのアレクサンドロフスク監獄に移された。帝政ロシア時代から3大中央監獄と呼ばれた国内最大の監獄の一つである。

               文隆が収容された49号室は、25畳ほどの部屋に20人余りの囚人がいた。ほとんどが日本人で、関東軍将校や満洲国官吏、外務省領事などの任にあった人々だった。日本語をふんだんに話せることがうれしかった。天気が良ければ1時間ほど狭い敷地内を散歩できるが、冬の間は猛吹雪が吹き荒れて閉じこめられてしまう。

               そんな時は文隆の独壇場だった。プリンストン大学の学生合唱団で鍛えた喉で、日本の歌を歌うと、房内はしんと静まりかえり、涙を流す者もいた。またアメリカでの数々の武勇伝を面白おかしく語っては大笑いさせた。まるでレコードのように同じ話を繰り返しせがまれた。

               1955年6月に日ソ国交正常化交渉が始まった。この時点でもいまだ2千4百人近くもの「戦犯」がソ連国内に抑留されていた。特に文隆はその中心的存在として、東京や京都では釈放を要求する集会が開かれ、何十万人の署名入りの声明書や嘆願書が出されていた。日ソ交渉では鳩山首相が「近衛文隆を即刻帰せ」と要求した。

               

              ■8.文隆、死す■

               

               1956年6月14日、文隆はモスクワの西北およそ2百キロのチェンルイ村のイワノヴォ収容所(ラーゲリ)に移された。外国のジャーナリストも見学できる別荘のような建物で、日本軍の将官クラスや外務省の幹部級が抑留されていた。食事もよく、ここに入れられた日本人は急速に健康を回復していった。しかし、文隆だけは不眠に苦しめられ、気分が優れず一人陰鬱な顔をしていた。凄まじい尋問と獄中生活を凌いできた文隆には初めての事だった。

               抑留者のうちに日本軍の軍医がおり、心配して文隆に言った。ソ連では政治犯にある種の薬物を使っており、それを何度か注射されると、鬱状態が続き、自殺に追い込まれることがあるという。文隆はいつもの痔の治療の際に、透明な液体の注射を打たれている事を思い出した。

               10月19日、鳩山首相が領土問題を棚上げする形で、日ソ共同宣言にこぎつけ、日本人抑留者の帰国も確定した。ラジオのニュースを聞いたイワノヴォ収容所の日本人の間でどっと歓声があがった。文隆も久しぶりにうれしそうな顔をした。 

               23日、不眠で一夜を明かした朝、ひどい倦怠感と頭痛に襲われた。高熱が数日続き、そのまま29日午前5時、息を引き取った。死因は動脈硬化にもとづく脳出血と急性腎炎とされた。同室で治療を受けていた太田米雄・元陸軍中将は午前4時20分頃、病室を移され、入れ替わりに専属の女医が入って、その後1時間もしないうちに悲報を聞いたという。

               

              ■9.「本当のサムライだ」■

               

               1958年1月28日、モスクワ。ソ連共産党中央委幹部会が開かれていた。文隆の未亡人から出されたイワノヴォ収容所への墓参りと遺骨返還の要請にどう答えるか、フルシチョフ以下の最高首脳陣が討議していた。「遺骨を返すしかない、日本なしではやっていけない」という結論が出た後で、国際政治・諜報担当のスースロフが言った。

               

               プリンスの死は、われわれにとり、ここだから言えることですが、ある種の救済でもあったのです。

               同志諸君、ご想像下さい。こんな折りに、日本政界にもう一人のコノエが現れたらどうなりましょう。シベリア抑留の苦難を耐え抜いた若く生気に溢れた貴公子。40代の日本人たちは、元軍人であろうとそうでなかろうと、敗戦に不満で占領の恥辱に我慢がならない。ただちにコノエを新しい指導者として迎え入れるでしょう。こう言ってもまちがいはありますまい。3,4年後には、ソ連はその収容所群島の裏表を知り尽くした日本首相と事を構える羽目になる、と。

