最後に、道長や実資を始めとするこの時代を生きた方達の、人となりを窺い知れる逸話を集めてみました。
*.。長徳三年(997)道長数えで32歳
この年の十月一日の孟冬旬の宴の最中、太宰府からの飛駅言上を取り次いだ近衛官人は、高麗の来寇を叫んだ。上下の者は驚愕し、道長をはじめとする三大臣は度を失って紫宸殿の東の階を降り、太宰大弐藤原有国の書状を読んだ。座を立つことなく冷静に対処した実資は、これを冷ややかに見ている。
結局これは奄美海賊の九州乱入に過ぎなかった。
*.。道長と一条天皇のぎくしゃくした関係
病弱でたびたび床に伏せる道長は、その都度、辞表や出家を一条天皇に申し出て困らせた。病脳平癒を期すという意味合いはもちろんある。だが、道長の本心は一条天皇の自分への信任を再確認しているだけというのを、若い天皇は汲み取ることができなかった。「弱気にならずとも。病体は邪気の引き起こすもの。そのままでいてくれ。」「ただその気持ちは受けとろう、出家するなら治癒してからでは如何か」となだめる一条天皇であった。心中複雑な様子の道長。
*.。長保元年(999)
秋、娘の彰子が一条天皇の元に入内するにあたり、道長は調度品の四尺屏風に貼るための和歌を人々に詠ませた。数人の公卿や花山法皇までもが和歌を贈る中、実資は「大臣の命を受けて、屏風に歌をつくるなぞ、未だに前聞なし」と断り続け、「きっと道長は不快であろうか」と気にしつつも「これは追従しているようなもの。一家の風は、どうしてこのようなものであろうか。嗟乎(ああ)、痛いことよ」と嘆いている。
*.。寛弘三年(1006)
大和守、源頼親の配下の当麻(たいまの)為頼と、興福寺の僧蓮聖との間の田をめぐる紛争に対し、大和国が蓮聖を提訴した。それに対して道長が下した判断は、蓮聖の公請(くじょう)の停止であった(僧が朝廷にて行う法会や講義からの閉め出し)。
これを一方的な措置とする興福寺の大衆(だいしゅ:僧兵)が沸騰する。七月七日に提出した愁状が返却されたのを承けて、十二日に三千人が大挙して上京してきた。
同日、興福寺別当の定澄が道長に脅しをかけたが、道長は全く屈しない。深夜には、僧達は京近くの木幡山に二千人を集めていることを知らせてきた。
翌十三日、実資を初めとする十人の公卿が道長の住まいを訪れ、口々に不安を口にするが、道長は「大した事はない。陣の定め(通常の評議)が開かれることになっている。内裏に参られよ」と語り皆と同行して内裏に参った。
通常の政務が終わるとその後に、朝堂院に参集している大衆を検非違使(けびいし)を遣わして追い立てるという宣旨を下した。告げられたものは次のとおり。「僧達が参上しているというのは道理が無い。早く奈良にまかり還った後、愁訴したいことあれば、僧綱が訴えるように。もしこのような事が有ったのならば不都合ではないか」。
十四日には、大衆はすべて退去した。十五日に別当以下の高僧が道長の住まいを訪れ、道長が彼らの申文四箇条を一々裁定したところ、僧達は道長の裁定が事毎に道理であると称して還り去った。
中世の僧兵や、それに対する朝廷の対応と比べると、隔世の感がある。
*.。長和元年(1012)
三条天皇の世になって早々、明けて正月三日、女御となっていた次女の妍子を中宮にせよとの宣旨が天皇から道長のもとへもたらされた。二月十四日に、妍子は立后の日を迎える。
三月に入ると、今度は天皇の寵愛深き女御娍子を皇后とすることを決断する。すでに第一皇子を初め、六人の皇子女を儲けていたとはいえ、大臣の後ろ盾のない者を皇后にすることは平安時代にはまれなことであった(他には一例しかない)。天皇の方から「一帝二后」を提案するとは何としたことだろう。
道長は対抗する。娍子の立后の日に、妍子の初の内裏へ参入する入内の日をぶつけてきた。入内前後の響宴に公卿達は集まり、出席を促しに来た使者へ酒の上とはいえ、瓦礫を投げつける参議もいる始末。
実資はこの日は病身の身であったが、「天に二日なし、土に両主なし。なんの巨害(道長)を怖るることあらん」と床を抜け出し参入した。
