万葉集、百人一首、日新公いろは歌。

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    今更ながら、和歌の奥深さにはまっています。

    平安時代の歌は、余韻を大切にして言外に真意を置く歌が多い。

    下って戦国時代になると、質実剛健で率直。

    特に平安の歌はいろいろな解釈ができるので面白いです。その歌集に詞書があればのがさず一緒に読むと、より理解が深まります。詞書はつまり前置き。そこに述べられた日時・場所・背景を踏まえて歌われた歌ですから、当時の人はその流れを楽しんでいたのでしょう。今に例えるなら、ミュージック映画の書籍版といったところでしょうか。
     

    それから文法にも注目です。似ているようで使われ方や意味が現代と違います。例えば、「またはこじ」で「二度と来ないだろう」などが思い浮かびます。

    それらを慎重に踏まえてこれからしばらくは、平安時代と戦国時代とを行き来したいと思います。そしてある平安の歌に集約したい。キーワードは「暦」です。

    タイトルには、私の好きな歌がたくさん詰まっています。身近な歌とも言いますね。それでは、しばらくお付き合いくださいませ。

    Key word:道長の歌


    道長の歌(1)〜背景〜

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      前回触れた平安の歌というのはこちら。
       

       

      この世をば 我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることも なしと思へば
       

       

      言わずと知れた藤原道長の有名な和歌ですね。

      この歌は威子が中宮となった日に、道長の邸宅に諸公卿を招いた祝宴の席で藤原実資に即興で詠んだ歌です。

      この時、娘三人を天皇の正式な妃となしえた道長は得意満面。「あの煌煌と我が世とばかりにこの世を照らす満月のように、今の私に欠けているところなどありもしない(わが栄華極まれり)」そう詠んだ歌と言われています。

       

      そう読み取れます。ですが、果たして本当にそうでしょうか。

       

      いやしくも、一国の権力の中心たるものがこんな浅はかな歌を詠うものでしょうか。またそういう何の余韻もひねりもない和歌を後世の人がよしとして受け継ぐものなのでしょうか。そんな疑問が湧いてきます。

      そこでこの歌にもう少し詳しく迫ってみたいと思います。

       

       

       

      ◯人物像

      治世は穏やか。権力の握り方は強引で、紫式部には飄々と接する大人。

      文学を愛好。源氏物語の第一読者。

      歌合わせを自宅で催したりした。

      藤原実資の「小右記」によれば、喜怒哀楽の激しい、直情径行(思ったことをそのまま言うこと)の人。超強気。

      弓射に練達する。

      源頼光に将帥の器であると言わしめた。

       

      ◯背景

      寛仁元年(1017年)3月、摂政と氏長者を嫡男の頼通に譲る。

      12月には、従一位・太政大臣に任じられ位人臣を極める。これは年が明け、寛仁2年の正月に執り行われた後一条天皇の元服で加冠の役を奉仕したいがため。その後ほどなくこれを辞する。

      3月に後一条天皇が11歳になった時、四女の威子(いし・たけこ)を女御として入内させ、10月には中宮となした。威子の立后の日は10月16日(新暦11月26日)で、この夜、道長の邸宅で祝いの宴が開かれる。

      翌年寛仁3年3月、病となり剃髪して出家。年は数えでこの年54歳。

       

      この和歌を詠んだ頃は、目の具合がかなり悪くなっていた。道長の日記「御堂関白記」には、「二、三尺相去る人の顔も見えず」とある。また、51歳の頃に、実資の日誌「小右記」の中で道長が口渇や体の脱力感をしきりに訴えていた記録が残されている。これらのことや晩年の記述から30代から糖尿病に罹り、10年前後経って糖尿病白内障を併発した可能性が高い。そうなら、体のだるさも相当だったはずだ。

      そんな時に、こんな歌を読むのは歴史の皮肉か。そこまで鈍感な人なのか。はたまた強がりからでた歌なのか。

       

      「御堂関白記」にはこの夜の宴の記載はあるが、この和歌は記されていない。

       

       

      ◯この和歌の初出は実資の日誌

      藤原実資(さねすけ)は、道長のはとこ。

      権貴におもねず、道長に対して筋を通した。物事の要点を押さえ、個人の利得や名声のために真実を覆さないという良識ある人。右大臣に昇ってからは「賢人右府」と呼ばれた。

      三条天皇を軽んずる道長に対して抱く嘆きと感嘆の相反する思い。曰く「天に二日なし、土に両主なし」。

       