               

               フルシチョフが「賛成だ」と支持の声をあげた。ブレジネフは文隆が何度も脅されながらも、決してスパイにならなかった事を聞いて「あっぱれだ! 本当のサムライだ。」と感心した。彼は死因を聞いて「マイラノフスキー(スターリンの殺し屋)の手口としか考えられないな」と言った。

               「その手口が使われたにしろ、使われなかったにしろ、今じゃ何の意味がある?」とフルシチョフが話を締めくくり、会議を打ち切った。

              (文責:伊勢雅臣)

               

              ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)

              1. V.A.アルハンゲリスキー、「プリンス近衛殺人事件」★★★、

                 新潮社、H12

              2. 西木正明、「夢顔さんによろしく 上・下」★★★、文春文庫、H14

              © 平成15年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.

               

                 

               


              歴史探訪〜ヤルタ密約〜

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                今日は時をさかのぼって、先の大戦末期にヨーロッパでの趨勢が決し、連合国がクリミア半島のヤルタ近郊に集まった時のことについて述べてみます。この時に日本はまだ降伏するつもりはありませんでした。ソ連も加わり密かに話し合いが為されたことで、日本は調停役を知らず失います。

                ヤルタ会談で密かに結ばれた協定がある。

                英米とソ連との間に交わされたいわゆるヤルタ密約である。

                ヤルタ協定(密約)

                締結日:1945年2月11日

                三大国すなわち米英ソは、ドイツが降伏し、且つヨーロッパに於ける戦争が終結したる後2ヶ月又は3ヶ月を経て、ソ連が次の条件により連合国に与して対日戦争に参加すべきことを協定するものとする。

                一.外蒙古(蒙古人民共和国)の現状維持

                二.日露戦争に依り侵害されたロシア国の旧権利の回復

                  (甲)樺太の南部と隣接する一切の島嶼のソ連への返還

                  (乙)大連商港でのソ連の優先的利益の擁護と国際化、又、旅順口の租借権はソ連の海軍基地として回復されること

                  (丙)東清鉄道及び大連を出口とする南満州鉄道は、中「ソ」合弁会社を設立して共同運営されること。但し、ソ連の優先的利益は保障。中華民国は満州に於ける完全な主権を保有すること

                三.千島列島のソ連への引き渡し

                三大国の首班は、ソ連のこれらの要求が日本の敗北の後に確実に満足せしめらるべきことを協定する。

                ソ連は、中華民国を日本より解放する目的を以て自国の軍を用いて援助する為に、ソ連・中華民国間友好同盟条約を中華民国の政府と締結する用意があることを表明する。

                (いくらか文体を変えています)

                日ソ中立条約を盾に、参戦するならと譲らないソ連。

                この時スターリンはドイツ分割占領方式にならって、日本占領についても日本の東半分、少なくとも北海道の占領を認めてほしいと注文を付ける。ルーズベルトは概ね黙認する。

                ドイツは全面降伏する。5月8日にフランスのランスにて降伏文書に調印。続く9日に首都ベルリンにて批准手続きとなる降伏文書調印を行う。

                7月16日、アメリカのニューメキシコ州での原爆実験成功。。。

                ソ連は広島原爆投下の3日後、日本時間で9日になろうかという時に宣戦布告し、ソ連軍は大挙して満州に侵入する。

                領土拡張の本能を抱くロシアは、共産思想を得てもそれは変わらず、ヨーロッパは東南アジアが植民地であった頃の夢覚めやらず、自由の国アメリカにとって、ソ連はいつの間にか倒すべき敵であった。日本はそれでもなお思う。八紘一宇の夢。

                そして、8月15日を迎える。日本はポツダム宣言を前日受諾し、これを国民へ知らせるを以て終戦の日とする。


                歴史探訪〜日華事変(支那事変)は何故長引いたのか (1) 〜

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                   忘れられない人がいる。近衛文麿元首相の長男で元陸軍中尉の文隆氏。昭和18年(1943年)末、士官候補生だった和田さんは、3カ月間同じ部隊に所属した。