結局、娍子立后の為に内裏に集まった公卿は実資の他、藤原隆家・懐平・通任(娍子の異母弟)の四人のみとなり、寂しい儀式となった。
*.。道長の病脳
同年五月末から道長は重く病脳した。
六月四日には、内覧と左大臣の辞表を奏上した。一条天皇とのやりとりに慣れきっていた道長にとって、二度目の上表を三条天皇が受けとったまま返却しないことは衝撃だった。「命を惜しむものではないが、一条を失った娘、彰子のことだけが気掛かりである」と涙ながらに実資に語っている。
六月末には、道長の病脳を喜悦している公卿が五人いるとの噂が広がっていた。先の四人に加え、道長の兄の道綱までがということであった。道長は「道綱と実資に限ってそういうことはない」と述べて、噂を立てられた以上運を天に任せるしかないと嘆息していた実資を安堵させている。
*.。道長の三条天皇への思い
一本気な三条天皇と道長は譲位が成立するその時まで対立が止むことはなかった。三条天皇は何とか親政に戻したいとの意志を持ち続けていた。そうでなければ愚頑であると。そのために命を長らえたいと娍子の立后の儀式の後に実資に語っている。
寛仁元年(1017)の五月九日深夜、流行り病に罹っていた三条院は崩御された。
道長は臨終に際して御側に仕えることなく、「ただいま無力にあらせられます」と聞くや地面に降り立った。そして崩御の後に退出している。
十二日に行われた葬送では、道長はきわめて手際よく準備を整えたものの供奉しなかった。記すところには「志がなかったわけではない。身に任せなかったのである」と。なお、翌年の三条院の周忌法要の際には、「私は病脳していたので自らは参らなかった。嘆き思うことは少なくなかった」と「御堂関白記」に記している。
*.。刀伊の入寇
ここに藤原隆家あり。若い頃から天下の「さがな者」(荒くれ者)であった。叔父であり、政敵でもある道長から「こころたましい」(気概)は見上げたものと認められ、世間一般からも道長の権力に屈せず娍子の立后の儀式に参加した気骨者とされた。
眼病の治療と道長の圧迫から逃れるため、遠地での任務に心ひかれ、実資の勧めや同じく眼病に悩む三条天皇のいたわりにより、長和三年(1014)に太宰府の実質の長官である、大宰権帥に任じられた。
寛仁三年(1019)に刀伊の入寇が起こる。女真族(満州民族)の一派とみられる海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前へ侵入した事件である。これを隆家は見事、撃退する。
その後、部下への恩賞を懇請した隆家の申し出に対し、朝廷にて諸国申請雑事定が行われた。道長へのおもねりに加え、各地の在庁官人や豪族が日増しに武力を増す現状に危機感を覚える大納言公任や中納言行成は、追討の勅符の到着を待たずに戦った隆家の行いに対して文官統治の観点から、「私闘である」と異議を唱える。これに対し、実資は問題があったことは認めつつも「今回の事件は、外敵が警固所に肉薄し、各島人が千人余りも誘拐され、数百人が殺された。壱岐の守藤原理忠も戦死した。しかし、太宰府は直ちに軍を動かしてこれを撃攘せしめた。何故に賞さないことがあろうか。もし賞さなければ、今後進んで事に当たる勇士はいなくなってしまうであろう」と弁じ立てる。
これに公卿達は次々に同意した。ついに皆意見を同じくし褒賞が決議された。当時既に出家し、摂政を息子の頼通に譲っていた道長もこれを是としている。
実資はこの時、右大臣に任じられるかどうかの大切な時期であったが、付和雷同することなく、ものごとの道理を滔々と述べている。
道長の取った道は全て褒められたものとは言えないかもしれません。ただ、そう、ここで私が何か言うことは蛇足になりましょう。
道長の和歌にまつわるエントリーはひとまずこれにて。
参考書籍:倉本一宏「藤原道長の権力と欲望」文春新書
参考Web:Wikipedia(フリー百科事典)
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