      「小右記」(「しょうゆうき」あるいは「おうき」とも読む)は実資の日記というよりは半ば公式な日誌である。以下はこの和歌に関しての抜粋。ちなみに地の文は当然ながら漢文である。ー唱和を要求した道長に対し、「御歌優美なり。酬答に方なし。満座只だ此の御歌を誦すべし」と辞退する。道長も唱和を無理強いせず、実資の言葉に従い各自詠誦するだけで善しとした。ー

       

       

      *唱和…一方の作った詩歌に答えて、他方が詩歌を作ること

       

       

       

       

      さて、ここまでいかがでしょう。必ずしも得意満面とは言えないようです。

      完璧とは言えない状況の中で詠った歌であるのは明らかになってきたのではないでしょうか。

       

      うーん、それなら道長なりの強がり?

      でもそんな歌を「優美なり」と実資が称えますかどうか。

       

      次回はもう少しこの和歌を紐解いてみます。

       

       

       

       

       

       

       

       

       


      道長の歌(2)〜文法〜

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        憶測や先入観をいったん頭の中からなくして、訳に集中してみましょう。

        古文は平安初期の口語と言われています。だから、紐解けばそんなに難解なものではないはず。

         

        とはいっても現代語と重なる部分もあるだけに、訳すまでは神経を使います。
        では、いざ。


         

         

         

        この世をば 我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることも なしと思へば

         

         

        「〜をば」 【格助詞】「を」+【係助詞】「は」の濁音化した形。
              「ば」で取り立てて強調する

        「〜ぞ」  【係助詞】 
              《接続》文中にある場合の意味は[強意]

         

        「望月」(もちづき)

              【名詞】満月

         

        「〜たる」  「〜たり」の連体形

        「〜たり」 【助動詞】
              [完了(〜た・〜してしまった)][存続][並列]を表す(ラ変形)

               cf.)体言(名詞など)+「〜たり」(タリ活用形)→[断定]を表す
         

        「〜も」  【係助詞】
              《接続》体言(名詞など)や種々の語に付く

              [列挙・並列][添加(〜もまた)][類推(〜さえ)]などを表す
         

         

        「思へば」 【動詞】「思ふ」の已然形の「思へ」+【接続助詞】「〜ば」

                 →[確定条件]を表す(〜なので)
               
        cf.)未然形「思は」+「〜ば」→[仮定]を表す(もし〜ならば)

                    

                  

         

         

        強調のための助詞がふたつも入っていますね。特に「〜ぞ」は字余りになるのにあえて挿んでいるのが興味深いところです。

         

        直訳すると、大体こうでしょうか。

         

        (訳)この世を我が世と思う満月は、欠けていることもまたないと思うので

         

        即興の歌らしく、飾り気がなくすっきりしています。

        何となく、月を冷静に観察している、そういう風にも感じられます。

         

        この訳文を基に次回からもう一度、その時の道長の思いを重ねて読んでいきます。

        前回は、背景の中でも、道長個人の経歴や知己との関係に焦点を当ててみました。次回は、この時代の文化や習慣に思いを馳せたいと思います。平安の人々にとって、「月」とはどういう存在だったのでしょうか。




         

        (追記)

        字余りについて、mshibataさんからご指摘頂きました。

        古今集にある和歌など、平安時代の和歌には、「◯◯◯とぞおもふ」という歌がよくあるそうです。そして、当時の詠い方の流儀では音のうえでは他の七音句と同じ調子で詠まれていたと推測されるので、字余りという意識は当時の人にとってはなかったのではないか。そうならば、これは作歌上の意図的な「破格」とは見ないほうが賢明ですよ、とのことでした。

         

         

         

         

         


        道長の歌(3)〜日新公いろは歌〜

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          現代で暮らす我々にとっても、月は満ち欠けしていく存在です。

          と同時に満月は、十五夜に代表されるように愛でるものでもあります。

           

          いくらか遡って、戦国時代の人々にとってはどうでしょうか。

          鹿児島には、戦国時代に生きた日新公という武士が残したいろは歌があります。

          日新公は、島津家中興の祖。あの島津四兄弟の祖父となる人です。

          このいろは歌集は、47句からなり、特に若者への戒めのために書かれました。

           

          その末句はこういう句です。

           

           

           

           

           