                   文隆氏は米国留学経験があり、当時の世界情勢に明るく、祖国への思いも強かった。

                   ある日、思い切って尋ねた。「戦況悪化は著しいようですが、見通しはどうなのでしょうか」。文隆氏は即答した。「勝負はついた。誰かが止めなければいけないが、陛下以外にはいらっしゃらない」

                   当時は口にするのもはばかられる話題。18歳だった和田さんの質問に対し、諭すような口調だった。「日本は敵を知らず、防御することもせず、戦争に突入した。米国は日本を相当研究しているぞ」。諜報や情報収集力の重要性を切々と説いたという。

                  (8月15日の産経ニュースより一部抜粋)


                   

                  敵を知り己を知れば百戦殆(あや)うからず。

                  己の中にも敵はいる。

                  何故、支那事変は長引いたのだろうか。

                  講和の機会はなかったのだろうか。

                  日本陸軍にとって、中国の共産化は最も避けたかった事態のひとつであった。ゆえに、平常においても蒙疆(もうきょう、内モンゴル中部)・満州への駐兵に固執した。皮肉にもこれが中国への進出を狙うアメリカとの対立を招いてしまう。その姿勢を変えなかったことは対米開戦のひとつの伏線となる。
                   

                  満州国建国後の日本は引き続き軍を駐留するかたわら、満州国内での「五族協和」を謳う。

                  背後にある欧米の思惑と暗躍するコミンテルン。

                  日本は当初の目的を見失ってはいけない。すなわち支那や満州など中国大陸との共存共栄、あるいはロシア勢の満州以北への追い返し。

                  支那事変勃発後には、コミンテルンの尾崎秀実(實)(ほつみ)が関わったとされる日中和平分断工作や親日政権樹立の話がある。歴史上の人物が味方か敵か惑わせる。実は危なくこの話を信じるところだった。何といっても何年か前まで、毛沢東と蒋介石の区別もよくつかなかったのだから。

                  曖昧なところを曖昧なままで結論を急いではいけない。

                  関係者の人となりを見てみよう。

                  蒋介石の長年の片腕であった汪兆銘。共に親日派で、孫文の死後、協力して共産党勢力の排除にあたってきた。

                  思想的に公正な新聞を戦後に立ち上げた松本重治もいる。

                  一介の評論家である尾崎がその行動まで影響を与えることは適わないと思えてきた。

                  ネットで探ってみると、こんなまとめが見つかった。

                  鍵は、仲間割れとされた親日政権樹立ではなく、蒋介石が監禁された西安事件にあった。

                  簡潔明瞭なまとめなので、そのまま引用させてください(前後省略、年月など一部加筆しています)。


                   

                  事件直前の状況

                  蒋介石

                  国民党指導者の蒋介石は国交内戦9年、ついに毛沢東を僻地延安に追い詰め、支那統一五分前という絶好の位置につけていた。
                  彼の戦略は、安内攘外といって、国内を統一してから、支那を植民地にしている英国などと交渉して独立国として権利を取り戻そうというものであり合理的であった。
                  日本は1932年に満洲国を作ったが、蒋介石はタンクー協定を結んで、満洲との鉄道、通信を正常化し、日本とは良好な関係を維持していた。
                  彼が一番警戒していたのが共産党であり、「日本は皮膚病だが中国共産党は(生命取りの)心臓病である」と述べたのはよく知られている。