          少しきを足れりとも知れ 満ちぬれば 月もほどなき 十六夜のそら

          (まだ少し足りなくても満足するがよい。月も満月になれば翌日からは、十六夜の月となって欠け始める)

           

           

          戦国時代初期に生きる日新公にとって、満月はじきに欠けていく存在だった。

          満月を見る時、その美しさを愛でると同時に、はかない存在であると感じていたのです。

           

           

          .*+.*.。  小話  ゚+..*+

          月の呼び名は細かくつけられています。

          「十六夜(いざよい)」は、十五夜(満月)の次の日に昇る月のこと。「いざよう」、つまり前の晩より少し遅れてためらいがちに昇ることからこの名が付けられています。

          順々に、「立待月(たちまちづき)」、「居待月(いまちづき)」、「寝待月(ねまちづき)」と続きます。寝待月は、おおまか旧暦19日目の月のこと。待ちくたびれて横になる頃にやっと昇るから、こういう風に名付けられたのですね。

          その次の日の月は、「更待月(ふけまちづき)」。そして、22〜23日に半月の「下弦の月」となり、ちょうど日の出の頃に南の空にかかります。

           

           

           

           

           

           

           


          道長の歌(4)〜暦の変遷〜

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            中世と現代とを隔てる文化の違いはあるでしょうか。

            明治の初めに「月」にまつわる大きな改革がこの国でありました。

            太陽暦の採用。生活に密着する「暦」の根本的な変更です。

            それまでの暦は、太陰太陽暦でした。

            特に長く日本で使われてきたのは、宣明暦という太陰太陽歴です。

            この暦は、9世紀半ばの862年から江戸時代の1685年まで使われてきました。

            その頃の暮らしに関わる月の役割は現代とは大きく異なっていました。

            太陰太陽暦は、新月から次の新月までの大体29日から30日をひと月とする暦です。1年は12月からなります。季節の巡りと合わせるよう、年によってはうるう月がありました。

            太陽暦の元で暮らす私たちにとっては、月は時に明るく夜を照らしてくれる美しき天体です。

            ただ暦とは関係なく、いつの間にか欠け、いつの間にか満ちていきます。

            月を愛でる感性は受け継がれ、十五夜は今も特別。しかし、暦とは関係はありません。

            一方、月の満ち欠けを暦と結びつけていた時代、人は月を暦として見ることで、より身近な存在としていました。

            十六夜なのか、満月なのか、目を凝らさなければなかなか区別がつきません。

            満月だと見分けた時、同時に明日からまた欠けていくことをどこかで意識していたはずです。

            戦国の世の月がそうなのなら、平安の世の人々にとってもまた同じ存在だったに違いありません。

            平安時代の暦に関しては、mshibataさんのブログに詳しく書かれています。

            「年の内に春は来にけり」はどういうことなのか、など、分かり易くて、とても面白いので、ご興味のある方はぜひ。
             

            pearlyhailstone「平安時代の暦」




             

            .*+.*.。  月にまつわる和歌の中から  ゚+..*+
             

            天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 安倍仲麿

            『古今集』羈旅の部に「唐土にて月を見て詠める」という題でこの歌がのせられている。日本に帰ろうと明州から船出をする時、海上の月を見て詠んだ歌。

            安倍仲麿は16歳で遣唐使の中の留学生として唐に渡ったのち、ひとり唐に残り、玄宗皇帝に仕えた。

            32年後に、吉備真備らとともに遣唐使に交じり帰朝しようといとまを請い、明州から船出をしたが、藤原清河とともに暴風雨に遭い遠く流され、故郷へ帰ろうという望みは適わなかった。

            唐へ帰ると、皆船が沈んで死んだものと思って、李白なども「日本晁卿辞帝都、片帆百里繞蓬壺、明月不帰沈碧海、白雲秋色満蒼梧」という詩を作って嘆いていたところだったので、無事に帰った姿を見て皆喜んでかれらを迎えた(蓬壺=蓬莱山 蒼梧は湘南省にある山)。

            のちはかくて玄宗に再び仕え、今のベトナムの総督などを歴任し、その息子とともについに日本に帰らなかった。

            (参考:「百人一首物語」 吉井 勇著)


            道長の歌(5)〜解釈〜

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              道長の和歌の現代語訳を再掲します。

              (訳)この世を我が世と思う満月は、欠けていることもまたないと思うので

              定子や三条天皇に対する態度など、ひどい行いが多々ある道長ですが、それでものし上がった経緯を見ると、策略とかではなく、周りに好かれて中心に登っていった様子が伺えます。

              器量も知性もある人が、体調の悪さを自覚して尚、自分を省みることなく横柄な歌を詠むのか、あるいは文学を愛する人が、まるで話し言葉そのままのような和歌を自慢げに詠むのか。どうしても、この和歌の一般的な解釈への違和感があるのです。そこを起点に考察してきました。

              私の提唱する解釈はこうなります。

              この歌は満月のふたつの面を詠った歌で、そこに道長自身を重ね合わせた。

              満月は、夜をあまねく照らす存在。と同時に欠けているところがないということを取り立てて指すことで、翌日からは細くなっていく定めを強調している。

              (意訳)この世を我が世とばかりに煌煌と照らすあの満月は、まるで今の私のようだ。と同時に、欠けていることもなく極めた状態と思うので、明日からは細くなるばかりの運命をおのずと重ねるのだ。


               

              そこにあったのは嘆きでしょうか。誇りでしょうか。
               

              「小右記」には当初の引用より、もう少し長い祝宴の日の道長と実資のやりとりが書かれています。

              今回は、原文のまま記載してみます。

              今日、女御藤原威子を以て、皇后に立つるの日なり。(中略)太閤、下官を招き呼びて云はく、「和歌を読まんと欲す。必ず和すべし」てへり。答へて云はく、「何ぞ和し奉らざらんや」と。又云はく、「誇りたる歌になむ有る。但し宿構に非ず」てへり。

              此の世をば我が世とぞ思ふ望月の虧(かけ)たる事も無しと思へば

              余申して云ふ、「御歌優美なり。酬答するに方なし。満座只だ此の御歌を誦すべし」。

              【語釈】◇女御藤原威子 道長の娘で、後一条天皇の女御。◇太閤 道長。◇下官 著者実資を指す。◇宿構 前以て詩文を用意すること。「宿構に非ず」とは、この歌が即興であるということ。◇酬答するに方なし (御歌が優美過ぎて)私には報和するすべもありません、の意。
              【補記】原文は和歌以外は漢語(日本風の変体漢文)。なお当歌は『袋草紙』『続古事談』などにも道長の作として見える。

              引用元サイト:「やまとうた」の 千人万首ーよよのうたびとー


               

              何も知らず光り輝くまん丸の月を眺めながら、道長は誇らしげでした。

              何故に。

              考察はもう少し続きそうです。


               


              道長の歌(6)〜考察〜

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                千年の時を超えて、この歌を詠んだ時の道長の気持ちを捉えることはなかなか容易ではありません。

                織物の横と縦の糸に例えてみます。

                横の糸はおのれの家や家族です。藤原冬嗣(ふゆつぐ)が藤原氏による摂関政治を確立してから100年、生まれてきた時からその環境に置かれた道長にとって、摂政や関白を目指すのはごく自然のことでした。そこでは兄弟や甥でさえ、政敵でした。

                縦の糸は守るべき国体です。藤原氏の祖である中臣鎌足から受け継がれてきた精神です。国体とは天皇そのものでもありますし、天皇が守ってきたものとも言えます。

                織り上げていくものは何でしょう。

                ひとつは、はとこの藤原実資の存在です。傍流の九条流生まれの道長に比べて藤原北家嫡流の小野宮流家領を継いだ実資はより朝廷内の作法や法令などの故実に明るく、それだけに事あるたびに道長に子うるさく批難する人でした。その視点は道長がどれほど力を持とうがいつも公明正大を求めるものでした。

                主に実資の日記「小右記」に書かれている道長への批判から窺い知ることができるもので、当時の公家の日記は、実際の作法や儀式を後世へ伝える公式的な面がありましたから(※)、実資の日記も広く読まれていました。道長も目にしていたに違いありません。それなのに仲違いがなかったのは、道長の面前でもその姿勢は変えていなかったからでしょう。

                むしろ、当時から道長の批判者として知られながらも、日常生活ではお互いに一目置き、きわめて親密な関係を築いていました。

                もうひとつは道長自身の矜持です。それは時に甥である三条天皇へさえ向けられるものでした。道長が「一家三后」と呼ばれる地位にのぼりつめることで、余計な政敵同士の争いを避けることもできます。宮廷社会の安定は周りの公卿達も望むものでした。ある時から、その安定の中心に道長がいることが求められました。そのことは知らず自覚していたでしょう。