                  対日戦の利益

                  自分の国民党軍を損耗するので得はない。損するだけ。事実戦後の内戦再開で上海戦24万の損失を嘆いた。

                  日本

                  日本は蒋介石と反ソ反共で一致していたので、軍事顧問を送るなど協力していた。

                  ソ連警戒中。大陸の戦争に利益なし。

                  張学良

                  張学良は満洲の軍閥張作霖の継承者である。満洲で日本人を迫害し,協定侵犯を300件以上起こしたので少数の日本軍に反撃され(満洲事変)本土に追い出され、部下を連れて当時国民党蒋介石軍の配下になっていた。蒋介石は張学良に共産軍本拠地の総攻撃を命じていた。しかし張学良は蒋介石に内心反発し自分の軍閥軍を弱めようとしているのではないか、と疑っていたという。このためソ連や中共の工作にのせられた。張学良は元の勢力圏である満洲に帰りたかったので、何らかのソ連からの約束があった可能性がある。

                  日本を滅ぼせば満州を再度支配できると思った。

                  毛沢東

                  中共の毛沢東は、1927年の蒋介石の反共攻撃で敗北をつづけ辺境を逃げ回って延安に到着していた。彼はソ連の顧問団とともに飛行機でソ連に逃亡する準備を終えていたという。
                  この中共を管理していたのがソ連である。ソ連は1921年に中共を設立し、顧問団、金、武器を与えソ連の極東政策に利用していた。
                  当時の毛沢東は田舎のゲリラの隊長にすぎず、世界の左翼から神と畏怖されていたスターリンとは月とスッポンであった。

                  蒋介石に追い詰められていたので、内戦が止めば息継ぎができる。

                  スターリン

                  欧州ではヒトラーが台頭し、軍事力を強化していた。これを見たスターリンは、東西挟撃を恐れて、東部国境の反共勢力である日本と蒋介石を無力化することを考えた。それは両者の戦争であった。スターリンは反共の蒋介石を対日戦争に利用することを考えた。それは毛沢東は蒋介石と比べると田舎者であり、欧米の支援を取り付けるのは難しいと見たからである。
                  スターリンは1926年に蒋介石を軍艦「中山」号で誘拐しようとして失敗している。
                  1935年のコミンテルン第七回大会では主敵をナチスドイツ、ポーランド、日本としている。中共を滅ぼそうとしている蒋介石は入れていない。ということはスターリンはこの時すでに蒋介石を利用して日本攻撃を行わせる戦略を持っていたということになる。コミンテルンは「スターリンの手袋」と言われ、KGBが金も人も支配するソ連海外謀略工作の偽装組織であった。

                  東部国境の反共の日本と蒋介石が戦えば、安心して西部のヒトラーに対応できる。


                   

                  歴史探訪〜日華事変(支那事変)は何故長引いたのか (2) 〜

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                    (前回からの続き)

                    国民党政府の外交官、高宋武が、蒋介石へは内緒で1938年7月に和平交渉の為に来日した際、「蒋介石は、日本との長期抗戦の構えがある」と断言できたのもこの年表を読めば納得できる。

                    日本政府としては、蒋介石の下野は和平の条件として譲れないという。それは頑なほどだった。

                    高宋武は「日本と戦える人物も、日本と講和できる人物も、蒋介石をおいて他にない」と反論する。

                    日本との和平交渉はいくつものルートが作られながら難渋する。その傍ら、高宋武は長年蒋介石の片腕でありながら、親日政権樹立へと心動かされる汪兆銘に説く、「民族の裏切りものとなるべきではない」。