                若い時から、気前よく自らの衣を脱いでは下賜したり、官人の夜食を調達したり、豪放磊落な面は人を惹き付けました。その都度、実資の批難の元になりましたのはご想像のとおり。並ぶものなしとなってもよく泣き、よく怒る。機転もよい。魅力的な人であったことが窺い知れます。

                そして道長は権力の大半は手にしたかもしれませんが、天皇の権威を奪うことはぎりぎり避けることができました。それゆえの文化が華開いた穏やかな治世がそこにありました。
                 

                祝宴の夜、実資へ話しかけた時にあった。
                 

                中臣鎌足から受け継がれる精神を守り、国体を守れたことへの安堵感。

                そこには暴走しないように小言を続けてきた変わらぬ実資への感謝も込められていた。

                時のあはれ。

                実資への感謝。

                力を尽くすことができた安堵。

                胸に去来する様々な思い。昂然と湧き上がる。

                月としてこれ以上ない最高の輝きを得た。

                いつの間にか人生の極みに来たようだ。されど、後悔はなし。






                 

                ※道長の「御堂関白記」は当時の日記の中では珍しく、私的な日記として知られています。


                道長の歌(7)〜あまづたふ日、満ち欠けの月。〜

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                  この世をば わが世とぞおもふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
                   

                  祝いの宴にて。

                  「道長公、威子殿まで中宮となられるとはめでたさこの上なし」

                  「さかし、朝廷を支えこの世を謳歌した我が身の上は…」

                  盃にうつる月を見ることしばし。

                  「実資殿よ、あの月を見よ」

                  「ほんに、今宵の月は見事な満月で。いい月夜ですな」

                  「いや、思うていたのはそうではなく…明日からは細るばかりと知らぬは月ばかり」

                  「道長公?」

                  「まろに似てると思うてな。ふむ、一首できたぞ」短冊に筆を走らせる。

                  ・・・
                   

                  「どうだ、実資殿。歌で和してみよ」

                  「道長公、勘弁くだされ。かかるこまやかなる歌には応へらるまじ」

                  「わはは、すまぬ。今後とも何とぞ頼む。いい歌ができた。皆で誦してくれい」

                  にっこり笑うと道長は袂を払った。

                  「これもわが人生。今宵の景色はこの目に焼き付けておこうぞ。ささ、酒をついでおくれ」



                   


                  道長の歌(8)〜こぼれ話〜

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                    最後に、道長や実資を始めとするこの時代を生きた方達の、人となりを窺い知れる逸話を集めてみました。

                     

                     

                     

                    *.長徳三年(997)道長数えで32歳

                    この年の十月一日の孟冬旬の宴の最中、太宰府からの飛駅言上を取り次いだ近衛官人は、高麗の来寇を叫んだ。上下の者は驚愕し、道長をはじめとする三大臣は度を失って紫宸殿の東の階を降り、太宰大弐藤原有国の書状を読んだ。座を立つことなく冷静に対処した実資は、これを冷ややかに見ている。

                    結局これは奄美海賊の九州乱入に過ぎなかった。

                     

                    *.道長と一条天皇のぎくしゃくした関係

                    病弱でたびたび床に伏せる道長は、その都度、辞表や出家を一条天皇に申し出て困らせた。病脳平癒を期すという意味合いはもちろんある。だが、道長の本心は一条天皇の自分への信任を再確認しているだけというのを、若い天皇は汲み取ることができなかった。「弱気にならずとも。病体は邪気の引き起こすもの。そのままでいてくれ。」「ただその気持ちは受けとろう、出家するなら治癒してからでは如何か」となだめる一条天皇であった。心中複雑な様子の道長。

                     

                    *.長保元年(999)

                    秋、娘の彰子が一条天皇の元に入内するにあたり、道長は調度品の四尺屏風に貼るための和歌を人々に詠ませた。数人の公卿や花山法皇までもが和歌を贈る中、実資は「大臣の命を受けて、屏風に歌をつくるなぞ、未だに前聞なし」と断り続け、「きっと道長は不快であろうか」と気にしつつも「これは追従しているようなもの。一家の風は、どうしてこのようなものであろうか。嗟乎(ああ)、痛いことよ」と嘆いている。

                     

                    *.寛弘三年(1006)