                    12月に入り、汪兆銘は蒋介石へ「君は安易な道を行け、我は苦難の道を行く」との書簡を送り、重慶からハノイへ脱出した。以後は、単独で日本政府との交渉を進めた。

                    南京に親日政権を打ち立てたのは、その翌々年であった。

                    1937年、娘にこう問いかけた言葉が残されている。

                    「今、父が計画していることが成功すれば、中国の国民に幸せが訪れる。しかし失敗すれば、家族全体が末代までも人々から批判されるかもしない。お前はそれでもいいか」

                    この時、彼は蒋介石と袂を分つことを心に決めたに違いない。孫文の大アジア主義を継承する道を選んだ汪兆銘。日中の共存共栄こそ中国国民の幸せに至る道であると確信して。

                    日中和平の礎として。

                    高宋武と別ルートで茅野老に和平工作を依頼した、上海派遣軍司令官である松井石根(いわね)大将もその一人であった。彼の若い頃に川上操六陸軍大将の唱えた「日本軍の存在理由は東洋の平和確保にあり」という見識や、孫文の日中韓対等連携を指向する大アジア主義に共鳴して、自身も「大亜細亜主義」という日中が連携し欧米の侵略に対抗して平和裡な中国統一を掲げる考えを提唱していた。蒋介石とも長く親交があった。

                    1933年には日本国内で「大亜細亜協会」を設立し会長に就任した。この協会へは、組閣前の近衛文麿などが参加している。その根底にある、日本と国民党政府との協力維持という考えは、1937年の冬に総大将として南京に入城した際も何ら変わりはなかった。

                    翌年の11月には、第一次近衛文麿内閣が反共主義(抗日容共な国民党政府の否定)と汎アジア主義(東洋古来の精神文化と西洋近代の物質文化の融合による「新文化の創造」や東洋独自の道徳仁義による「東亜に於ける国際正義の確立」)を含む、「東亜新秩序建設」という理想を掲げている。

                    一方、コミンテルンである尾崎秀実(實)の狙う「東亜共同体」とは、日本と蒋介石政権が共倒れして、両国で共産主義革命が実現した後に成立するはずのソ連・日本・中国による「赤い東亜共同体」であった。

                    「終局的な平和」の為なら、国民を欺くことも日中戦争に駆り立てて共に「人柱」にすることも許されると信じて疑わないコミンテルンの忠実な使徒であった。第1次近衛内閣発足直前に「昭和研究会」の一員となってからは、「中央公論」などへの寄稿を続けた。新聞記者時代に培ったペンの力を知っていた。

                    一連の流れの中で私達は、共産思想の恐ろしさや狡さや抜け目のなさを知ることになろう。また、いったん撒かれた対立の種は取り除くことが困難なことも。


                     

                    ともかく、アヘン戦争の一報を聞いた時から日本は欧米の侵略へ対抗する術を絶えず考えていたのだと思う。一番の良策はやはり、日中が連携してアジアの繁栄を守る中にあるはずだ。その術はもう潰えてしまったのか。それとも、今も夢の一部として続いているのだろうか。

                    何故日華事変は長引いたのか。そこから学ぶことは多い。学んだことを活かして伝えたい。

                    大陸の風が吹く。私達が恋い願う風は海からの風だ。

                    蒋介石は後に松井大将の話になった時、「閣下には申し訳ないことをした。南京には大虐殺など無かった」と涙ぐんだそうである。と同時に支那事変当時、党の兵士に過酷な民衆からの略奪や犠牲を許したのも、当時の中国人としては何の自らを呵責することもない判断であった。

                    松井大将は南京入城の翌年には、役目は終わったと考え制服を脱ぎ帰国した。帰国後は南京と日本の土を混ぜた「興亜観音」を作り、毎日欠かさずお参りしていた。

                    終戦後には、南京大虐殺というありもしない組織的な事件の首謀者として、B級戦犯として処刑された。

                    南京占領に厳しい軍紀を持って臨み、入城後に略奪が数十件あったことさえ、日露戦争に比べて変わってしまったと嘆く尾張藩士の息子であった。

                    松井石根大将の辞世の句は、3句詠まれている。最後の句の「自他」は、日本人と中国人の暗喩であると推測されている。南京入城翌日の慰霊祭の際には、「支那人を馬鹿にせず、英米には強く正しく、支那には軟らかく接し英米依存を放棄させるよう」強い調子で訓示を与えたという。どこまでも、日中の強い連携と東洋の平和を願った人であった。


                     

                    天地も人もうらみずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く
                     

                    いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば
                     

                    世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等に誠の心  

                     

                    参考Web:参考Web:国際派日本人養成講座^^^^^参考Web:国際派日本人養成講座^^^^^国際派日本人養

                    参考Web:国際派日本人養成講座^^^^^^^

                    汪兆銘工作はコミンテルンの陰謀か?

                    Wikipedia(フリー百科事典)^^^


                     


                    国の成り立ち(1)〜ミクロネーションズ〜

                    0

                       

                      国と一言で言いましても、なかなか説明は難しいです。

                      どうやって国は生まれ、存続するのでしょうか。

                       

                      「人が信念と共に歩んでいくように、国にも建国の理想というものがある。」

                      こういう言葉もあります。

                       

                      ここで、国が国と呼ばれるために必要な要素を整理してみます。

                      理想を実現するために成立すべきものは。

                       

                       

                      ◯主権

                       独自の軍(防衛)

                       外交権

                       通貨発行権

                      ◯施政権

                       行政、立法、司法の三権を行使する権限

                       

                      ここでいう主権とは、民と領土を統治する統治権、及び他国からの干渉に左右されずに独自の意思決定を行う国家主権のこと。

                       

                      ・・・




                       

                       

                      「シーランド君ですよ」

                       

                      来ました、シーランド君。

                      小さな小さな国(ミクロネーション)として数えられる国のひとつです。

                      どれくらい小さいかというと、大きな二本の柱に支えられた海上の要塞がすべての領土、国民は2006年の時点で計4名、王様と一名の兵士からなる君主制です。ふむふむ、独立までの経緯が知りたいですね。

                       

                      【The struggle for liberty】

                      場所はイギリスの東海岸から6海里離れた公海上。

                      第2次世界大戦中に、イギリス軍が本土上空防衛のため海上に建設したマンセル要塞のひとつが舞台となります。

                      これら要塞群は戦後は軍の管理を離れ、放置されていました。

                       

                      娯楽のひとつとして挙げられるラジオ。ヨーロッパでのラジオ放送は国営放送が独占していました。民営には放送免許が認可されなかったのです。これに反発した人々が北海上のあちこちで錨を下ろし、船舶から沿岸諸国に向けて放送を行うようになりました。1960年代に入ってから見られるようになったこの送信形式による放送は、海賊局、海賊放送と呼ばれています。

                       

                      元イギリス陸軍少佐のパディ・ロイ・ベーツもそのひとり。

                      漁師をしていましたが、要塞のひとつを不法占拠していた海賊放送のスタッフを追い出し、その後釜に座りました。最終的に移った要塞フォート・ラフス (Fort Roughs/U1) が建国の地となります。海洋放送法の施行でマンセル要塞からのラジオ放送が禁止されたのを機にラフス・タワーの独立を宣言したのです。

                      君主ベーツ大公が治めるシーランド公国が生まれた瞬間です。1967年9月2日のことでした。

                       

                      【経済や他国との交流など】

                      シーランド・ドルという独自通貨があります。米ドルと等価の固定相場制です。

                      主要産業は、切手やコインの発行と一番耳目を引くのは爵位の販売ですね。カジノを開こうとした時もあったみたいです。

                      海外との交通手段はモーターボートやヘリコプター。ヘリポートあり。

                      サッカーがさかんです。シーランド代表チームがなんとありまして、主に非承認国家が参加する国際団体NF-Boardに準会員として参加しています。

                       

                      【国の標語は「E mare libertas」 (海からの自由)】

                      現在はロイ・ベーツ公亡きあと、息子のマイケル皇太子が後を引き継いで2代目シーランド公に即位しています。

                      何か緩急ある時は?

                      ベーツ公の友人が駆け馳せます。過去にはクーデターも撃退。

                       

                       

                       

                      「えっへん、イギリスの野郎には負けないのですよ」

                       

                      そう、あなたは立派な国ですね。敵いません。

                       

                       

                      シーランド公国公式HP

                      http://www.sealandgov.org

                       

                       



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