                    大和守、源頼親の配下の当麻(たいまの)為頼と、興福寺の僧蓮聖との間の田をめぐる紛争に対し、大和国が蓮聖を提訴した。それに対して道長が下した判断は、蓮聖の公請(くじょう)の停止であった(僧が朝廷にて行う法会や講義からの閉め出し)。

                    これを一方的な措置とする興福寺の大衆(だいしゅ:僧兵)が沸騰する。七月七日に提出した愁状が返却されたのを承けて、十二日に三千人が大挙して上京してきた。

                    同日、興福寺別当の定澄が道長に脅しをかけたが、道長は全く屈しない。深夜には、僧達は京近くの木幡山に二千人を集めていることを知らせてきた。

                    翌十三日、実資を初めとする十人の公卿が道長の住まいを訪れ、口々に不安を口にするが、道長は「大した事はない。陣の定め(通常の評議)が開かれることになっている。内裏に参られよ」と語り皆と同行して内裏に参った。

                    通常の政務が終わるとその後に、朝堂院に参集している大衆を検非違使(けびいし)を遣わして追い立てるという宣旨を下した。告げられたものは次のとおり。「僧達が参上しているというのは道理が無い。早く奈良にまかり還った後、愁訴したいことあれば、僧綱が訴えるように。もしこのような事が有ったのならば不都合ではないか」。

                    十四日には、大衆はすべて退去した。十五日に別当以下の高僧が道長の住まいを訪れ、道長が彼らの申文四箇条を一々裁定したところ、僧達は道長の裁定が事毎に道理であると称して還り去った。

                    中世の僧兵や、それに対する朝廷の対応と比べると、隔世の感がある。

                     

                    *.長和元年(1012)

                    三条天皇の世になって早々、明けて正月三日、女御となっていた次女の妍子を中宮にせよとの宣旨が天皇から道長のもとへもたらされた。二月十四日に、妍子は立后の日を迎える。

                    三月に入ると、今度は天皇の寵愛深き女御娍子を皇后とすることを決断する。すでに第一皇子を初め、六人の皇子女を儲けていたとはいえ、大臣の後ろ盾のない者を皇后にすることは平安時代にはまれなことであった(他には一例しかない)。天皇の方から「一帝二后」を提案するとは何としたことだろう。

                    道長は対抗する。娍子の立后の日に、妍子の初の内裏へ参入する入内の日をぶつけてきた。入内前後の響宴に公卿達は集まり、出席を促しに来た使者へ酒の上とはいえ、瓦礫を投げつける参議もいる始末。

                    実資はこの日は病身の身であったが、「天に二日なし、土に両主なし。なんの巨害(道長)を怖るることあらん」と床を抜け出し参入した。

                    結局、娍子立后の為に内裏に集まった公卿は実資の他、藤原隆家・懐平・通任(娍子の異母弟)の四人のみとなり、寂しい儀式となった。

                     

                    *.道長の病脳

                    同年五月末から道長は重く病脳した。

                    六月四日には、内覧と左大臣の辞表を奏上した。一条天皇とのやりとりに慣れきっていた道長にとって、二度目の上表を三条天皇が受けとったまま返却しないことは衝撃だった。「命を惜しむものではないが、一条を失った娘、彰子のことだけが気掛かりである」と涙ながらに実資に語っている。

                    六月末には、道長の病脳を喜悦している公卿が五人いるとの噂が広がっていた。先の四人に加え、道長の兄の道綱までがということであった。道長は「道綱と実資に限ってそういうことはない」と述べて、噂を立てられた以上運を天に任せるしかないと嘆息していた実資を安堵させている。

                     

                    *.道長の三条天皇への思い

                    一本気な三条天皇と道長は譲位が成立するその時まで対立が止むことはなかった。三条天皇は何とか親政に戻したいとの意志を持ち続けていた。そうでなければ愚頑であると。そのために命を長らえたいと娍子の立后の儀式の後に実資に語っている。

                    寛仁元年(1017)の五月九日深夜、流行り病に罹っていた三条院は崩御された。

                    道長は臨終に際して御側に仕えることなく、「ただいま無力にあらせられます」と聞くや地面に降り立った。そして崩御の後に退出している。

                    十二日に行われた葬送では、道長はきわめて手際よく準備を整えたものの供奉しなかった。記すところには「志がなかったわけではない。身に任せなかったのである」と。なお、翌年の三条院の周忌法要の際には、「私は病脳していたので自らは参らなかった。嘆き思うことは少なくなかった」と「御堂関白記」に記している。

                     

                    *.刀伊の入寇

                    ここに藤原隆家あり。若い頃から天下の「さがな者」(荒くれ者)であった。叔父であり、政敵でもある道長から「こころたましい」(気概)は見上げたものと認められ、世間一般からも道長の権力に屈せず娍子の立后の儀式に参加した気骨者とされた。

                    眼病の治療と道長の圧迫から逃れるため、遠地での任務に心ひかれ、実資の勧めや同じく眼病に悩む三条天皇のいたわりにより、長和三年(1014)に太宰府の実質の長官である、大宰権帥に任じられた。

                    寛仁三年(1019)刀伊の入寇が起こる。女真族(満州民族)の一派とみられる海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前へ侵入した事件である。これを隆家は見事、撃退する。

                    その後、部下への恩賞を懇請した隆家の申し出に対し、朝廷にて諸国申請雑事定が行われた。道長へのおもねりに加え、各地の在庁官人や豪族が日増しに武力を増す現状に危機感を覚える大納言公任や中納言行成は、追討の勅符の到着を待たずに戦った隆家の行いに対して文官統治の観点から、「私闘である」と異議を唱える。これに対し、実資は問題があったことは認めつつも「今回の事件は、外敵が警固所に肉薄し、各島人が千人余りも誘拐され、数百人が殺された。壱岐の守藤原理忠も戦死した。しかし、太宰府は直ちに軍を動かしてこれを撃攘せしめた。何故に賞さないことがあろうか。もし賞さなければ、今後進んで事に当たる勇士はいなくなってしまうであろう」と弁じ立てる。

                    これに公卿達は次々に同意した。ついに皆意見を同じくし褒賞が決議された。当時既に出家し、摂政を息子の頼通に譲っていた道長もこれを是としている。

                    実資はこの時、右大臣に任じられるかどうかの大切な時期であったが、付和雷同することなく、ものごとの道理を滔々と述べている。

                     

                     

                     

                    道長の取った道は全て褒められたものとは言えないかもしれません。ただ、そう、ここで私が何か言うことは蛇足になりましょう。

                    道長の和歌にまつわるエントリーはひとまずこれにて。

                     

                    参考書籍:倉本一宏「藤原道長の権力と欲望」文春新書

                    参考Web:Wikipedia(フリー百科事典)

                     

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                    ゆめもめぐみもきかまほし〜「天皇の料理番」のエピソードから〜

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                       秋山徳蔵が妻俊子を亡くしたのは、大正天皇がお隠れになって間もない頃でありました。皇太后(貞明皇后)から悔やみのお言葉を頂いた徳蔵が大宮御所までその礼に参ると、皇太后は入江大夫を通じて1体の人形を賜ります。

                       亡くしたのは妻であるのに。

                       翌日、徳蔵は再び大宮御所へ赴き、入江大夫に人形を頂いた件で礼を述べます。

                       それに大夫は歌で応えて。
                       

                      亡き妻の ゆめもめぐみも きかまほし 世々につたえよ これの人形(ひとがた)


                       

                      「きかまほし」… 聞きたい。聞いてみたい。

                      【動詞】「聞く」の未然形の「きか」+【助動詞】「〜まほし」([願望]を表す)

                       残された子供を大切にせよとの意味が込められた人形と、俊子の心情へ思いを馳せたこの和歌の書かれた色紙は、秋山家の家宝となりました。

                       秋山徳蔵は「忘れ得ぬ2人の婦人」として、貞明皇后と妻俊子の名前を挙げていたといいます。


                       

                      .*+.*.。 「めぐみ」 ゚+..*+
                       

                      元々、「めぐみ」は「恵」とも「恩」とも書いた。

                      恩は、許慎の「説文解字」によると、後漢時代の中国ではすでに「恵(めぐみ)」という意味であったし、日本でも「日本書紀」や「古語拾遺」などで、「めぐみ」「みうつくしみ」「みいつくしみ」という読み方が為されていた。

                      言葉の語源にさかのぼれば、「芽ぐみ」となる。春に草木が芽ぐむことから。

                      春の陽気に誘われて草木は目覚め、生命力がはぐくまれていくのと同じように、他者に命を与えたり、命の成長を助けるということ。
                      「恵」と書けば人から人へ渡るものでもあるし、「恩」であれば師や親からだけでなく、友人同士で互いに睦み合う中で生まれるものでもある。
                       


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